おっさんは少女を腕に抱く。
大きく息を切らせながら、レヴィはもう何度目になるか分からないミッシング・ドラゴンの尾の一撃を避けた。
「ゼェ……ゼェ……」
いくら投げても、ナイフはドラゴンの外皮を貫けなかった。
トゥスの補助がない状態では、当たりはしてもウロコを一枚剥がす程度の威力しかない。
幾重にも強固なそれと強化魔法を身に纏った相手に弾かれたナイフが、辺り一帯に散乱していた。
「なかなか粘るな」
どこか面白そうに言うシラミに答える余裕もないが、諦めるなんてもっと冗談じゃなかった。
こんなところで死ぬために、冒険者になったんじゃない。
戦っているミッシング・ドラゴンの攻撃は、フライングワームと似たようなものだから、なんとか避けることが出来ていた。
ブレス、尾の攻撃、そして巻きつきの代わりにある前足の攻撃。
前足に関しては、ラージフットと似たようなものだ。
ドラゴンが大きく体を逸らして、その前足を振りかぶって来る。
「ッ!」
タイミングを合わせて、レヴィは息を止めた。
血が巡りすぎて、顔の腫れが酷くなっている。
汗がその表面を流れてジクジクと痛むのも、まぶたが膨らんで視界を徐々に塞いでいくのも鬱陶しい。
でも、レヴィは今、この瞬間を狙っていたのだ。
外すわけにはいかない。
指先まで神経を集中し、投げナイフを放つ。
狙ったのは、ドラゴンのアゴの下。
そこに見える、1つだけ逆さになったウロコだった。
妙な生え方をしているそれをレヴィは何度か狙っていたが、そのたびに頭を下げるドラゴンに邪魔をされていたのだ。
だから、弱点だと思った。
ナイフは狙い違わずに逆さのウロコを刃先で捉え……でも、そのまま弾かれた。
「……ッ!」
失敗した。
と思ったが、ドラゴンが直後に吠え猛る。
『ゴギャアアアアアアアAaaaaaaaaッ!!』
床まで震えるような巨大な声に、耳がジィン、と痛んだ。
片目をつむって顔を歪めている間に、ドラゴンが前足を地面につく。
その大きく下がった頭へ向けて、レヴィは逆の手でもう一本のナイフを投げた。
今度狙ったのは、瞳だ。
逆さのウロコを弾くのに失敗したら、と準備していた次善策だった。
こちらは、瞳にまっすぐ突き刺さる。
「よし……!」
目が片方潰れれば、動きが鈍るはずだ。
ーーーレヴィがそう思った直後に、ドラゴンが動いた。
「え? ぐぅ……ッ!」
全く目が痛んだ事を感じさせない巨体の突進。
とっさに後ろに跳んで腕を交差させたレヴィは、ドラゴンの硬い額とぶつかって弾き飛ばされた。
凄まじい衝撃と共に視界が回り、宙に放り出された体が思い切り床に叩きつけられる。
「ごボ……ッ!」
喉の奥から、生臭く温かいものがせり上がって来て、レヴィは堪えきれずに吐き出した。
びしゃびしゃと、血が床に流れる。
喉にからんで、息が出来ない。
「……ッ!」
首筋が強張るほど力を込めて、ヒュゥ、と喉を鳴らしてか細く息を吸い込んだ時には、視界のはしが金色に縁取られていた。
死にそうだ。
でも、まだ、終わってない。
「ヒュ……グゥ……!」
倒れたまま気合いで目を向けた先で、ドラゴンが荒れ狂っていた。
無事な片目が白眼を剥いており、レヴィの方など見ずに壁や床を闇雲に叩き回っている。
そのたびに突き上げるような振動が来て、呼吸を乱された。
「やれやれ……なんだあれは」
シラミの言葉に、礼服の男が低い声で答えるのが聞こえた。
「逆鱗に触れられて、怒りで我を忘れているようですね。……支配します」
その言葉と同時に、びくん、と震えたドラゴンが動きを止めた。
大声を出すように限界までアゴを開き、海老反りになって天を仰ぎながらも一切音を立てない。
そして何回か痙攣した後に、ドラゴンは不意に力を抜いた。
ゆっくりと頭を下ろして、片目でレヴィの方を見る。
その瞳は相変わらず無機質で不気味なものだが、するりとこちらに向かって来る動きが、今までの獣のそれではないような気がした。
呼吸が整い少し落ち着いたレヴィは、四つ這いの姿勢まで起き上がる。
「ヒュー……ヒュー……」
「流石に、そろそろ終わりか?」
「ええ。すぐに殺しますか?」
礼服の男の言葉に、シラミは否定を返した。
「いや。心が折れていないようだからな」
黒いキモノの老人は、レヴィに向かって問いかけて来た。
「大人しく、放っておけば良かったものをこんな所まで女将を追いかけて、1人だけ逃し、あげくの果てにそのザマだ。……一体、何がしたかったのかね?」
何がしたかったか。
そんなの、決まってる。
問いかけられたレヴィは、力を込めて無理やり笑みを浮かべた。
クトーなら、きっとこう言う。
それは、レヴィの心にストンと落ちてきた言葉。
クシナダを逃がそうと思った時に、クトーの姿と共に思い浮かんだ記憶だ。
「あら……」
汗まみれ、血まみれの頭を軽く傾げて、レヴィはしゃがれ切った声を発した。
「困っている人を、助けるのに……何か、理由がいるの?」
レヴィの答えに、シラミはつまらなそうに目を細める。
「そもそも、助ける必要がないな。全く理解出来ん精神性だ。が、そういう奴の方が面白くはある。……おい」
「はい」
「あれの絶望した顔が見たい」
その悪趣味な提案に、礼服の男がさらりと言った。
「では、腕を焼きましょう」
その言葉と共に。
ドラゴンが細くブレスを吐き、その炎が、レヴィの両腕『だけ』を焼いた。
「が、ァ、ァア、あ、アッーーー!?」
顔をあぶる熱を感じたと同時に両腕に宿った凄まじい痛みに、レヴィは声を抑えきれなかった。
だが。
叫ぶ事しか出来ないほどの痛みは、すぐに消える。
そして、両腕の感覚がなくなった。
ブレスが放たれていた時間は、ほんのわずかだったが……。
「消し炭だな。あれで死んでないのか?」
「多少は加減しましたので」
まるで肉の焼き加減を確認するかのような物言いをする2人。
レヴィはかすむ視界に映る自分の腕を、信じられない気持ちで見下ろした。
「あ……ぁ」
腕の付け根は狂ったように痛みを訴えているのに、煙を上げる両腕は全く感覚がなくなっていた。
「う……ぐ……ッ」
黒炭の色と化し鉄のような重みを感じる腕は、持ち上げようとしても持ち上がらない。
痛みと目の渇きのせいで、自然に涙がこぼれて止まらない。
ーーー腕が。
ぼんやりとそう考えながら、レヴィは手すりからこちらを見下ろしているシラミたちをふり仰ぐ。
礼服の男とナカイは無表情に、ノリッジとスナップは脂汗を流しながらこちらを見ている。
そしてシラミは、今までレヴィが見たこともないような醜悪な笑顔を浮かべていた。
「ハハ、良い顔だ」
言われた瞬間に、レヴィは目を伏せた。
ーーーこんなとこで。
「……ふふ」
ーーーこんな奴らに。
レヴィはドラゴンに背を向けて、ズル、ズル、と腕と体を引きずりながら、ゆっくりと大扉横の壁際へと這った。
「おや、どこに逃げるのかな?」
ーーー逃げる?
まるでおかしな事を言うシラミに、レヴィは喉を鳴らした。
馬鹿馬鹿しい。
ーーー誰が、あなたみたいな奴を喜ばせるような、無様な真似を。
レヴィが望んだのは、壁際に落ちている投げナイフ。
その、無事な一本の柄を歯でくわえて、振り返って壁にもたれた。
「……ッ」
背中を壁に押し付けながら、震える足に力を込めて、どうにか立ち上がる。
ーーー誰が逃げるか。
あんなクズども相手に。
誰が、折れてなんかやるもんか。
「フーッ……フーッ……」
今にも意識が飛びそうだ。
それでもナイフをくわえたまま、レヴィは手すりの上にいる連中を睨みつける。
目を向けると、元仲間の2人が震え上がったように身を強張らせた。
腕がなくなっても。
首だけになっても。
ーーー人の幸せを、自分の愉しみのために奪うような奴らになんか、私は絶対に負けない。
最後の最後まで、抵抗してやる。
覚悟を決めたレヴィの顔を見て、シラミは興ざめしたように笑みを消した。
「もういい。殺せ」
礼服の男にそう命じて、男がそれを実行に移そうとドラゴンの頭をもたげる。
しかし、ドラゴンが動く前に。
建物の大扉が、轟音と共に吹き飛んだ。
※※※
クトーが蹴り破った扉から中に入ると、肉の焦げるような臭いが鼻をついた。
中に入って最初に見えたのは、翼のないドラゴン。
そして、階段の上に立つ数人の男女だ。
「……ク、トー?」
声をかけられた扉の横の方を見ると、からん、と床にナイフが転がる音がした。
そこに立っていたのは、レヴィ。
腕が焼けて黒く染まり、煙を上げている。
顔半分は、記憶の中よりも腫れ上がり、顔も足も熱に炙られたのか真っ赤に染まっていた。
「……」
黙ってメガネのブリッジを押し上げるクトーに、手すりの向こうに立つ老人が声を発する。
奴がシラミだろう。
「来客の予定はなかったはずだがな……」
気分を害したような発言に、クトーは、静かにドラゴンと男たちを一瞥する。
そして自分の心の内に溜まった、底冷えがするような怒りと共に告げた。
「黙れ」
同時に、クトーは抑え込んでいた殺気を全身から解き放つ。
魔力が溢れ出して、部屋の空気を重く濃密に染め始めた。
「うぁ……」
「ひ、ヒィ!」
ノリッジとスナップが尻餅をつき、老人も気圧されたように一歩後じさる。
ナカイがぶつんと糸が切れたように倒れ、礼服の男だけが表情を変えずに微動だにしない。
それらを放っておいてレヴィに近づいたクトーは、呆然としている彼女を見下ろした。
まずは処置だ。
引き抜いた針に魔力を通して、クトーは彼女の頬に手を添えた。
そのまま、体を預けるように力が抜けたレヴィの首筋に、取り出したニードルを当てる。
「遅くなってすまない。……癒せ」
治癒の魔法がレヴィに作用して、火傷や怪我を癒すが両腕は消し炭のままだった。
それでもレヴィは痛みが多少は引いたのか、寄せていた眉根をふっと緩める。
中級の治癒魔法では、四肢や肉体の欠落は癒せない。
それは蘇生魔法に分類される上位魔法の効果だ。
ーーーレヴィの腕を、この程度の魔力では癒せないほどに焼いた。
敵の罪状を1つ心の中に増やしながら額の汗をぬぐってやると、彼女は申し訳なさそうに顔を歪めた。
「ごめん……失敗した……」
「いいや、俺のミスだ。そしてお前をこんな風にした奴らには、責任を取らせる」
クトーは、レヴィを壁にもたれさせた。
「茶番に付き合う気はないぞ。背を向けていいのか?」
礼服の男が低く言い、ドラゴンから魔力の気配が膨れ上がる。
クトーはレヴィを癒したのと別のニードルを、背中越しに床に投げた。
「防げ」
魔力攻撃を防ぐ結界が周りに構築された直後に、炎で結界の外側が染まる。
しかし、結界は完全に熱を遮断していた。
「講義の時間だ、レヴィ」
「私……こんな腕じゃもう冒険者、続けられないよ……?」
「黙って聞け。……真に自由な者に必要なのは、己を律し、常に立ち向かう姿勢を持たんとする、その心持ちだ」
たとえ未熟でも、力が及ばなくても。
レヴィは自分に出来る事を考えて、クシナダを逃がすことを最優先に行動した。
彼女はもう、無謀なだけの少女ではない。
「どんな姿であろうとも」
レヴィの頭を撫でたクトーは、微笑みかけた。
「……正しい芯を持ち抗い続けたお前は、憧れた男と同じ、立派な冒険者だ」
レヴィはクトーを見上げて、ボロボロと涙を溢れさせた。
よくやった、と伝えながらクトーは立ち上がる。
「見ていろ。ーーー邪悪は、滅ぼす」
振り向くと、ドラゴンのブレスが終わると同時に結界が消えた。
「ほう、無事か」
「この程度の魔物で俺を殺せると思っていたなら、見込みが甘いと言わせてもらおう」
クトーは風の宝珠を2つ取り出し、リュウとミズチにそれぞれ繋いだ。
もう、金に糸目を付けるつもりはなかった。
レヴィは仲間だ。
仲間を弄び、傷つけた者を、クトーは決して許さない。
「リュウ、終わったか?」
『ああ』
「ミズチ、一度止まれ」
『はい』
「敵対者を殲滅する。魔力を貸してやるから、跳んでこい」
クトーはニードルを自分の周りに投げて、簡易の六芒星に見立てた。
「ミズチ、位置を特定しろ。やるぞ、リュウ」
『おう』
『繋ぎます』
クトーが、六芒星を介して脳内に浮かんだリュウに魔力を流し込むと、リュウが魔法を発動した。
それはかつて遺跡で英霊に教授された、『望む者がいる場所』へと人を運ぶ太古の魔法。
ミズチの目と、リュウの血脈と、膨大な魔力を使うことで初めて発動する、絆移動の魔法だ。
ミズチ、トゥスが最初に現れ、次いでリュウとズメイ、ギドラ、ヴルムも姿を見せた。
リュウはデストロだった魔物を、手にぶら下げている。
四肢がなく、既に事切れているようだ。
「え……?」
見ていたレヴィが、声を上げた。
「り、リュウ……さん?」
その声に振り向いたミズチが息を呑んだ。
「レヴィさん!」
『嬢ちゃん……』
2人がレヴィに駆け寄るのを見て、リュウが頭を掻く。
「レヴィ? なんかどっかで聞いた名前だな」
「後で説明する。そしてこいつらの相手は、俺1人でやる。……アレを寄越せ」
クトーがリュウに手を差し出すと、彼は眉を上げた。
それからレヴィをちらりと見て、理由に納得した様子で尋ねて来る。
「建物自体はゴツい耐魔素材で出来てるっぽいけど。結界もいるか?」
「手加減するつもりはない」
クトーに対して肩を竦めたリュウは、袖口に入れたカバン玉を抜き出すと、ズルリと長大な獲物を引き抜いた。
巨大で美しい青の呪玉を埋め込んだそれは、【真竜の薙刀】と呼ばれるSランク+の装備だ。
「ほれ」
放り投げられたそれを受け取ると、クトーはドラゴンに向けて即座に振るった。
「燃やせ」
「っておい!」
リュウが慌てて魔力遮断の結界を張ると同時に、部屋の中に閃光が炸裂した。




