潜入! 今戸一家3
自分の役員報酬を確保するとトラキチはまたも悠々とアジトを出て行った。背中には器用に紐で飲料入りのアルミ缶が結わえられている。奪われないようにどこかに隠れて飲んでいるのかとも思い聞いてみたが、はぐらかされた。
隠されれば暴きたくなるのが人情というもので、私はこっそり彼の後をついていくことにした。実力者と呼ばれるだけあって勘が鋭いのか、何度も後ろを振り返り、周囲を警戒している。わざと道を間違えたふりをしたり、曲がった後に立ち止まってみたりする徹底ぶりである。私がカエルやテントウムシや電柱に化けられなければとっくにバレていただろう。流石に自分が通ってきた道に一本電柱が増えていた時はいぶかしげな顔をしていたが、気のせいかと首をかしげてくれたおかげで助かった。
尾行をして辿り着いた先には白い壁の一軒家があった。その家の垣根を飲み物を背負ったままトラキチは軽快に登り、コツコツと窓を叩いた。家の中から一匹の白いメス猫が顔を出した。赤い首輪をつけた毛並みの整った猫である。家猫に会う機会は滅多になかったが、確かに野良と比べると仕草が上品に見える。だが目がギラギラしているのは変わらない。
彼女は跳躍し、窓の鍵を手をかけるといとも簡単にそれを開けてしまい、外へと出た。もう少し近づいて話を聞きたかったが、向こうは見通しの良い高所にいるため、猫の姿のまま近づけば確実にバレるし、より小さい昆虫などには悲しいかな、長時間化けていられるだけの技能がない。
トラキチがへどもどしながら何か言おうとしているのを気にもかけず、メス猫はさっさと彼の背中からアルミ缶を奪い取るように手にすると、どこかで見たようにキャンキャン喚きながらなんとかプルタブを開けて、恍惚とした表情を浮かべながらごくごくと飲み始めた。
トラキチが口下手なりに色々と話しかけ、彼女が小さく頷いて、それで頬を赤くしたトラキチが様々まくしたてるというやりとりを何度かした後に話題が尽きたのか、二匹とも黙り込んでしまった。ここで「ヤア、奇遇だね、トラさん。オヤ、そちらのお嬢さんは?」などと言いながら出て行って二人の会話の糸口を作ろうとするほど私は野暮天ではない。ロクマルの結婚前にそれをやって、叔母上に死ぬほど怒られた記憶があるからネ。
あまりにもじれじれとした雰囲気に、私の中のお見合いおばさんが顔を出そうとしたちょうどその時、ぽつりと鼻先に水滴が垂れてきた。上を見上げるといつのまにやら濃い灰色の雲が空を覆い隠していた。ぽたぽたと次いで顔に雨が降ってきた。この調子ではすぐにでもざあざあ降りとなるだろう。この辺りに学校があったはずだ、そこで雨を凌ごう。今日は確か人間たちが土曜と呼ぶ、大人は働くが学生は休みの日だったはずだから、猫が入り込んでも騒ぎにはならないだろう。というか学校に限らず、猫の姿で入り込むと可愛がられておやつまでもらえるのに、ネズミの姿で入り込むとこの世の終わりのような悲鳴を上げられるのは何故なのか。
私がそんな愚痴を考えている間に同じように雨に気付いたトラキチは白猫に別れのあいさつを済ませ、彼女がきちんと窓を閉めるのを確認するとさっさと移動を始めてしまった。彼の行く先を見るに私と同じ考えを持ったらしい。付かず離れずの距離を保ったまま尾行し、彼が屋根の下に腰を下ろしたところで、さも偶然と言った調子に声をかけた。
「やあ、トラさんも雨宿りかい?」
「おうおめえか。どうしたこんなところで」
「この辺りはヒトがいっぱい住んでいるって聞いてさ。何か貢いでもらえるんじゃないかと思ってぶらついてたのさ。そしたらこの雨だろう? まいっちゃうね」
「食い意地の張った野郎だな。まいっちゃうって、今朝からずっと曇り空だったじゃねえか。こんな日は屋根のあるところでゴロゴロしているに限るぜ」
「そうは言われても腹は減るからね。現にトラさんだってこうしてぶらついているじゃないか。ひとの食い意地の事を言えねえやな」
「一緒にするんじゃねえよ」
「なんだい? じゃあ別の用事があったのかい?」
そう言うとトラキチはぐっと言葉に詰まった。私は前足を上げて小指だけ動かして「コレかい?」と尋ねた。ちなみにネズミの間ではこの合図は通じない。なぜって我々には小指がないからね。
「てめえ、つけてやがったな?」
トラキチがぐるぐると喉を鳴らしてこちらをねめつける。私はへへっと笑って肩をすくめておどけて見せた。
「しかしね、なぁるほど。トラさん、あの白猫にほの字って訳だ」
「べつにそういうんじゃねえよ」
トラキチはばつが悪そうに目を逸らした。微かに赤面している辺り図星だろう。結婚前の弟を思い出すやり取りだ。
「照れるこたぁねえだろう。良いじゃないの。惚れた腫れたの何が悪いよ。たった一度の命だもの、見とれた女に看取られたい。分かるよぉ、分かる!」
「おめえ、馬鹿にしてんだろ!?」
断じてそんなことはないのだが。
「そういや、独り身といえば又七郎の親分も独り身かい? 奥方を見かけないが」
「さぁてな。俺も見かけたことがない。結婚していなくても不思議じゃねえがな。奴は猫嫌いだからな」
「猫嫌い? そいつは初耳だ」
少なくとも今回の潜入以前のかつての情報収集では耳にしたことがない。
「嫌いじゃなきゃ横紙破りをした奴や下剋上を目論んだ奴をあそこまで痛め付けたりはしないさ」
トラキチの話によると又七郎は自身への背信と思われる行為をおこなった猫に対して度々、過激な制裁を加えているとのことだ。高い木の枝に尻尾を縛り付けて三日三晩宙吊りにしたり、手の届かない甕の中に入れて、徐々に水を流し込んだりしているらしい。
「そりゃあ、今の地位を取られるのが嫌なんじゃないのかい?」
「なら普通維持するための努力をするだろう。あいつはそういうのを一切しない。猫たちを治めようなんて考えちゃいない。やったことと言えば例のブツの話をどこからか持ってきただけだ。それも俺にやらせているしな」
確かに本人が自分が言っても言うことを聞かないから言っても無駄だと言っていた。
「ただ他の猫が親分になるのだけは許さない。あいつは多分自分の下で猫どもがうごうごやっているのを眺めるのが好きなのさ。神様のつもりか知らねえがな」
トラキチはしとしと雨を降らし続ける灰色の厚い雲をぼんやりと眺めながら口にした。
「本当は自分だって猫のくせにだ。それが許せねえんだろう。だからあいつは猫が嫌いなのさ。猫の自分が嫌いだからな」
***
「昔、猫は稚産霊神さまの神使だった。といっても俺も会ったことがあるわけじゃねえ。もう神使が選ばれることはなくなったからな」
日向ぼっこをしつつ、アジトの朽ちかけたコンクリートで暇を持て余すように爪を研ぎながら、又七郎はそう告げた。今まで色々な手段で猫の事を調べてきたが、肝心の猫自身に聞くことをしていなかったと思い、話を振ったらそう教えてくれた。言ってみるものだ。
木の棒に刺した雀を一つ又七郎に投げて渡す。枯れ葉と枝、廃材を集めて、拾ったマッチで火を着けて調理したものだ。
アジトの庭先で火を使っていたら、通る猫通る猫全てに頭のおかしい奴を見るような目で見られた。その後、話が又七郎まで及んだのか、こうして見物に来たらしい。今、投げ渡した分は黙認してもらうための賄賂である。
このアジトは人が住まなくなって久しい家屋であるらしく、そこかしこが崩れかけているため、着火材には困らない。最悪廃材に引火して全焼したとしても、猫どもの住み家が無くなると考えれば、もはや勝利である。「火、使ってもいいですか?」と聞いたところ、「おう、好きにしろ、好きにしろ」とゲラゲラ笑いながら言っていたので、たぶんこいつもいっそ全部燃えて無くなった方がせいせいするに違いないとでも考えているのだろう。猫と思考が似通っているというのは、化け術的には素晴らしいことなのだが、なんとも複雑な気分である。
「と言いますと?」
先程の話は、ネズミで言うなら『大黒ネズミ』が無くなるということである。人々に吉兆を報せ、時に大黒天さまの乗り物にもなるお役目そのものが消えるということだ。神から賜る仕事が無くなるということは神から賜る報酬もまた無くなる。神使となれば病と無縁となり、死から遠ざかり、親族もその恩恵を受ける。それゆえネズミたちは親と子でさえ争う。もしネズミで同じことが起きたら大混乱だ。自分には『大黒ネズミ』になる見込みもなければ、そのための努力もしていないくせに、抗議活動と称して集団で川にでも飛び込むスカタンが大量発生する。賭けてもいい。
「稚産霊神さまは養蚕の神だった。だが今この国で、この都会で、蚕を育て糸を取り、生計を立てる人間がどれほどいる? 人はもう稚産霊神さまを信じない、有り難がらない、敬わない。蚕を育てないのであればそれを食っちまうネズミを捕るための猫もお役御免という訳よ」
焼けた雀をむしゃむしゃと頬張りながら、又七郎が言う。
ひとつの文化の盛衰を語るというのにその口調には侘しさのようなものは一切含まれていなかった。言葉にしてこそいないが、無くなっちまってせいせいしたぜと今にでも付け加えそうなぶっきらぼうな口振りだ。今戸又七郎という猫はきっと琵琶法師にはなれまい。かといって大人しく三味線になるようなタマでもないだろうが。
「かつてはネズミ共と同じように猫の神使も代替わり制だった。決まりはたった一つだけ。一年の内に最も多くのネズミを捕った者が、稚産霊神さまの神使となった。そしてそいつが頭領になる。今じゃ決まりだけが残って神様が数えてくれなくなったから、年末の一週間だけでてめぇらで数えて頭領を決めてる」
「……」
私の脳裏に昨年末の虐殺の光景がよぎる。
「食われるために殺されるならネズミも本望だろうよ。それは自然の道理ってもんだ。だがあれは違う。政のために殺している。俺は最後はネズミに殺されるだろうと、そうなるべきだろうとずっと思っている。道理を破ったならそれ相応のしっぺ返しがあるべきだ」
変わった猫だ。こんな猫もいるのだな、と感心した。猫というものは自分の道理こそが世の中の道理とそう考えるものだとばかり思っていた。猫らしくない。そう思うとくすりと笑えた。
「親分を殺せるネズミがいますかね?」
「ところが一匹いるんだな、これが」
「へえ、どこのどいつです?」
私のこと、と思うほど自惚れてはいない。そもそも私の存在が又七郎に認知されているようなら、この潜入任務は失敗である。
「俺の本当の名前を知っているこの世で唯一のネズミさ。……今でこそ今戸又七郎だが元は別の名前だった」
「へぇ、なんて名前だったんですか?」
「さぁね、忘れちまったよ」
「親分、そういう時は『俺の名前はいっぱいあってな』っていうのが決まりですよ」
「どこの田舎の決まりだ、そりゃ」
「ところがどっこい、江戸川です」
「隅田川より向こうじゃねえか。田舎だよ」
「乱暴なお人だな、それじゃ回向院まで田舎じゃねえか」
「飼い殺して勝手に供養して、天国でも幸せにね、なぁんてお涙ちょうだいで喜んでんだ。田舎モンだろぉよ」
滅茶苦茶である。だがそのなんとも破天荒で刹那的な生き方に、私は深い共感を覚えた。親の仇である、兄弟の仇である。だが私は彼と友達になりたいと思ったのだ。
「親分、これも食べますか?」
私が焼いておいた物を差し出すと怪訝な顔をして、覗き込んできた。
「なんだぁ、そりゃ?」
「チーズですよ、焼くとうンまいですぜ」
「おいおい、そりゃネズミの食いもんだろ」
「つまり実質ネズミ食ってるようなもんですよ」
「そうか……。そうか?」
又七郎が首をひねっている。それから少しの躊躇いの後、チーズを口にした。
「おお、伸びる伸びる」
私も自分の分を口に運ぶ。こいつの良いところは食べ終わった後も指と口の周りが美味しいということである。
「どっから見つけてきたんだ、こんなもん」
「買い物帰りの人間から掻っ払ってきました」
「滅茶苦茶だな、てめえ」
私の言葉を聞くと、とても楽しそうに笑った。
「いやね、トラさんがネズミは襲うなと言うものだから、ヒトなら文句あるめえと思いまして」
「確かに。そんな決まりは作ってなかった。いや、まさか俺もヒトを襲ったら、駆除されるに違いないから止めよう、と考えるだけの知恵もねえ阿呆がいるとは思わなかったからよ」
私も彼も共にゲラゲラ笑った。このしがらみの無さが私は好きだ。しがらみが無いとは無法であるということである。猫とは無法の生き物なのだ。




