不忍池白娘子
アルバイトからの帰り道、ズボンのポケットに入れた茶封筒を一歩歩いては確認し、一歩歩いては確認し、警官に声をかけられてから、また一歩歩いては確認していると、喫茶店に知った顔を見かけた。向こうも気が付いたらしく、こちらに向けて手を振っている。
喫茶店に足を踏み入れ、喫煙室まで進み、一際目立つ着物姿の女性に声をかけた。
「お疲れ様です。姐御」
着物姿で紫煙をくゆらせるこの女性こそ先生のご友人、不忍池白娘子さまである。弁財天さまの神使の白蛇で人に化けては様々な商売に手を出している。
私の勤めるハンバーガーチェーン店も彼女の経営によるものである。散々探して見つからなかったのに、探していたことを忘れた頃に見つかるのは神の悪戯というものか。
「お疲れ様。……ミロクちゃん、その姐御っていうのやめて。私が堅気じゃないみたいでしょ」
「でも白様だと先生と被ります」
「そうなのよね、不本意なことにね、非常にね。だから娘々でもよくってよ」
「猫畜生どもの鳴き声みてぇで不愉快なのでイヤです」
私がたぶんに演技も含めて、露骨に嫌な顔をして見せると、不忍池はけらけらと笑った。
「あら、小憎たらしい。警らにつきだして銭に替えてもらおうかしら」
「いったいいつの時代ですか」
「私、あれ好きだったのよねえ。知ってる? 特賞十五円なのよ」
「先生と聴きに行った落語で知りました」
その言葉が真実であるとすればこの化け蛇は明治の頃より生きていることになるので冗談だと信じたい。
「今日もアルバイト?」
「はい。もう上がりですが」
「働き者なのは良いことだわ。可愛い、食べちゃいたいくらい。……冗談よ」
私が逃走の姿勢を取ったため、姐御はくすくす笑いながら茶化した。
「冗談でもやめてください」
「ごめんなさいってば。少し話せる? 仕事の調子とか聞きたいのよ」
「店長にお聞きになったほうがよろしいのでは?」
「一従業員から見た現場の様子が知りたいのよ。それに店長がいたら、彼の悪口言えないでしょ?」
ニヤッと姐御の口の端が上がった。
「悪口を言われるような仕事振りではないと思いますが……」
「そういうことを聞きたいの。ね、何か奢ってあげるから」
奢りと聞いて断るようでは男が廃る。私は秒もかけずに椅子に座り込むと、「何からお話し致しましょうか!?」と前のめりになった。
姐御が買ってきてくれたハムカツサンド(からし入り)を両手で持って大口を開けたとき、
「そういえばハムスターをカツレツにしてもハムカツっていうのかしら?」
そんな意地悪を言われたので、気にせずむしゃりと口に含む。その程度で私の食欲が収まると思ったら、大間違いである。
「人間はそんな残虐なことをするのですか!」
むぐむぐと咀嚼しながら、私が聞く。
「当たり前じゃない。蛇や子ネズミを溺れさせた酒を造るような連中よ」
「まぁ、我々も人間をかじるので人間が我々を食うのは別にいいんですが」
「あら、結構ドライ」
「そんなことより私はハムスターじゃないです。ドブネズミです」
「ホント? 高度に野生化したハムスターじゃなくて?」
「それはもうドブネズミと見分けがつかないと思いますが……。正真正銘生粋のドブネズミです」
「残念。今度ペットショップでの仕事でも斡旋しようかと思っていたのに」
それ売ろうとしてますよね。鼠身売買反対!
「そんなことばかりしていて他の動物から顰蹙を買ったりしないのですか?」
「するわよ。特に狐は過保護ね。ちょっかい出すとすぐ弁財天様を通して苦情が来るもの。だから基本的に狐はどことも不干渉。猫は神使じゃないから誰にも文句言われないから楽ね」
「あいつらはケツの毛まで毟ってやってください」
「毟って金になるなら毟るけど」
「やっぱり猫はダメですか!」
「うわ、すっごい嬉しそう……。最近はめっきり化けられるのも減ったしね。やっぱり主神の神通力が弱まると神使だけでなく妖怪も減るのかしらね。皮肉だわ」
又七郎が語っていた稚産霊神さまのことだろう。
「そういうものですか」
「現代に適応できるように拡大解釈して、人に最も豊かさを与えた者を猫の神使とするとかに変えちゃえば良かったのに。そうしたら主神は変わったでしょうけど神通力まで失うことはなかったはずよ。稚産霊に義理立てしたかなんだか知らないけど阿呆な連中よ」
「いやいや、なかなか見上げた連中ではありませんか。猫の癖に」
それを決めたのは実は猫ではなく虎だったと言われた方がまだ信じられるが、虎は別の主神を戴いているためありえない。
「あぁ、ネズミは忠と生きる者、だったわね」
姐御は呆れ混じりの紫煙を天井目掛けて吐き出した。
「でも解釈の変更はネズミもやっていることよ。ネズミの代表決めもそうでしょう? 最も大きな家族を得た者と言っておきながら、最も子沢山な父親が代表となるわけではない。あれは最も多くのネズミに食い扶持を与えた者という意味だわ。つまり最も大きな会社の社長がネズミの代表、大黒ネズミとなる」
結局、誰もがそれぞれに適応しようとして、為損なった者から消えていくのよ、と感慨深そうに笑った。
「お詳しいですね。姐御はネズミの政治に興味なぞないと思っておりました」
「それよ。興味。失敗する輩はたくさんいて、その理由もそれぞれあるけれど、何かに、他者に、興味を失った者は必ず失敗するわ」
興味とは若さなのよ、失えば死はすぐにやってくる。人も獣も一生学ばないといけないのは変わらないわね。と言った後、
「それとも人が獣と変わらないのかしら?」
最後の一言を口にしたとき、口角が頬まで裂けているのではと思うほどに釣り上がった。訂正。露悪的なのは猫だけではないらしい。
「そう言えば、京都から来た神使の狐が白梅の事を嗅ぎまわっていると聞いたわ。あれが庇った化けるネズミなんて言ったら、ミロクちゃんくらいしかいないんだから捕まらないように気をつけるのよ」
もう見つかったとは言えない。
「先生にはそのこと、お伝えした方がよろしいでしょうか?」
「いやー、止めとけば? あいつのことだからどんな嫌がらせするか知れたもんじゃないし」
さもありなん。
***
私がアルバイト先のことをあれこれと不忍池オーナーに密告、否、報告した次の日、いつものごとく、稲荷寿司を買って先生の元へと戻ると、なにやら真剣な顔をしていた。
先生の前には二週間前まで社のどこにもなかった足付きの碁盤が置かれている。白石をちゃらちゃらと肉球で器用にもてあそんだ後にパチリと小気味良い音を立て、盤上に石を置く。
「碁盤なんてどこから持ってきたんです?」
「あの猫どもの屋敷から借りてきた」
返すつもりのない借用は普通、窃盗と呼ぶ。
「悪いお狐さまだなぁ」
私を助ける前に『袋』にでも隠しておいたのだろうか? こっちは万事休す、絶体絶命だったというのに。
「お相手しましょうか?」
私がそう提案すると先生はとても嫌そうな顔をした。
「そちとやるとつまらん」
そう言うと、碁盤を私から遠ざけるように手元にずずっと寄せた。
以前、ルールを習い、先生と対局したことがある。話が長かったので途中で船を漕いでいたから、階段になると死ぬという虚弱体質のヒトの話しか覚えていない。囲碁のルールを話していたはずなのにこの方は何をとんちんかんなことを言っとるのかと思った覚えがある。その後の対局で石を取られそうだったので、先生が置いた白石の上に黒石を置いたら遠い目をしていた。手持ち無沙汰になった私が黒石をがじがじやり始めると「そちとはもうやらん」と言って碁盤を引っ込めてしまった。勝負事というのは勝てなければつまらんもので、つまりあのとき私は先生に勝ったということなのだろう。私とて本当は師の顔を立てたかったのだが、囲碁は対局中に自分の石を食うと勝つというルールを知らなかったのだから、仕方ない。
だが私とていつまでも無知なままではない。今度こそきちんと師の顔を立てて見せよう。以前は知らなかったが、黒石で白石をはさむとひっくり返して黒に出来るらしい。わざわざひっくり返す意味が分からないが、ヒトの好む遊び心というやつだろう。
私がまあまあいいじゃないですかと迫ると、先生はついに碁盤を背中に隠してしまった。
む、と唐突に先生が結界の出入り口を見遣った。
「来客のようだな」
「入ってこないということはお知り合いではないのですか」
「少なくとも猫の友人はいない。ミロク、ちょっと見てくるがいい」
鳥居の外で手持ち無沙汰をしていたのは見覚えのあるトラ猫だった。
「なんだ、トラさんか」
人間の姿で私が話しかけるとトラキチはしゃーっと毛を逆立てた。
「気安く呼ぶんじゃねえよ、このすっとこどっこい! てめえの弱点は既に分かっているんだぜ! お前は人間じゃない、ネズミだ!」
得意げに叫ぶ猫の首根っこを掴み、結界の中へと歩いて戻る。
「何故だ!? 正体を看破すれば化けが解けるって! 又七郎の野郎、騙しやがったな!」
「ははは、私の日々の修業の成果を甘く見るなよ」
対象を正しく認識し、正体を告げれば化けの皮は剥がれる。それはどんな達人であろうと曲げられない。だが先生直伝の技を使えばこの通りネズミとバレても化けていられる。
あまり多用は出来ないが、猫に正体を看破された私を見かねた先生が教えてくだすった新たな必殺技である。
代償は『猫に化けの皮を剥がされるなど情けない、みっともない、だらしがない、どぶ臭い……』などといった連日のお小言である。私も日々傷ついているということを知れ。
「あっ!」
先生が遊んでいた碁盤を見て、トラキチが声をあげた。
「それだ! てめえ、うちの屋敷からくすねやがったな!?」
どうやら碁盤を盗んで来たことはとっくに又七郎には露呈していたようだ。それで煙に巻かれぬようにトラキチが派遣されたのだろう。それほど貴重な品なのだろうか? 確かによく見ればヒトが使うものよりも幾回りほど小さい。世にも珍しい猫用の碁盤である。
「それにしてもよくこの場所が分かったのう」
「ネズミを弟子にしている話の通じねえ狐を知らねえかと聞いて回ったら、この神社担当の神使が『しばらく前からうちの敷地を不法占拠している者がいるが、向こうの方が格が高いため手が出せない。なんとかしてもらえないか』と言われてな。ヒトんちのもんは盗んでくわ、他人の家の庭先で寝泊まりするわ、てめえ、どれだけ不法行為を重ねれば気が済むんだ」
えっ、許可貰ってなかったの? たまに結界を出たときに目が合って会釈をしていたからこっちは隣人のつもりだったが、向こうからは浮浪者だと思われていたらしい。
「何を馬鹿なことを。我ら畜生に法などもとより無いであろう。法がないなら、不法もないに決まっている」
「道理とか筋ってもんがあるだろうが!」
先生がうるさいなぁと顔に書いたまま尻尾をぱたぱた動かしている。完全にまともに取り合う気がない。
「あぁもう、やかましい。ならさっさと持って帰るがいい」
「言われなくてもそうすらぁ!」
そう言って碁盤を担ごう、引っ張ろうと悪戦苦闘したのち、
「風呂敷くらい貸しやがれ、畜生め!」
と怒鳴った。先生が社の奥から渋々風呂敷を取り出してきて、碁盤と碁笥を包む。
「風呂敷はちゃんと返せよ」
「どの口で抜かしてんだ、てめえ!?」
「やかましい奴だったな」
よたよたと歩くトラキチを見送ってから、先生は呟いた。
「しかしせっかく見つけた遊び道具がなくなってしまった」
「お金を稼いで買えばよろしいんじゃありませんかね?」
「あの大きさの碁盤と碁石はなかなかないからのう。金を積んでも物がなければ仕方あるまい」
だから金を稼ぐ必要もない、とでも言うかのようにいつも通りにごろんと横になってしまった。
しかし猫用の碁盤か……。心当たりがないでもない。