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ねずみ録  作者: mozno
第三章 伏見彩来たり
16/45

築地のネズミたち


「先生、まだですかい?」

「もうしばし待て」

 昼下がりから社に籠り続けて、もう日が沈む。いささか待ちくたびれたというものだ。

「はやくしないと花火はじまっちゃいますぜ」

「そう急かすな」

 急かさないといつまでお色直しをしているか知れたものでないから急かしているのだ。

 それからたっぷり時間をかけて出てきた先生は、湯島天神祭の時よりもいささか歳を重ねた妙齢のヒトのメスに化けていた。

 着物は薄紫で菖蒲(しょうぶ)をあしらっている。複雑に結わえた髪に鬼灯を模したかんざしが刺さっている。

「変ではないか?」

 何かが不満なのか珍しいことに私に意見を求めてきた。

「いえ、良くお似合いですよ。夏らしいと思います」

「いつから呉服屋で働き始めたのだ、お前は」

 私の選評は非常に不評だったらしく、先生が柳眉をひそめる。そう言えば珍しいことにかなり美人に化けている、と気付いてから改めて観察する。つまりわざわざ美しく化けねばならぬほど華がないのだ。

「ああ、装飾品と髪型に比べて着物が薄い? 地味な感じはしますね」

「そうであろう、そうであろう? これでは小物だけ高級品で固めて肝心の着物だけケチったように見えてしまう!」

 気にしすぎである。だれも通りすがりの他人の服なぞ気にしちゃいない。が、これは絶対に女性に対して口にしてはならない禁句である。過去に二桁回それで逆鱗に触れている私が言うんだから間違いない。

「そこまで言うなら、前にド派手な朝顔の入った着物をお召しだったじゃないですか。あれにしたらいかがです?」

「花火大会に朝顔を背負って行ったら私が阿呆みたいではないか」

 気にしすぎである。だれも通りすがりの以下略。

 この調子ではいつまで経っても出発出来そうにない。仕方がないので私が姿を合わせることにする。

 化けたのは和装のヒトのオスである。着物の柄をジグザグの蜘蛛手の橋にした。

「これでいかがです?」

「むっ、これは杜若(かきつばた)ではない」

「誰かにそう言われたら勝負と掛けたことも分からぬ無粋者と罵ってやればよろしい」

「……しばし待て。いや、そんなにはかからぬ」

 そう言うと先生は再び社に引っ込んでしまった。しかし言葉通りにすぐに出てくると、

「では行くか」

 とすたすた歩き始めてしまったので、私は慌てて後を追った。その御髪で揺れるかんざしの飾りは鬼灯ではなく、赤い短冊に変えられていた。



 人だかりの中で窒息しそうになっていると、

「少し外れるか」

 先生も嫌気が差してきたのか、始まった花火に背を向けて露店も並ばぬ外れの方まで歩きだした。

「ここでは修行にならんのではないですか?」

「どうせ今更人混みに動揺して尻尾を出しはしないであろう?」

 どん、どん、と花火特有の音を背に聞きながら、人の流れを逆行していく。私はふと気が付いて、先生の着物の袖を軽く引いた。

「ん? どうした?」

 見てくださいよ、と私は夜空を指差した。天空ではぜた花火の残した煙が風で流れ、三日月を微かに覆い、雲隠れならぬ、煙隠れの月となっている。

 周りの人間は誰も気が付いていない。次々と咲く大輪の花ばかりを見ている。

「折角の花火に背を向けて月見と洒落込むなんて、こいつはなんだかとっても粋じゃないですか?」

「それは粋ではなく、つむじ曲がりなだけだ」

 アンタがそれを言いますか。

 花火の音を背に川沿いから少し街中に戻り、民家の屋根の隙間から花火が覗く位置を探す。見覚えのあるコンビニエンスストアの駐車場に人だかりが出来ていた。どうやらここは知る人ぞ知る見物スポットのようで、アイスキャンディーやフランクフルトを咥えた人々が浴衣姿で座り込んでいる。コンビニ側も普段は内設しているホットスナック用の加熱装置を台に載せて、外で販売している。ちぇっ、この繁盛振りでは売れ残りを狙えそうにない。先生の隣で、彼女と同じようにコンビニのガラスに背を預ける。

 何か買ってきましょうかと、私が言うと、喉が渇いたと小さく呟いたので少し席を外す。

 店内に入り、ネズミの姿に戻って何か盗んで来ようと考えたが、師に盗品を口にさせるというのも憚られ、お茶入りペットボトルと自分用のチョコレート味のアイスキャンディーを正規の手段で購入した。

 先生の元に戻り、私がアイスを齧り始めると不平を漏らされた。

「どうしてそういうのを、自分の分だけ買ってくるのだ」

「え、食べたかったんですか?」

「見ていたら欲しくなった」

 むぅ、と唇を尖らせている。

「まだ中に何本か残っていましたよ、買ってこられたらいかがです?」

「そちが急かすから財布を忘れた」

 私のせいかよ。

「それに一口だけでよい」

 そう言うが早いか、私が手に持ったアイスキャンディーを一口顔だけ寄せて齧っていった。髪がかからぬように横髪を耳にかけたので、白いもみあげの生え際が見えている。

 こんな細部まで化けているのかと、化け術を多少理解してから、何百回目か数えることを止めた感想を抱く。

「ネズミの齧った物など口にして。腹を壊しますよ」

 聞いているのかいないのか、ふっと笑って、先生は花火に向き直ってしまった。



 閉幕の合図に、一際大きな花火が間髪入れずにいくつも炸裂し、弾ける音が夜空へと幾重にも重なり響いた。

 その後にしん、と急に静寂が訪れたものだから、耐えきれなくなった幾人かが拍手して、自ら終わりを作り出す。それに引き摺られて人々が白煙煙る夜空に万雷の拍手を送った。

 そんな雰囲気を一切無視して、先生は壁に預けていた背中を重そうに剥がすと、すたすたと帰路へと歩き始めてしまった。

 その後を着いていこうとして、なんだか目に違和感を覚えて、手の平を見てみると、そこには黒い花火が映っていた。顔の前から手をどかすと地面に花火が移る。先程まで見ていた強い光の残像が網膜に焼き付いて残っているのだ。

 花火の影とは趣深い。空を見遣ると、煙にまみれた三日月の横に花火の影が浮かび上がる。

 月の隣の影花火。これなら流石に粋だろう、と先生、と声をかけるも、その背中は随分小さくなっていた。私は慌てて後を追った。


 ***


 大工たちに報酬のコンビニ弁当を届けに浅草寺へと赴く。ヒトの気配を感じてか、どこかに隠れてしまったが、私が太った男から変化を解き、飛び出た腹に隠していた山盛りの廃棄品を目にすると我先にと飛び出してきた。


「兄貴、ちょいと話があるんだけどさ」

「おう、なんだ?」

 一通り皆に配り終えたタイミングを見計らってロクマルが声をかけてきた。

「実は今、俺の所にどこだっけな、築地? から越して来たっていうネズミたちが何か仕事はないかと聞きにきていてさ」

「ほう。いいじゃねえか、腕が良いなら使ってやれよ。ここじゃお前が棟梁なんだ。お前の好きにすればいいさ」

「ああ、俺も実際話を聞いてみて、色々苦労しているようだったからさ。力自慢か手先が器用ならこっちで引き取ってやろうと思ったんだけど、なにぶん数が多くて」

「そんな大家族で引っ越してきたのか」

「俺の所で引き取っただけで二十、嫁さんたちの方で十引き取ってもらったけど、まだ一割しか仕事にありつけてないとさ」

 私は少し頭を捻ってから聞く。

「えーと、つまり、……全部で何匹だ?」

 ロクマルがかくっと肩を落とす。呆れたような目でこちらを見られても昔から数字は苦手なのだから仕方ない。バイトはレジを叩けば出てくるから問題ないが、咄嗟に言われて出てくるはずがない。

「あと二百七十匹が食いっぱぐれているってさ」

 採寸なんかも手掛けるからか弟は数字に強い。いや、でも字は私のほうが上手いのだ。何せ代筆業をやっていた叔母上直伝である。

「子供もたくさんいるようだったから、兄貴の方で当てがあるなら紹介してやってくれないか?」

 いやに親身になっていると思ったが、自分に子供が出来たからか。父親の自覚が出てきたと褒めるべきか、甘さに磨きがかかったと叱るべきか……。少し考えてから思い直した。どちらもする必要はないのだ。弟はあの先生が褒美を取らせるに値するだけの物を作ることが出来る一匹前の男なのである。もはや私の後をくっついて来るだけの幼子ではない。

 そんな男が他者を思い、私に頼み事をしているのだ、叶えてやりたい。やりたいが、無い袖は振れない。

「仕事をくれなんて言われても俺にそんな当てはねえぞ」

「前に碁盤セットを作ってくれって言っていたじゃないか。ああいうのでいいんだよ」

「そんな何個もいりゃしねえよ」

「なんとかならねえかな。実は兄貴から貰っている碁盤の報酬を浅草寺から貰ったもんだと思い違いをしているらしくて、浅草寺が食糧を独占しているとか騒ぎ始めていてさ……」

 ロクマルの話だと抗議活動と称して浅草寺の前で朝から晩までちゅーちゅー喚いているらしい。

 とんでもねえ野郎どももいたものである。そんなことをする元気があるならどぶさらいでもしてパンくずを探していた方がまだ生産的というものだ。

 だがそんなことをされて浅草寺に私がロクマルと連絡を取っているということが知れるのは上手くない。いや、酔ってやらかしたせいで私が生存していることはもはや周知の事実なのだが……。

「チッ。しょうがねえなあ。そいつらに俺の所に来るように伝えといてくれ。あ、待たせるのは鳥居の外だぞ。結界の近くでわめきたてられた日にゃあ、先生がどんな怪物に化けてそいつらをぶっ殺すか知れたもんじゃねえからな」

 私の言葉を聞くと、その地獄絵図を想像してしまったのか、ロクマルはぶるっと体を震わせた後に頷いた。


 ***


 翌日、鳥居の前に何匹かのネズミがやってきた。こっちへ来なと、あごで合図して植え込みの陰へと誘導する。

 どこかでみた覚えのある顔だなと思ったら、今戸の猫たちにエナジードリンクを貢ぎに来ていたネズミの中に見た顔ぶれである。

「お前さんたちどこから来たんだい?」

 既に弟から聞いた話ではあるが、齟齬がないか確認するため、彼らの口から話を聞く。アルバイトでもそうだが、思い込みはとても危険! コミュニケーション大事!

「元は築地の方で暮らしておりましたが、食い扶持が無くなりまして……。どこかへ越そうかと話しをしていた時に上野浅草ではネズミが猫に襲われないなんて噂話を耳にしまして参った次第でございます」

「なぁるほど。それで浅草寺を頼ったってわけだ」

「はい。ですが彼らは安全な仕事、実入りのいい仕事は身内で独占し、我らには危険な仕事しか与えず、報酬もわずかで……」

 信用もない外様に働くから飯をくれなどと言われてもいきなり神使の補佐を任せたりなど出来るはずがない。彼らはこうして不平を言うがそれは浅草寺以外を頼ったところで同じだろうし、こうして不平を殊更に口にする者たちは結局のところ、どんな仕事であろうと不満なのである。

 そう思いはしたが口に出しはしない。揉め事を起こした訳でもなし、お互いいい大人なのだから、いきなり喧嘩腰で行くこともないだろう。

「危険な仕事ってのは? 猫の首に鈴をつけたりかい?」

 ざわっと元築地ネズミたちが波立った。その反応だけでもう答えを言っているようなものである。

「もしかして事情をご存知でしたか」

「いいや、知りやしないさ。俺の弟は浅草寺の一員だが、俺はどうやら違うようでね」

 皮肉交じりの口調でそう言うと、彼らはほっとしたような顔をした。この辺りの最大勢力である浅草寺に対して、自分たちと同じように反感を抱く者がいたと思い込み、安堵したのだろうか。不幸なる者にとって同じように不幸なる者の存在こそが最大の慰めとかなんとか、いや、先生の受け売りなのだが……。

「実はまさしく猫の首に鈴を付ける役目でして……。コンなんとかとかいう白ネズミに頼まれたのですが、猫たちに毎週妙な飲み物を届ける役目でして。襲われないという約束だからとは言うものの、はっきり言って生きた心地がしませんでしたよ」

「ほう、そいつは大変だったな」

 知ってる。俺もそこにいたから。と危うく口に出しかけたので前歯で下唇を押さえてむっつりしていることにした。

 彼らの言葉を信じるとするなら、伯父の予想通り、猫と内通していたのは他ならぬ浅草寺であったということだ。食い扶持に困った流れ者を運び屋にしていた訳である。やってることが猫と同じじゃねえか。

「なんでもその取引相手が今戸の猫の二番手だったらしく、恐ろしいのなんの。もう一匹の方は寝ぼけたような不細工な間抜け面だったんですが」

「ンだとこのやろう!」

「どうしたんです急に……」

 唐突に私がいきり立ったため、驚いたらしく怪訝な表情をしている。……冷静になろう。ネズミが思わず悪口を言ってやりたくなるほど違和感なく化けることが出来ていたということである。そうに違いない。

「いくら食っていくためとはいえ、このままでは寿命が縮むと皆で話し合いまして。で、その時たまたまきっぷのいい根津家の家長さまの噂を小耳にはさみまして、こうして何か働き口がないものかとお伺いに参ったわけでございます」

 よくまあこうも調子のいい言葉がぽんぽん出てくるものだ。だがきっぷがいいとか、おとこっぷりがいいとか、男前とかハンサムとか言われてまあ、悪い気はしない。

「あい分かった。こっちでなんとか仕事を考えてみよう。だが今すぐには思いつかん。用が出来たらロクマルを通して話すから待っていてくれ。……仕事は用意してやるんだ。浅草寺に討ち入りしようなんて馬鹿は考えるなよ」

 ぎくっと何匹か動きが固まった。腹が減れば腹が立つ。腹が立ったら暴れまわるは獣のさがである。具体的に計画を立てていたわけではないにしろ、そういう話しが出ていたとしても不思議ではない。

「もし一匹でもそんな真似をしたらこの話は無しだ」

「……浅草寺がお嫌いなのではなかったのですか?」

 憮然とした表情で、代表が私に尋ねた。トラキチに失禁させられた恨みもあるのだろう、どうせそういう意見をなだめもしていなかったに違いない。

「浅草寺が嫌いなんじゃない」

 家族がいるからとか、距離をわきまえて付き合えばそんなに悪い奴らじゃないとか、色々考えたが、ふと思いついた一番愉快な言葉を選んで口にした。

「群れがお嫌いなのさ」

 猫の屋敷に長く居すぎただろうか? やれやれ露悪が感染(うつ)ったらしい。


 ***


「仕事を斡旋してくれ?」

「はい」

 ああは言ったものの職にあぶれたネズミたちを養う方法はとんと思いつかず、ならば先達から助言を貰おう、なんだったら仕事そのものを貰おうと思って私は不忍池さまのところまで訪れた。

「なに? それは私から独立したい、ということかしら?」

 声音固く、着物姿の美女は口からちらちらと舌を覗かせる。その先端が二つに割れていることに気が付いて、雑な化けだなと思った。

「違いますよ、実は……」

 私は簡単に事のあらましを説明した。

「ふぅん、ネズミの就活ってことね。どの動物も世知辛いものだわ」

 呑気してるのはあの駄女狐くらいなものね、と腕を組む。

「それで姐御なら何か妙案をお持ちでないかと」

「……そのネズミはミロクちゃんみたいに化けられるの?」

「いえ、無理です」

「人に数分だけでも化けられるならやりようもあるけど……。私の仕事は人を相手にして、人のお金を稼ぐことだから」

 お給料も人の通貨でしょう? と不忍池。

「修行をすればそのくらいは。ただそれではその間に彼の子供たちが飢えて死にます。それに私は先生から弟子を取ることを禁じられておりますので」

「えっ? そうなの?」

 不忍池が不意をつかれた顔をして驚く。

「あいつ、そんなこと私に一言も言ってなかったわよ」

 ぎりぎりと不愉快そうに歯噛みした。

「人に化けられないなら悪いけど無理だわ。ネズミのまま人のお金を集める方法でもあれば別だけど。ごめんなさいね」

「いえ、こちらこそいきなり来て無理を言いまして……」


 仕事は貰えなかったが、アイデアは貰えた。人の通貨をネズミの姿のまま集める。あれなら出来るかも知れない。

 私は思い付いたことを試すべく、スーパーマーケットで103円の缶の炭酸飲料を1000円札で購入し、帰路についた。

 なぜついでに苦手としている炭酸飲料を買ったのかと言えば、修業のためである。缶を開けるとプシュッと小気味のいい音がして、甘いにおいが鼻孔をつく。思うにこいつが持つあわあわは化け術が看破された時に感じる溺れたような感覚に似ている。それゆえに飲むと思わず化けを解いてしまうのだろう。

 私は人間の姿のままあぐらをかくと精神統一ののち、ぐびっと一息に炭酸を口に含んだ。口の中のパチパチと弾ける感触に化けの皮を持って行かれそうになるが、首の皮一枚で踏みとどまる。内通があったとはいえ、猫どもに正体を看破されたことは最近芽生えつつあった私の己の化け術への自信、いやここはあえて過信と言おう、過信を打ち砕くには充分であった。もし私がもっと優れた化け術を具えていたらどうだったろうか。猫どもに『ネズミどもはああ言っていたが、こいつはどう見ても猫だから別の奴のことだろう』と思わせることが出来ていたなら……。私が目指すのはそこではない。そんなものは通過地点でしかない。我が化け路の果ては我が師の化けである。だからこんなところで泡沫ごときに敗北している暇はないのである。

「ごへっ」と思わずむせて口を押さえたのが失敗だった。炭酸飲料はパチパチしたまま私の鼻を逆流し、私は中空向けて盛大にソーダを吐き出した。ネズミに戻り、自分で吐き出した液体に打ち据えられた濡れネズミはスースーする鼻を押さえながらもんどりうつ。

「おおう、おおう……!」

 その無様極まった醜態を我が師はゴミを見るような冷たい目で一瞥すると、「ちゃんと片づけておけ」とだけ言って引っ込んでしまった。弟子が吐瀉物で窒息死しかけているのにあまりにもひどい。

 敗北している暇はない。だが暇がなければ勝てるかと言えば、それはまた別の問題である。私は鼻先に付いた雫を舐め取った。敗北の苦汁は甘かった。


 私は先程くずしてきた硬貨をネズミたちの前に並べていく。500円玉から1円玉まで全部並び終えると、私は説明を開始した。

「これが人間の使っている貨幣ってやつだ」

「いくつか見たことのある奴はありますね」

「お、いいね。どこで見た?」

「人間の家の中だとか、用水路の中だとか、あとピカピカ光る機械の下にあったような……」

 自販機のことだろう。そう言えばあれの中に暮らすネズミもあると聞く。なんにせよ、これなら仕事が早そうだ。

「俺がお前さんたちに頼みたいのは、これらの回収だ」

 人の体では通れない小さな道を通っているとたまに人が落とした小銭が転がっていることがある。私一人では運が良くても十円二十円が限度なので、普通にアルバイトをした方がよいが、彼らなら化けられないが数がいるので多少は集められるだろう。

「集めてどうするんです、こんなもん? 食えるわけでもなし。固いから歯を削るのには良いかもしれませんが」

「確かにネズミが小銭集めたって意味がねぇやな。集めたって使えやしねぇんだから。だがここに一匹人間に化けられるネズミがいるだろう? 人間にとっちゃこれがいっぱい集まると時にてめえの命より大事になる。何とでも交換できるようになるのさ。そうさな、この一番でっかい奴、これがあればキャラメルポップコーンの海で泳げる」

 うおお! とネズミたちが驚きの喚声を上げた。一部物を知らない連中が「海ってなんだ?」などと抜かしていたから、でかい水たまりの事だと教えてやった。


 それから二日ほどして、私の元に小銭を持ったネズミが何匹も現れるようになった。私はそれと引き換えに弁当や菓子なんかを渡してやる。

「ありがとうございます。これで家族を食わせてやれます」

「おう。気にすんな。いっぱい持ってけ」

 どうせコンビニの廃棄品である。

「太っ腹だなあ。浅草寺とはちげえや。ミロクの旦那さまさまですよ」

「はっはっはっ。くるしゅーない、くるしゅーない」

 左手で扇子を扇ぐ。太っ腹と呼ばれるのも悪くない。

「いや、旦那なんて言っちゃいけねぇな。親分と呼ばせてください」

「いや、それはちょっと……」

「嫌なんですか。変わった方だな」

 だってあのクソ猫と同じ呼ばれ方なんだもん。

「棟梁とか……」

「それはロクマルに使ってやってくれ」

 少なくとも大工修行もまともにしていない者が呼ばれていいあだ名ではない。

「注文が多いなぁ……。じゃあ大将だ。ミロクの大将。これでいいでしょう?」

「おっけーだじぇ」

「なんですか、その妙な語尾は」

 言わなきゃいけないような気がしただけである。


「そういや、代表の奴はどうした?」

「なんでも賽銭箱から小銭を集めようとして、落っこちて腰の骨を折ったとかで」

「おいおい、罰当たりな奴がいたもんだな」

「うちの頭領はどうも昔っから無鉄砲で。本人は親譲りだなんて言ってますがね」

「それでよく周りが付いてくるね」

「最近人間どもがどこかに移っていることは分かっていたんです。でもそのうち戻ってくるだろうと。だけどそうはならなかった。頭領が移住を決めていなかったら、今ごろ皆飢えて死んでいたと思います。そういうのは鼻が効くんですよ、あのひと。おんなじことを考えていたネズミもいたけれど、彼のように口に出して実行しよう、皆を巻き込もうとまではしませんでした。多分、その責任を負うのを恐れたんでしょう」

 その代価か知りませんが、とんでもない仕事をやらされる羽目になりましたが、と笑って言った。猫の前では醜態を晒していたが、あれでなかなか人望があるようだ。いつの日か元築地ネズミたちが一大勢力となれば、再びこの上野浅草地方の大黒ネズミ争いに一石を投じることになるやもしれぬ。ロクマルの奴に話をして彼らに少し仕事を回させ、恩を売っておかせた方が良いかもしれぬ。私の代ではともかく、ロクマルの孫子の代できっと役に立つはずだ。


 そんな調子で、飯を受け取るついでに私に色々話してくれた彼は、礼を何度も言ってから家族の元へと戻っていった。

 それにしても、だ。ずっしり重たくなったがま口の中身を恐る恐る目を細めて見る。

 ……ただ待っているだけで一万円が集まった。

 私が化けの皮が剥がれないように気を張って、六時間あくせく働いても手に入るのは五千円に満たない。

 もしかして汗水垂らして働くよりも、他人に汗水垂らさせた方が儲かるのでは……?

「はっ、いかん!」

 一瞬悪魔のごとき考えが頭をよぎったので、ぶんぶん振って追い払う。ネズミはせわしなく働かなくてはならない。そういうものだ。

「それにぐうたらばかりしていたら、先生みたいに尻尾にカビが生えちまわあ」

「だれの尻尾にカビが生えとるか」

 いつの間にやら後ろにいらした先生に頭をぽかりとやられた。

「今度は何の悪巧みだ?」

 人聞きの悪い。私がいっつも悪事を働いているかのような言い草である。スパイと暗殺未遂と廃棄物のちょろまかしくらいしかしていないのに。

 先生に事の顛末をかくかくしかじかと話す。

「そんな調子で新しい仕事を、それも大勢でできそうなやつを見つけまして」

「ふむ、……そちは、それでいいのか?」

「まぁ、これで飢えるネズミが減るってんなら。何か問題でもありますか?」

「いや、そちが良いならいい」

 先生はそう言うと寝床に戻って行ってしまった。なんだか含みのある言い方で気にはなったが、それよりも両手で持ってもまだ重たい小銭の感触が嬉しくて、すぐに忘れてしまった。


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