閑話:レヴィの事情
夜、山を吹き抜ける風が木々を揺らして葉音が響く中。
レヴィは音を立てないように、包まっていた毛布をどけて立ち上がった。
月は木々に隠れているが、星は明るい。
昔から、レヴィは夜でも他の人より物がよく見えるので、これくらい明るかったら十分だ。
自分がもたれていたのとは別の木の根元に腰掛けて剣を肩に立て、クトーは眠っていた。
夏場とはいえ、山の夜は冷える。
毛布から出たばかりのレヴィは、吹いてきた風に身震いしてからこっそりと足を踏み出した。
でも、クトーは例の着ぐるみ毛布とやらは着ていない。
彼の黒い外套は普通のものよりもあったかいから、野宿では秋口以降しか使わないらしい。
チャンスだ。
外套のポケットからカバン玉をすり取って、そのまま先に進めばいい。
風が葉を揺らす音に紛れて焚き火跡を回り込み、所々に折り重なっている木の葉を踏まないように慎重に歩みを進める。
クトーの間近につき、そろりとポケットに手を伸ばそうとして……レヴィは動きを止めた。
それから、たった二日だけ一緒にいた、眠る時まで銀髪がきちんと整った男の横顔をジッと見つめる。
クトーを、最初は気にくわない奴だと思った。
無表情だし、背は高いけどなんかひょろいし、全然強そうに見えなかったし。
ズバズバ物を言う上に、ビッグマウスは横取りするし。
だからカバン玉を持っているのを見て、盗ってやろうと思ってついてきた。
でも、クトーは見た目と全然違った。
金がないレヴィにご飯を食べさせてくれて、服や外套を買ってくれた。
奢りじゃない、って言ってたけど、それでも初対面の相手にそこまでする人を見たことがなかった。
レヴィがそのまま逃げる可能性もあったのに。
かなり年上で、自分と大して変わらないくらいの装備しか身につけていない冒険者のくせに、ムカつくくらい落ち着いててすごく偉そうだ。
でも、ギルドでも、ラージフットの時でも、クトーはすごく真剣で真面目だった。
クトーの口から出る耳に痛い言葉が、自分のためじゃなくてレヴィの事を考えての言葉だっていうのは伝わってきた。
変な奴だって評価は変わらない。
着ぐるみ毛布みたいなの堂々と着て平然としてるし、たまに距離は近いし。
それにメガネで隠れてるけど、近くで見ると結構カッコい……いやそれは今は関係なかった。
とにかく、変だけど良い奴だって事は分かる。
だから、ためらった。
普通、借金した相手のためにここまでしてくれない。
旅のついでみたいな態度だけど、前にいたパーティーの連中みたいに利用するだけ利用して報酬を渡さないとか、何も教えてくれない、みたいな事はしなかった。
―――カバン玉を盗るのは、もうちょっと一緒に居てからでもいいかな。
そんな風に考えて、レヴィは手を引っ込めた。
良い奴だからとかじゃなくて……そう、利用。今度は私が利用してやるんだ。
クトーと一緒にいて、一人で魔物を狩れるようなランクに上がったら、用無しだからカバン玉を取って逃げればいい。
彼自身も言ってた。
油断する方が悪いんだし、生きていく手段を覚えるために、もうちょっとだけ。
今みたいに、気づかれないで近づけるし、いつでも盗れるんだから。
そうして背を向けたレヴィは。
「何故やめた?」
思いがけずかけられた声に、背筋が凍った。
バッと振り向くと、クトーが姿勢を変えないまま、目を開けてこちらを見ている。
相変わらず、落ち着いた青い瞳に、無表情な顔。
声もいつも通りで、責めるような響きもない。
「お、起きてたの……?」
「足音を消すなら、もう少し上手くやれるようになれ。減点だ」
まるで当たり前みたいに告げられた言葉に、レヴィは唇を噛んだ。
「試してたのね?」
「何の話だ」
何よ惚けて、と頭に血がのぼる。
気づかれていた恥ずかしさと、何も気にしてないようなクトーに、みじめさを感じた。
「悪かったわね、お金がないからって人の物を取ろうとするような女で!」
完全に八つ当たりだ、と自分でも分かっている。
何でクトーに気付かれたのがこんなにも恥ずかしいのか、レヴィには自分でも分からない。
クトーは軽く眉を上げて、小さく首をかしげる。
「やめたんだろう? ならそれで良いんじゃないのか」
忍び歩きは斥候には必要なスキルだ、と平然と言われて、レヴィは居たたまれなくなった。
「そもそも、こんなところで盗みをして、街に一人でたどり着けるのか?」
「あなたも、私をバカにするの!?」
「……どういう意味だ?」
「どうせ私は、一人じゃ何も出来ないわよ!」
「レヴィ?」
少し驚いたようなクトーの声を振り払うように、レヴィは駆け出した。
彼に気づかれて、思い出した。
自分はこんな浅ましい真似をするために、冒険者になったわけじゃなかったってことを。
冒険者になる、と言った時に、両親は怒った。
『平和に暮らせているのに、わざわざ冒険者になる必要なんかないでしょう』
ーーーなりたいからよ! 何でダメなの!?
『あんな危ない仕事が、お前に務まる訳がないだろう』
何を夢見ているのか知らないが、大人しく結婚して子どもを産め、って。
だから村を飛び出した。
その後、冒険者ギルドで親切ごかしに近づいてきた、前のパーティーの奴らも言った。
『お前本当に使えねぇな、レヴィ。もういらねぇわ。冒険者やめちまえよ』
ーーーちょっと! 私の荷物は!?
『とっくに売っちまったよ。親切だろ?』
ツラは良いから体で稼げ、なんなら俺らが抱いてやるよ、なんてゲラゲラ笑いながら。
悔しかった。
でも、クトーは。
『よくやった』って。
ラージフットにトドメは刺せなかったけど、褒めてくれて。
冒険者のレヴィを、一回もバカになんかしなかったのに。
そんな奴、他にいなかったのに。
嬉しかったのに。
「……ッ!」
レヴィは、クトーを裏切ろうとした自分が、泣きそうになるくらい情けなかった。
※※※
しばらく斜面を走ったレヴィは徐々に足を鈍らせて、やがて立ち止まった。
目尻に浮かんだ涙をぬぐって、周りを見回す。
斜面が多少緩やかになり、木々が通って来た道の近くよりも巨大で、その分、木と木の間に少し間隔が空いていた。
「あ……」
レヴィは、山の斜面を目的もなく駆け下りたために、自分がどこにいるのか分からなくなっている事に気付く。
駆け下りてきた斜面を振り向いて見上げても、流石に暗くて先の方までは見通せない。
「迷った……?」
近所にある低い山で遊んだり木の実狩りをしたことはあるけど、こんな大きな山に来るのは初めてだった。
戻ろうか、と思ったが、仮に戻れてもクトーと顔を合わせたくない。
「多分、明るくなってから下に行けば、どっかに着くわよね……」
先の当てなんか何もない。
でも、クトーに会う前からそれは同じだった。
走って汗をかいてしまったので、少し後悔する。
今は体が火照っているが、夜明けまでには冷えてしまうだろう。
「風邪ひいたら、イヤだなぁ……」
いっそもう、夜のうちに降りてしまおうか。
そう思いながら麓に向かって歩き出そうとしたレヴィは、ふと首筋にチリチリとした焦燥感を覚えた。
何だろう、と思うのと。
頭上からヒュルル、という風切り音が聞こえたのは、ほとんど同じタイミングだった。
考えるよりも先に、体が動いた。
とっさに横に跳ねたレヴィの居た場所に、ドサ、と何かが落ちたような音の後に、ザリザリザリ、と落ち葉の上を何かが這い回るような音が聴こえる。
目を向けると、そこに居たのはレヴィの三倍はありそうな巨大なヘビだった。
ーーーいや、へビじゃない!
レヴィは緊張した。
キャシャァ、と鎌首をもたげたそれには、翼が生えている。
ただのヘビなら二本しかない毒牙のような形状の歯が口の中に幾重にも連なっていた。
「ど、ドラゴン……!?」
レヴィは竜騎士の駆るワイバーンくらいは見たことがあっても、完全に手足のない竜なんて見たことがなかった。
しかも、彼女を攻撃的に威嚇している。
ダガーを引き抜いて構えたが、当然その程度でヘビのようなドラゴンは怯まない。
体をたわめて大きくアゴを開いて襲いかかってきた魔物を、レヴィはもう一度横に跳んで避けた。
「速……!? あぐっ!」
避けた先に木立があり、ぶつかって予想外の衝撃に息が詰まる。
手から力が抜け、ダガーがすっぽ抜けた。
「あ……」
斜面を何度か跳ねて、武器はドラゴンの近くに落っこちる。
拾いには行けない。
きっと、拾う間に絞め殺される。
「に、逃げなきゃ……」
目で追えないほどではないが、ドラゴンの動きはビッグマウスよりも速かった。
足場も視界も悪い中で、逃げ切れる自信はない。
死ぬ。
木立を背になんとか立ち上がったが、ドラゴンはその間にレヴィの逃げ道を塞ぐように長い体を半円状に伸ばし、再び鎌首をもたげた。
殺される。
そう思った時に、クトーの言葉が耳に蘇る。
『自分の命をここにあって当たり前だと思っている人間は、冒険者には向かない』
レヴィは、ギリ、と歯を噛み締めた。
「当たり前だなんて……思ってない……!」
生きたい、と。
絶望の中でそう思った記憶を、レヴィは思い出す。
「ビッグマウスに比べたら、たった一匹の魔物なんて……!」
住んでいた村の、地平線まで続く広大な畑を埋め尽くすビッグマウスの群れ。
村に住む者たちの生きる糧を目の前で喰らい、荒らし、飢えて死ぬしかない未来を目の前で見せつけられた、あの時に比べたら……!
「ドラゴンなんて、一匹だけなら、ただのヘビやトカゲじゃない!!」
レヴィは自分を奮い立たせる為に叫んだ。
キャシャァ、と再び襲いかかって来た魔物から目を逸らさず。
レヴィは木立に体を押し付けてから、背中の反動で前のめりに体を倒す。
顔の脇をかすめる魔物の頭と入れ違うように跳び、斜面を転げながらダガーを拾い上げる。
「こ、のぉ!」
大きく首を伸ばした魔物が体を支える為に残した尾に、両手でダガーを突き立てるが……ガキン、と硬い音を立てて弾かれ、逆に手が痺れる。
その間に、レヴィが背にしていた木立にシュルシュルと蛇体を巻きつけていた魔物が、尾でレヴィの腹を薙ぎ払って吹き飛ばした。
「……ッ!」
息が詰まり、体勢を立て直す事も出来ずに地面に叩きつけられたレヴィは、頭を打って視界が真っ白に染まる。
少しの間、気絶していたのかも知れない。
ぼやけ、半分が暗くなった視界の中で、ドラゴンが大きく口を開けていた。
魔物の喉の奥で、チロチロと炎がまたたくのが見える。
ブレス。
ドラゴン種が炎を吐くことくらいは、レヴィも知っていた。
体に力を込めて起き上がろうとするが、足に全く力が入らない。
「諦める……もんか……」
生きるんだ。
私は。
「私は、あの人たちみたいに……!」
そして、魔物が炎を吐いた。
と思った瞬間に、バサリ、と音がして、レヴィの視界が真っ黒に染まった。
「……!?」
炎が周囲で吹き荒れる気配を感じるが、全く熱くない。
腕を上げると、体を何かが覆ってるのが分かった。
「なん……?」
軽くて暖かいそれを退けると、視界が回復した。
体にかかっていたのは、黒い外套。
そして腕輪を光らせ、薄い幕のような輝きを宙に浮かべて、魔物とレヴィの間に立っていたのは……。
「……クトー?」
レヴィの呼びかけに、薄い皮の胸当てをして片手に剣をぶら下げた無表情な男が、メガネのチェーンをシャラリ、と鳴らしながら振り向いた。




