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ねずみ録  作者: mozno
第四章 家族

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【幕間】叔母の手紙1


 小石川へとやってきた。通いなれた道を辿って叔母の家へと向かう。いつものように昼飯をご馳走してもらいにきた訳ではない。作ってくれる者はもういない。遺品の、整理に来たのだ。

 隣には伯父の一郎太が連れ立っていたが、道すがら一言も発しはしなかった。

 一里塚のように積まれたホウ酸団子を横目に、大樹の内部に続く小さい玄関をくぐり抜けた。

 居間はつい先日訪れたままになっていて、変わったことと言えばサンゴが練習した習字紙が、ずっと昔に私が書いた物の隣に飾られているくらいだった。

 息が詰まりそうになるのを誤魔化すために伯父に話しかける。

「伯父貴は二階を頼むよ、もし……、無いとは思うけど遺書があったら教えてくれ」

「あぁ」

 意識があるんだかないんだか気の抜けた返事をして、よたよたと階段を登っていった。大丈夫か? 着いていく方が良いかと思ったが、私は私でせねばならぬことがある。


 叔母の最期の言葉に従うならば、彼女は台所に何かを残しているとのことだった。台所に向かう途中、すきま風の寒さに気付く。まだ真冬には遠い。にも関わらずこの寒さだ。彼女はこんな所で一人で暮らしていたのか。私かロクマルに言ってくれればどうにか出来たのに。だが今更気が付いた所であまりに遅すぎる。

 暖炉の上にマッチが出しっぱなしになっていたから、既に使用していたことを察した。それを使って私は暖炉に火を着けた。

 裏返し、ためつすがめつ入れ物を見る。中身はそこそこ減っているのに見覚えがない。どこにしまってあったのだろうと、周囲を見回した。


 暖炉の横に飾ってある小さな額縁に、蝶番がついていた。絵画の収められた蓋を外すとキィと年季の入った音がした。中は二段の棚になっており、四隅をネジで留めてある。壁に穴を開けて嵌め込み式にしてあるのだ。叔母がロクマルに見せろと言った意味が分かった。これはまさしく父の遺品だ。

 棚の中には瓶詰めの金平糖と、その他いくつかの菓子の他に、封をした手紙が置かれていた。宛名に「根津三六さま」と叔母の神経質そうな、しかし丁寧な字で書かれていた。


 私宛てに遺された手紙は次のような書き出しで始まった。

「この手紙をあなたが読む頃には私はすでに死んでいると思います。最近、体の衰えを感じるようになって自分の死期が近いことを悟りました。このまま死ぬことに恐怖はありません。ですが何度となく私を気にかけてくれたあなたに真実を伝えぬままこの世を去ることはあまりにも不誠実ではないかと思い、筆をとりました。本当のことをいうと、死ぬことよりもよほど私のしたことが世に知れることのほうが恐ろしいのです。だから私は今こうしてこの手紙を書きながらも、あなたがこれを見つけないでいてくれることを願っているのです。私は卑怯な女です」


 ***



 子供の頃から兄のことが嫌いだった。

 長男として産まれ、いずれ家を継ぐからと周囲に甘やかされた彼はガキ大将気取りで子分を引き連れてそこかしこで問題ばかり起こしていた。

 一度だけ兄に頭を叩かれたことがある。

 さほど強い力ではなかった。ふざけてそうしただけとすぐに分かったし、その後、兄は両親に叱られもした。だがそれは私が生まれて初めて体験した理由のない暴力であった。

 兄が生きていた頃にずっと感じていた不信感、反感はきっとその時に根付いたのだと思う。


 男性のことは昔からよく分からないが、今でも理解しかねるのはあの兄を揃って持て囃し、好き好んで後ろをついて回る者が少なからずいたことだ。

 兄は家業を継ぐための修業もせず、年下ばかりで身の回りを固めて遊び呆けている。不真面目で不誠実で小心者の、お手本のようなネズミだった。

 昔、兄に紹介されて子分の一人だというオスネズミと顔を合わせたことがある。ガリガリに痩せていて顔色が悪く、前歯は左右が不揃いのみすぼらしいネズミだった。

 何を話したかは覚えていない。終始手持無沙汰で、家に帰ることばかり考えていたと思う。覚えているのは彼が私をじろじろ見てくるのが嫌だなと思ったことと、私の態度が不満だったのか帰り道で不機嫌だった兄にかつてのように頭を叩かれるのではないかとびくびくしていたことだけだ。

 結局叩かれることはなかったが、その頃には私の兄嫌いは男嫌いに変わっていた。


 同じ女でも分からないことは多くある。何度か初めて会った年上の女性から、兄への手紙を預かったことがある。

「マルヒトさんへ」と丸っこい字で書かれたそれを兄の元へ持っていくと、彼は決まって上機嫌になり、どこからくすねてきたのか金平糖を私にくれた。

 一度だけ、兄の結婚が決まった後に、同じように手紙の配達を頼まれたことがある。受け取った兄は慌てふためいてどこかへ出かけていった。遅くに帰ってきた彼は全身ぼろぼろで体のそこかしこの毛を毟られていた。私は金平糖が貰えなかったのが大いに不服だった。

 私が配達していたのが恋文だと気付いたのは随分後になってからだった。

 切っ掛けは兄の結婚式だった。義理の姉が心から幸せそうに微笑むのを見て、彼女に対し同情を抱いていた私は大きな衝撃を受けたのだ。あの粗野で乱暴で調子に乗りやすく、浮気な兄を愛する者もいるのだ。そう理解した時にあのお姉さんたちは兄のファンだったのだと、それが少なくない数いたのだという事実に気付き、私は愕然とした。

 どうして星の数ほどいるネズミの中から好き好んであんなのに惚れるのだろう? それともあんなのが一番マシな部類なのかしらと。

 生前の義姉に冗談めかして聞いてみたことがある。

「義姉さんは兄さんのどこが好きなの?」

 義姉は答えた。

「う~ん、全部、かしら?」

 頬を赤らめた彼女を、私はもはや理解不能な別の動物だと思った。彼女が好きだと答えたものは、私が一等嫌いなものだったからだ。

 ネズミ社会でどんどん地位を高め、周囲から認められていく兄を見ているうちに、私の男嫌いはネズミ全体への不信となり、恐怖へと変わっていた。


 兄夫婦に子供が産まれ始めてから、しばらく経った後、私の結婚話が持ち上がった。相手は次の大黒ネズミと噂される護国院の(せがれ)だった。良い相手だ良い相手だ、妹想いのお兄さんを持って幸せねと周囲から言われて、非常に疎ましかった覚えがある。だが、何度か見合いを重ねたのち、正式に結婚が決まった時の私の喜びは筆舌に尽くしがたかった。やっと兄から離れ、彼を評価する者しかいない場所からおさらばできるのだ。

 結婚の祝いにと言って、兄は私に自分の子供の名付けをさせた。正直に言うと、自分の人生を縛られるようで嫌だったが、結局私が弥勒菩薩に(あやか)り、ミロクと名付けることになった。それは夫の提案した三六太(さぶろうた)という名前があんまりだったからだ。

 結婚生活はさして幸福でも不幸でもなかったように思う。短すぎてよく覚えていないだけかもしれない。私が子供の出来ぬ体だと分かった後、とんとん拍子に離縁にまで話が進んだ。兄のいる実家に戻るのは嫌で、それは悲しかったが、夫と別れることに関しては別段感想はなかった。離縁してからしばらくして気付いたことだが、幼い時分に兄に引き合わされたあの痩せたみすぼらしいネズミこそ、かつての夫だったのだ。だとすれば私はなんと薄情な女だろうか。彼はありし日より私を妻とすることを望んでいたというのに、当の本人はろくに覚えてもいなければ別れを惜しんですらいないのだから。だが私はここで自己嫌悪を覚えるのではなく、言ってくれれば良かったのにと不平を覚えるような性質(たち)だった。


 実家に帰りたくなくて、自分のせいで両家に軋轢が生じて申し訳ないだのなんだの、心にもないことを言って少し離れた小石川の辺りに居を構えた。

 幸い手先は器用な方だったから、小物を作ったり、当時流行っていた手紙の代筆をしたりして、節約をすれば困らぬ程度には暮らして行けた。

 振り返ってみるに、私は日頃より少し考えてみれば分かるようなことを平気で放置して、後になってから青天の霹靂を与えられるということがあまりにも多かった。それはひとえに他者への興味のなさが如実に現れた結果と言える。

 そんな他者への関心の薄い私が、なぜあの日、自宅のすぐ近くでホウ酸入り団子を食べてひっくり返っている猫を助けたのか、今でも分からない。


 そのオスの三毛猫、一色足らないから二毛猫だろうか、は喉をかきむしりながら、ばったんばったんと背中を地面に叩き付けていた。最初見た時はあまりに奇妙な動きだったので猫特有の求愛行動か何かかと思った。そのうち顔が青ざめ、あぶく交じりの唾液を苦し気にぼたぼたと垂らし始めたため、何かが喉につっかえているのだと気が付いた。

 普段であれば鳴き声を聞くのも恐ろしい猫であるが、呼吸さえままならないさまはあまりに憐れで、私はつい手を貸してしまった。白目を剥いて横たわる猫の痙攣している喉元目掛けて思い切り体当たりをすると、「げぼぇ」と形容しがたい音を立てて猫の口から白玉が飛び出し、草むらへと転がっていった。

 私はそれを確認すると猫が立ち上がれずにいるうちにそそくさと逃げ出した。


 それからというものその猫は我が家の庭先に陣取り、暇があればにゃおんにゃおんと鳴いている。昼夜問わずやっているのでこっちには心の休まる暇がない。

 ある日我慢の限界に達し、穴蔵から文句を言った。

「そこの猫さん。もう少し静かにしてくれないかしら。あなたに怯えてお友だちはうちに来れないし、私もここのところ寝不足でノイローゼ気味なの。このままだと前歯が無くなるまで机を噛んでしまいそう」

「そいつは失敬。失敬ついでに伺いますがね、このあたりで数日前に猫を助けたっていうネズミに心あたりはございませんか? 猫はネズミを捕らえるものだが命の恩人、いや恩鼠(おんねず)とあれば話しは違う。一言お礼申し上げたいと思いまして」

 これは面倒なことになった。ネズミの身に起こる悪いことのほとんどは猫の仕業である。甥っ子にもそう教えた。

 テキトウな嘘でお引き取り願おう。

「お言葉ですけど、猫を助けるネズミなんているものではなくってよ。喉を詰まらせて、まぼろしでも見たのではないかしら」

「確かに、猫を助けるなんておかしな話だ。さぞネズミらしからぬネズミなんでしょうな。ところで奥さん、どうしておいらが喉を詰まらせていたとご存知なので?」

「……」

 しまった。語るに落ちるとはこのことである。私が無言のまま沈黙していると猫はふたたびにゃおんにゃおんやり始めた。

「あぁ、やかましい! 止めてちょうだい。そうですよ、私があなたを助けたネズミらしからぬネズミです。お礼はもう伺ったわ。お引き取り願えるかしら?」

「いや、顔も合わせずというのはあまりにも失礼じゃありませんかね」

 失礼を気にするなら人の家の庭先で騒音騒ぎを起こさないでほしい。

「そう言って姿を見せた瞬間にぱくりと食べてしまおうというつもりなんでしょう? そんな見え透いた手に引っかかるネズミはいませんよ」


 ***


「あなた、このあたりの猫じゃないでしょう? ここのおうちのお婆さんはホウ酸団子をお月見みたいに山盛り仕掛けるから、だれも食い付きはしないのよ」

「いやあ、遠路はるばる上京してきまして腹が減って腹が減って仕方がなくって、ヤバいかなとは思ったんですが、食欲を抑えきれず……。いや、情けないところをお見せして面目次第もございません」

 はにかみ笑いをしながら、ぽりぽりと前足で頬をかく変な猫に少しだけ興味が湧いた。

「あなた、お名前はなんていうの?」

「よっくぞ聞いてくれました。生まれは美濃。名をニケと申します。猫呼んでフーテンのニケとは俺のこと。行く末万端ご昵懇(じっこん)にィ、願います」

 奇妙なポーズを取って、笑ってしまうくらい得意げな顔でそう自己紹介をした。

「随分可愛らしいお名前ね」

「あんまり馬っ鹿にしちゃあいけねぇや、姐さん。ギリシャのほうじゃ勝利の女神の名前なんだぜ」

「神様と同じだなんて猫たちもおそれ多いことをするものね。その方が名前の由来なの?」

「いいや。俺が一色足らねえ三毛猫だからさ」

「だと思った」

 思った通りの名前の由来で、つい笑ってしまうと、ニケが目をパチクリさせた。

「姐さん、本当に変わったネズミだね。長い事あちこちさすらったが、猫の冗句を面白がるネズミは初めて見たね」

「笑うのを見る前に食べてしまうからでしょう?」

「ちげえねえや」

 今度は私の冗句に彼が笑った。

「名前だけでも聞かせてもらえやしませんか。教えてもらえばここへはもう参りません」

「……フミよ。護国院、いえ、もう違ったわ。根津フミ」

「離縁でもなさったんです?」

「ええ、まあ」

 私が少し気まずく、顔を直接合わせてもいないのに目を逸らすと、ニケはあっはっはと笑い飛ばした。

「話しているだけで愉快と分かるこんなイイ女と別れるとは、見る目のねえ野郎がいたもんだ」

 あまりに気負いなくそんな事を言うものだから、つい赤面してしまった。


「あちこち回っていると言っていたけれど、ここへは何をしに来たの?」

 ここへはもう参りませんなどと言っておきながら、助けてもらった礼と称して、ニケはその後もたびたび土産を持って、我が家へ足を運んできた。ネズミの活動時間からずらして、早朝や黄昏時に尋ねてくるあたり、気を遣ってはくれているようだ。

「ここのところ、放浪生活にも飽いてきまして、男たるもの一国一城の主たらんと思って、住処を探しているのです。そんな時にここいらじゃ猫の頭領を猫の内でだけで決めていると小耳に挟みまして。それならついでにそいつもかっさらってやったろうと思い立った次第です」

「……猫の頭領になるための決まりは知っているの?」

 私がそう呟くと、ニケはバツが悪そうに頬を掻いた。

「ええ。だから年末の間は姐さんは家から出ないようにお願いします。恩鼠を殺しちまうわけにはいきませんので」

 あんまりしょんぼりして言うものだから、天敵でありながら可愛らしく思えてきた。

「そんな調子で本当にネズミを殺せるの?」

 私が揶揄うように煽りを入れると、少しムッとして見せた。

「馬鹿にしねえで貰いたいもんですな。猫ってのはネズミを殺すもんだとお天道様がそう決めているんだぜ。殺せねえはずがねえでしょう」

「だってあなた、この間、外で出会った時に私を見逃したじゃない」

 そう言ってから扉を開いて、彼の前に姿をさらすと、ニケは目を見開いた。数日前に道路脇で出会い、見て見ぬ振りをしたメスのネズミが私だったということにようやく気が付いたらしい。

「ひとが悪ぃな。声くらいかけてくれてもいいでしょう」

「この世のどこに猫に『きゃー、偶然! この辺りに住んでいるの?』なんて声をかけるネズミがいるのよ」

「そりゃあそうでしょうが……」

「分かったら、猫の頭領を目指すのなんておしなさいな」

「……そういう訳にもいきません。もう、逃げ出す訳にはいかねえんです」

 どきりとするような真剣な声をして、彼はそう呟いた。神事に挑む前の夫が似た顔をしていたことを何故だか思い出した。誰にも、私にも、語っていない彼だけの事情があるのだろう。だから私は踏み込まずにただ聞くだけに留めた。

 私が黙っているのを見ると取り繕うように、はにかんだ。

「そもそも、あの時は夜中だったじゃありませんか。お天道様が見てねえんだから、猫がネズミを殺す道理も引っ込むってもんだ」

「呆れた。自分の好きな時に飛び出したり、引っ込んだりする道理があるものですか」

「てめえが良いと思ったことだけする、好きなことだけする、そこに理由はいらない。ってのが許されるのが、星の数ほど存在する猫の美点の内の一つってね」

「そうやって、また勝手なことばかり言う」


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