おっさんと仙人は、お互いに譲れない事を語る。
剣を構えたクトーに、ブネは襲いかかってこなかった。
距離を取ったままレヴィの方に目を向けると、なぜか薄く笑みを浮かべる。
不審を覚えるクトーに対して、ブネは言った。
「あの少女を取り戻すために不利を受け入れていて、その様子ではな……結局無意味だと思わないか?」
「……」
ブネが、なぜこの状況でその問いかけをするのかが分からず、クトーは黙する。
「あの少女がドラクロを追い出して意識を取り戻したところで、逃げ切れるわけでもあるまい」
嗜虐と侮蔑。
魔族の瞳には、その2つの色が浮かんでいた。
「今の貴様には、これだけ私が隙を見せて無駄な話をしていても、自分から仕掛けてくる体力も残されていない。……これ以上、楽しい闘争は望むべくもないということだ」
大きく両手を開いたブネは、心の底から残念そうに言いながら両手を広げる。
言葉通りに隙だらけ、ではない。
まだ諦めようとしないクトーに、命を奪う最後の瞬間まで挑みかかれと、彼は言っているのだ。
飛び込めば、その瞬間に終わる可能性もある。
足を動かさないクトーに、ブネは失望したように笑みを消してから、レヴィに対して手をかざした。
「ドラクロと体をつなぐために利用していた魂は、すでに肉体に返った。……だがもう、こちらにはあの少女を清浄なままに生かしておく理由も、なくなった」
「……やめろ」
クトーは彼の狙いを察して、剣から片手を離して腰に手を伸ばした。
ブネは、腕を黒く変質させていた瘴気を塊に変えて、手のひらの上に浮かべる。
「やめて欲しければ、止めてみせろ」
「……!」
ブネが、あっさりと瘴気をレヴィの体に向けて放つが……クトーは動けなかった。
瘴気の塊がレヴィに命中して胸元に潜り込む。
空白の数秒の後に、何かが勢いよくレヴィの体から弾き出された。
※※※
白い靄と、黒い瘴気の食い合いは、トゥスの有利に進んでいた。
ドラクロだった瘴気の塊から、蛇のように細く無数に伸びてくる触腕。
応じるトゥスは、九尾に増やした尾を孔雀のような弧を描いて背に負い、白い靄を幾本もの白い腕に変化させて蛇を殴り倒していく。
衝突し、お互いに弾けては散る触腕と拳が、砕けるのと同じ速度で新たに生まれる。
無限にすら思える攻防だったが、トゥスはわずかに自分の力が勝っているのを感じていた。
力が削られるよりも、向こうの瘴気を最後まで食い散らす方が速い。
『ゲ、ゲゲ……』
『ヒヒヒ。観念しちまいな。お前さんの力じゃムダさね』
このままでは無理だと悟ったのか、不意にドラクロが攻撃を変化させた。
触腕を伸ばすのをやめて、爆発するように体積を広げてこちらを飲み込もうと、黒い霧に自身の魂を変化させる。
『ゲゲェ!』
拳では応じれない。
トゥスは、キセルを立てて早口に呪文を唱えた。
「天元行躰神変神通力―――〝骸繰魔破〟」
白い靄が光の球に変化して仙人の前に浮き上がり、輝きを増す。
迫り来る闇が、光に染められて消えていく。
ジリジリと、闇の津波が圧を増して押し込んでくると、トゥスもピクピクとヒゲを震わせながら押し戻す。
トゥス側にも、余裕があるわけではない。
目に見える攻防と違い、魂に宿る力をそのまま相手への敵意に変えて、ぶつけ合っているようなものだ。
こちらも本気、相手も死に物狂い。
だが、冷静に見てこのままなら、と思ったところで。
『……!?』
ーーー強大な瘴気の気配がレヴィの体内に潜り込み、そのままドラクロに吸い込まれた。
『ッおいおい、冗談じゃねーねぇ……l』
徐々に弱まっていた津波の圧がいきなり勢いを盛り返し、光の領域が一気に押し潰されていく。
不味い。
『ち……!』
『ゲ、ゲ、ゲゲゲゲゲェ!』
抵抗したが、無駄だった。
光は、トゥスの小さな姿の周りを囲む程度まで小さくなっている。
『こ、の……!』
これ以上抵抗すれば、トゥス自身が瘴気に呑まれることになるのだ。
トゥスは相手に抗するのをやめて……体の外へと意識を向けながら、レヴィの魂に向けて残った力の一部を放った。
『耐えろよ、嬢ちゃん……!』
そしてトゥスは、完全に瘴気に呑まれる前に、なんとか自らレヴィの体の外に躍り出た。
※※※
『すまねぇ、兄ちゃん』
飛び出して来たトゥスは滑るように宙を疾り、再びクトーに憑いた。
「……トゥス翁のせいではない」
言いながら、クトーは瘴気が放たれた時に手に握り込んだピアシング・ニードルを足に当てる。
瘴気を妨害するために投げる事が、出来なかったものだ。
魔力を練り上げることが思った以上に困難になっており、魔法を発動できなかった。
「……漲れ」
再び掛けた身体強化の魔法によって、体に力が戻る。
それでも、おそらくは魔法の補助がない普段以下の動きしか出来ないだろう。
ここまで追い込まれたのは、いつぶりだろうか。
下手をすると、魔王を相手にした時よりも疲弊している気がした。
『ゲゲゲ……』
ドラクロの声が響き、ゆらり、とレヴィが顔を上げる。
元々褐色であるレヴィの肌が、さらに色を深くしていた。
瞳の色は、淀んだ血のように赤黒く染まっている。
再びレヴィの体は魔族に支配された。
その上今度は瘴気の侵食が始まっており、放っておけばレヴィの魂は喰われて魔族と化すだろう。
『……聞きな、兄ちゃん』
トゥスが、何かを諦めたような声音で語りかけてくる。
『兄ちゃんは、逃げる事を考えなきゃならねぇ状況さね』
「……」
『もうこれ以上は、やり合ったとこで嬢ちゃんも兄ちゃんも死ぬ。賭けられる可能性は1つ。……結界の外に逃げて、時に愛された子と、竜のあんちゃんを呼んでくる事だけさね』
「無理だ」
それではレヴィを救えない。
クトーは、それを理解できてしまっている。
「万一結界を破れたところで、奴らは逃げるだろう」
『それでも、兄ちゃんだけは生き残らなきゃならねぇ』
「レヴィを見殺しにして、か?」
クトーは、剣をだらりと下げると、血まみれのグローブを礼服のズボンで拭い、乱れていた髪を掻き上げた。
防具はボロボロの礼服に疾風の籠手、武器は剣1本にピアシング・ニードルが数本。
ポケットのカバン玉を使った戦闘を行うだけの余裕は、もう自分にはない。
それでも。
「俺は逃げん。レヴィだけは、必ず救う」
クトーの言葉に、トゥスは大きく息を吐いた。
『兄ちゃんは、幼いねぇ……ある意味で、嬢ちゃん以上に』
クトーは、ブネに向かって地面を蹴った。
再び両手で剣を握り、脇から上段に持っていった剣を振り下ろす。
『恐れを恐れのままに捨ておかねぇのは、強く見える。だがね、死は常にそこにあり、やがて自らにも降りかかるもんだ』
ブネは無言のまま腕をもう一度異形と化して、クトーのガラ空きになった脇腹を無造作に爪で薙ぎ払った。
血が飛び散る。
体が横に向かって吹き飛び、剣は弾き飛ばされ、壁に頭を打ち付けた。
痛みと衝撃でぐらりと傾ぐ意識を、どうにか失わずに繫ぎ止める。
『兄ちゃんは理屈を知ってる。自分の手がどこまで届くかを知ってる。そして、線を引いてるのさ』
ーーー死んだ奴には手が届かねぇが、失われる訳じゃねぇ、と。
トゥスが、何を言いたいのか分からなかった。
『自分にも、その理屈を適用するかい? 自分自身が失われる訳じゃねぇ、と。だがそれなら、なんで嬢ちゃんが生きてることにこだわる?』
深い知性を感じさせる声は、どうにか、クトーの翻意を引き出そうとしているのかもしれない。
『魂は輪廻に還るが、思い出も生きてきた証も、そこには残らねぇ。漉されて、消えちまうんだ。だが兄ちゃんは、輪廻の輪の中にいりゃ相手が『そこにいる』んだと思い込んでる。その、魂と別れた記憶が残るのは……遺されたモンの心の中だけさね。兄ちゃんは矛盾してる』
「……」
トゥスの言葉を聞いていたブネが、ゴキリと首を鳴らした。
「思い出までも失うのは、クトー・オロチ自身のふがいなさのせいだ。そろそろ始末してやろう」
ブネの動きは、もう捕らえきれない。
彼が動き出す前に、もはや抜く力もない指で鞘に差したままのピアシング・ニードルに触れる。
ジリジリと、魔力を練り上げ、ブネの姿が揺らいだ瞬間に力在る言葉を紡ぐ。
「防げ……!」
「無駄だ」
十分な魔力も練りこまないままに展開した防御魔法が、ブネの腕によって貫かれた。
腹に潜り込む爪先の感触と、ブネの奥底の読めない赤い目を残して、クトーの五感の一切が失われた。
魔族の唇の動きから、相手の言葉を読み取る。
「つまらんな……血湧き肉踊る死闘を、貴様と戦りあいたかった」
別にこちらは望んでいない。
そう、口にする事すら出来ないクトーに、トゥスが諦めた声音で告げた。
『兄ちゃんが自分の恐れを自覚しねぇのは、本当の意味で失った事がなかったから、なのかねぇ……強すぎた兄ちゃんは、仲間を、大切に想う者たちを、一度だって敵の手で亡くした事がねぇんだろう?』
五感が戻る。
耳の奥底で血流が轟音を立てて流れ、息苦しさが、腹を貫かれた焼けた鉄棒を押し付けられた痛みが、クトーを襲った。
『だから揺れた。普段の兄ちゃんならしねぇような失敗をした。嬢ちゃんの試験に魔族が絡んでると知った時も、その後わっちらの意見を聞いた時も。兄ちゃんは冷静さを欠いて、正常な判断が出来なくなっちまってたんだ』
クトーが、腹を貫いたブネの腕を掴もうと手を上げると、相手はあっさりと腹から手を引き抜いて後退した。
おぞましい感覚と共に、腹から、喉の奥から血が溢れ出す。
「ゴボッ……」
『そこを、敵に付け入られた。奴らの方が、兄ちゃんの事をよく知ってる』
「ヒュー……ヒュッ」
『仲間を失うことを恐れる自分を、自覚しなかった。兄ちゃん。恐れは押し込めるんじゃなくて、受け入れるもんだったんだ』
「い、やせ……」
かすれ、濁った声ではあったが、呪文はどうにか発動した。
傷は完全には塞がらないが、血が流れ出るのは止まる。
『嬢ちゃんの命が失われるかもしれねぇことを、恐れてる自分を。どれほど、嬢ちゃんや仲間を自分が大切に想ってるのかを。兄ちゃんは、ちゃんと理解しておくべきだった』
だが、そんなクトーにもはや興味を失ったように、ブネが背を向ける。
「無様だ。もはや見苦しい」
『ゲゲゲ。でしたら、ワシに始末させて欲しいのであります』
ドラクロが嬉々として声を上げるのに、ブネはうなずいた。
「いいだろう」
レヴィが絶対に浮かべないであろう、嗜虐的で見下したような表情のドラクロが、こちらへ向けて歩いてくる。
ダガーを拾い上げ、ベロリと刃を舐めた。
「トゥス、翁……」
『何だい、兄ちゃん』
「1つ、誤解を、訂正させてくれ……」
ふー、と大きく息を吐き、小さな声を出せるようになったクトーは、腹を押さえながらドラクロを睨みつける。
「仲間を敵の手で失った事がない、などとという話に対して」
クトーは、まだ諦めていない。
最後の力を必死にかき集めながら、トゥスに対して、告げた。
「黙っていては……今まで散っていった者たちに、申し訳が立たん」
18時にもう一話更新します。




