閑話:二人の少女
クシナダは悩んでいた。
不慮の事故で一年前に両親が他界し、旅館を継いだものの経営が思わしくないからだ。
最近は、以前に比べて宿泊されるお客様が極端に少なくなってしまった。
クシナダは、慣れないながらも頑張って来たつもりだった。
母を手伝って付けていた帳簿や日記を見返して、一体何が悪いのかと考えるが答えは出ない。
継いでから来てくれた常連のお客様からの評判も、悪くはなかったと思う。
でも、料理に舌鼓を打って温泉を楽しんで帰り、粗相もなかったはずなのに次の予約が入らない事が多くなった。
そうこうする内に、食材の値段が上がり始めた。
最初は少しずつ少しずつ値上がりして、帳簿を見返している内に最近では値段が当初の倍近くなっている事に気付いたのだ。
他所から新鮮なまま取り寄せている食材が、特に顕著だった。
普段の買い物では感じないのに、何故取り寄せたものがここまで値上がりしているのだろうか。
問屋さんに尋ねても税の値上がりが、漁の具合が、とそのたび毎に理由も違う。
経営が苦しくなる中、経費だけが嵩んでいく。
そして昨日ついに、泊まり客がギルドからの紹介で来ていただいたお客様だけになった。
今の状況が続くのであれば、今まで一緒に頑張ってくれた従業員の首を切るか、必要な経費を削減するかのどちらかしかもう取れる手段がない。
クシナダは今までも明かりや雑務など、お客様の目に触れないところはあまりお金を使わないように努めてはいたが、それも限界だった。
一番経費を圧迫している料理の素材について、地のものを使ってくれないかと料理長に何度も相談をしていたが、彼の返答はいつも『料理の質を落とすわけにはいかない』という拒絶。
このままでは、旅館ごと潰れてしまう。
思い悩んだ末に、クシナダはお参りをする事にした。
クサッツの山神様は、温泉という恵みをもたらしてくれる癒しと富の神だ。
いたらない自分のせいで皆を路頭に迷わせる訳にはいかないのに、もうクシナダには他に出来る事が思いつかなかった。
すると、山神様の元へ向かう途中でお客様と出会った。
「こんな所でどうした?」
あまり表情の変わらない、銀髪に銀縁眼鏡を掛けた30代くらいのお客様……クトーに問われて、クシナダは恥ずかしさを覚えた。
昨晩、褐色の肌で小柄なお客様、レヴィが入浴したのを知っていたので、もう来られないだろう、と入浴を済ませようとしたところに、彼が入ってきて半裸姿を見られてしまった。
すぐに頭を下げて出て行ったので、おそらくはお間違えになったのだろう、とクシナダは思う。
それでも、男性に肌を見られた事など親族以外ではないクシナダは、とっさに表情をつくろう事が出来なかった。
「今から、山神様のところへお参りに……」
小さく告げると、クシナダは目を伏せた。
これではいけない、と思いながらも顔を見れず、耳が熱くなる。
印象が悪いだろうかと少し身をすくめていると、どこかトゲのある口調でレヴィが言った。
「クトー。……あなた何したの?」
「何もしていないが」
平然とした声のクトーはごまかそうとしている様子はなく、普通に答える。
そう、何もなかった。
肌を見られただけで。
でも、レヴィは納得していない様子で、さらに言い募る。
「何もなかったわりに、すっごく恥ずかしそうだけど」
「そうだな」
「ねぇ、あなたってもしかして女たらしなの?」
「何だそれは」
「知り合いの女の人は美人ばっかりで親しげだし。何? たらしで面食いなの?」
「随分と悪意がある見方のような気がするが、単なる偶然だ。可愛らしい女性が好ましいのは否定しないが」
「へー、そう」
「……何を不機嫌になっているんだ?」
本気で不思議そうなクトーと、険悪なレヴィのやり取りに、クシナダは慌てた。
何かの誤解から、レヴィはクトーを疑っている。
「あの、本当に何でもありませんので……」
レヴィに目を向けておずおずと告げると、レヴィはなぜかクシナダの胸元をちらりと見やり、それからクトーを見上げて睨みつけた。
「皆、胸も大きいみたいだし。……私以外は」
何故か少し苦しそうな顔で言うレヴィに、クトーが顎に手を添えて、ふむ、と声を漏らす。
「そういえばそうだな。だが、胸の大小がどうかしたのか?」
何だか話が変な方向に向かっている気がするのは、気のせいだろうか。
胸の話題に恥ずかしさの増したクシナダだったが、このまま立ち話をしていたら、夕食の支度に間に合わなくなってしまう事に気づく。
今からお二人は宿に帰られるのだろうし、とクシナダは再び口を開いた。
「あの、私は失礼させていただいてもよろしいでしょうか?」
そう伝えると、二人はうなずいた。
しかしレヴィは道を譲ろうとしながらも、まだ疑わしそうな口調で言い募る。
「クトー。本当に何もないのよね?」
「ない。大体、彼女とは昨日会ったばかりだ。……む?」
道を譲ろうとしてくれたクトーが、突然何かに気付いたように顔を跳ね上げる。
次に、その物静かな様子からは想像もつかないような素早さでこちらに近づいてきた。
そしてクシナダは、そのまま彼の胸に抱かれた。
「!?」
混乱していると、ふわりとクトーの体から漂う花の香りと共に、頭上で何かが弾けるような音が聞こえる。
「魔物だと……」
クトーの漏らした声は、クシナダの混乱にさらに拍車をかけた。
魔物がこの街道に出たなどという話は聞いた事がない。
「レヴィ。こちらに来い」
クシナダが顔を上げると、彼女を片腕に抱いたままクトーが空を見上げていた。
高いところで舞っている鳥を鋭く睨みつける彼の横顔は、研ぎ澄まされた刃のようで……こんな時なのに少し見惚れてしまう。
「ブレイクウィンドと呼ばれる魔物だ。風の攻撃魔法を使うから気を付けろ」
「倒すの?」
「長弓なら撃ち落とせるだろう」
宙で旋回して再びこちらへ向かってくる鳥の魔物を見上げたままクトーが言うと、レヴィは鼻を鳴らした。
「あれだけ的が大きければ、弓じゃなくたって倒せるわよ」
「何?」
「トゥス!」
『お、憑くのかい?』
クトーともレヴィとも違う声が響いた後。
自分と同じ位の大きさがあるブレイクウィンドに対して、レヴィはダガーを引き抜きざまに投擲した。
こちらへ向かって急降下していた魔物が、尾の先に淀んだ緑の光を灯らせて体を起こしたところだった。
レヴィのダガーは、狙い違わずその眉間に突き刺さる。
ギュグルゥ、と声を上げて、全身から力が抜けて落ちてくるブレイクウィンドに、ちょうど真下にいた数人が悲鳴を上げて散った。
音と砂埃を立てて落ちた魔物はピクリとも動かず、絶命しているようだ。
「どう?」
誇らしげに慎ましい胸を張るレヴィに、クトーが訝しげな声を上げた。
「これだけ正確な投擲技術があるのに、何故他の魔物相手に使わなかった?」
「え? ……なんかカッコ悪いからだけど」
レヴィがきょとんと答えるのに、クトーはかすかに眉根を寄せた。
鼻の頭にもシワが寄り、怜悧な風貌に凄みに似たものが加わる。
「どういう意味だ?」
「だってリュウさんとかさ、【ドラゴンズ・レイド】の人たちは前に出る人たちばっかりで、凄くカッコ良かったし。それにお金ないからダガー1本しかないし。投げちゃったら終わりじゃない」
クトーの怒りに気付いていないのか慣れているのか、レヴィが平然と答えた。
「バカか。最初からそれをやっていれば、スライム相手に近づく必要もなかっただろうが」
「はぁ!? あの弱っちい魔物相手に、そんなヘタれた真似する意味ないでしょ!?」
「もう一度言うぞ。バカか」
「何よ! いいじゃない、私はリュウさんみたいにカッコ良く戦いたいの!」
声を張り上げたレヴィは次にこちらに目を向けて、ますます険しい顔になる。
「ってゆーか、いつまでくっ付いてるのよ!」
言われて、クシナダはクトーに肩を抱かれたままだった事に気付いた。
自分の状況に気付いて顔が熱くなり、彼の顔を見上げると無表情にこちらを見下ろしている。
「すまない」
「あ、いえ……」
謝る言葉に答えながら、クシナダは両手を頬に添えた。
「あの、守っていただいて、ありがとうございます」
なんとかそれだけを言うと、クトーは小さくつぶやいた。
「あの魔物は、女将を狙っていた」
「え?」
クトーが膨れるレヴィに目を向けると、彼女は表情を変えないままで腕組みをする。
「そーね。それで?」
「他に人がいるのに、旋回した後もこちらを狙って来たとなれば、何か理由があるとしか思えん」
クトーにジッと見つめられて、クシナダは落ち着かない気分になった。
それが不安からなのか、彼の視線そのものに対してなのかは、自分にも分からなかったが。
「私が、狙われたのですか……?」
魔物に狙われる心当たりなど全くない。
結局その後、山の神へのお参りにクトーとレヴィが付いてきてくれて、無事に参拝を済ませてから、全員で宿に戻った。
※※※
夜。
レヴィは、夕食を終えて温泉に入っていた。
毎日体の汚れを流し、熱めのお湯に浸かれるなんて村で過ごしていた時以来だ。
しかも客がいないのから、足を伸ばしてもまだ広々としている大きなお風呂が貸切りで、景色も最高。
開放感から、体に布すら巻いていないレヴィは、すらりと伸びやかな褐色の肢体を湯に沈めた。
「はぁ〜、あったかいぃ〜……」
思わず声を漏らす。
風呂は露天で、周囲を木の壁で囲われているものの見上げれば夜空に満点の星があり、先ほど登っていたクサッツの山が黒い影になって見えていた。
存分に景色を眺めてから、ふと湯の中に目を落とす。
「ん〜……」
レヴィは、自分の両手を胸に添えた。
手のひらで包めてしまうサイズに、これまで見たクトーの知り合いらしい女性たちや女将のクシナダを思い返す。
「皆大きい……」
レヴィは、スタイル自体は悪くない、と自分でも思うのだ。
足は引き締まってるし、小柄ではあるけど短くもないし、肉付きは薄いがお尻も別に垂れていない。
でも、胸が背丈と同じでちっとも成長しない。
「むむぅ〜」
軽く揉んでみるが、昔触った母の胸のふくよかさには及びもしなかった。
むなしくなって手を離し、レヴィは別の事を思い出す。
「投擲、かぁ……」
石やナイフを投げるのは、実は小さい頃から得意だった。
山遊びの時に小さな獣を狩ったり、木の実を落としたりするのは誰よりも上手かったのだ。
木登りなんかも、男の子にも負けないくらい身軽に出来た。
でも、レヴィは冒険者としてはリュウに憧れているのだ。
ビッグマウス相手に大剣を振り回し、薙ぎ払う姿はカッコ良かった。
『投擲と弓矢を覚えろ』
宿に戻った後にクトーにそう言われて、レヴィは反発した。
『イヤよ、かっこ悪いって言ってるじゃない』
『何が格好悪いんだ。遠距離での攻撃手段を使えるなら、戦術の幅が広がる』
『だってそっち覚えたら、ダガーで戦わせてくれなくなるでしょ?』
自分の攻撃が、人よりちょっと……そうほんのちょっとだけ命中率が低い自覚くらいはある。
するとクトーは少し考えてから返事をよこした。
『ではこうしよう。近接でのダガーの扱い方を教える代わりに、弓矢や投げナイフ、その他の特殊な武器に関する扱いも覚えるんだ。その中で、自分が近接以外にも得意なものや気に入った武器があれば、それに関しても指導する』
『何、特殊な武器って』
『例えば、投げナイフに関しては最初使い捨てのものを与えるが、チェーンナイフと呼ばれる武器やブーメラン、あるいは鎖鎌というものも、この世にはある。一つ持てば、手元でも射程のあるものとしても使えるような武器だ』
その提案には、心が動いた。
でも返事をせずにいると、クトーはさらに言葉を重ねてきた。
『得意な事を、伸ばさずに腐らすのは勿体ないと思わないか』
『……でもそんな武器、クトーは使えるの?』
教えると言っても、使い方が分からないなら教われない。
もちろん、才能を褒められて、レヴィだって悪い気はしないのだ。
特にクトーは、指摘も厳しいが褒めるところは褒めてくれるし、ダガーを教えてくれるならやってみても良いかな、と思っていた。
『武器は一通り扱える。基礎だけだが、教える事は出来る』
肯定されたが、レヴィはまだ納得せずに念を押した。
『本当に、ダガーも教えてくれるのね?』
『俺は嘘は言わない』
嘘は言わないけど、いつも舌先で騙されてる気がする。
この無表情男は油断できないのだ。
『教えてくれるのが、ダガーと他の武器、半分半分の時間なら良いわよ』
『分かった』
内心で、よし! と拳を握る。
ダガーがダメと言われないなら、興味はあった。
ふふ、と思い出して笑みをこぼしたレヴィは、自分がそろそろのぼせかけている事に気づく。
「いけない!」
昨日は、それで少し体調が悪くなったのだ。
慌てて湯船から上がり、ふわふわの布で体を拭く。
肌は丈夫なほうで荒い布でも別に負けないので、これでも結構ツルツルなのだ。
温泉に入ると、なんだかしっとりしている気もする。
ふんふんと鼻歌を歌いながら部屋に戻ると、着ぐるみ毛布を身につけたクトーがいた。
思わず、頬が引きつる。
彼はいつも通りの無表情で、今日もお酒を呑んでいた。
「な、何でそれを着てるの?」
昨日お風呂に入ってから着替えたのか、今朝は起き抜けから朝食の間は青いユカタを着ていた。
丈が合ってなくて脛が半分くらい見えていたけど、座った時はピシッとした姿勢でちょっとカッコ良かったのに。
今日は不意打ちでこれだ。
着ぐるみ毛布は、相変わらず破壊力抜群だった。
「どうせこちらの部屋で寝るのなら、合わない枕よりも落ち着く」
「ユカタは?」
「思ったよりも暑かった。着ぐるみ毛布の方が効率の良い睡眠が取れる」
クトーは言いながら、優雅な仕草でオチョコを口に持っていった。
でも正直、全然サマにならない。
本人がそこはかとなく満足げなのが、余計に微妙な笑いを誘う。
大体、枕が変わると眠れないという気持ちも、レヴィにはあんまり分からない。
テーブルの前に座りながら、そういえば、と疑問に思った事を訊いた。
「トゥスは?」
あの妙な獣が、この面白い格好のクトーを見て例のヒヒヒっていうムカつく笑いを上げない訳もないし、とレヴィは思ったが。
「夜の散歩に出かけている」
クトーはレヴィの質問に答えながら、コトリ、と音を立ててオチョコをテーブルの上に置いた。




