おっさんは少女の要望を聞く。
クトーが風呂に向かうために渡り廊下を歩いていると、ふと横から声が聞こえた。
男性と若い女性が、何か言い合いをしているようだ。
足を止めて目を向けると、クトーが出てきた建物の右奥に明かりのついた厨房が見えて、その勝手口の前に白衣の老人と女将のクシナダが立っていた。
「……ですから」
「……度言われても、食材の質は……」
二人の声は正確には聞き取れなかったが、老人の方がすぐに厳しい表情のまま厨房に入っていった。
「あ……」
クシナダはバタンと勝手口が閉まると、軽く伸ばしていた手を力なく下ろす。
沈んだ顔でくちびるを噛み締めて、クトーの向かっている建物へと姿を消した。
何やらトラブルの匂いがするが、口を挟むような立場でもないクトーは彼女を見送ってから風呂へと向かった。
困り事があるのだろう、というのが、クトーらを案内した時と今の表情から察せられる。
しかし、ただの客にいきなり事情を尋ねられて答える経営者はいないだろう。
「ふむ……」
クトーは、温泉のある建物に入ると立ち止まってアゴに手を当てた。
困っていそうな者を見かけると、気になってしまう。
が、今は情報が足りなかった。
館内はレヴィの言う通りに他の客とはすれ違わず、気配を探っても数人程度しか感じない。
本当に自分たち以外の客が泊まっていない可能性があった。
おそらくは、経営難か金銭トラブルか、とクトーは当たりを付ける。
少し従業員区画と思しき方角に足を進めて観察すると、廊下の明かりも最低限以外は消されているようだ。
「……丁度良いな」
経営難ならば、もし助けてもあまり金にはならない可能性の方が高い。
しかしレヴィを本格的に育てようとした矢先の事でもある。
彼女に、ギルドを通さない依頼の受け方や、依頼人と自分の手間を省く為に自分から依頼人をギルドへ連れて行くというやり方もある、と教える良い機会になる。
そして何より。
「可愛らしい女性が困っているのを、金にならないからと見捨てるのは忍びないしな」
クシナダは所作こそ、洗練されていて美しい。
しかし化粧で年齢をごまかしていても、クトーにはレヴィよりも少し年上くらいの少女に見えた。
まずは裏付けを取り、続いて話を女将に持って行って事情を尋ねる。
どうせ休暇中で時間はたっぷりある上に、ミズチがいるから話が早い。
リュウが今クサッツにいないのなら、それなりに手も空いているだろう。
クトーは方針を決めて、温泉へ向かった。
目に付いた温泉マークののれんをくぐり、どこから旅館の状況に対してアプローチをかけ、裏取りをしようかと考えながら脱衣所に入って目隠しの角を曲がる。
するとそこに、クシナダがいた。
「……」
「……」
目が合って、お互いに固まる。
目を丸くしたクシナダは帯をほどいて肩から赤い布を下ろした半脱ぎの姿勢で、眩しいほどに白い肢体を晒していた。
胸元には何も身につけておらず、下着も布の間から目に映る。
キモノというものは体型を隠すようで、元々『ない』レヴィは気にならなかったが、彼女の胸元はおそらく平均的な女性以上のボリュームがある事を見て取った辺りで、クトーは我に返った。
「……失礼」
クトーは頭を下げて謝罪すると、まだ固まっているクシナダを置いてその場を後にする。
入口に戻ると、大きな温泉マークのついた青いのれんの左隅に白抜きで『女湯』の文字があり、横に全く同じ形の入口があって、こちらには『男湯』と書かれていた。
「やってしまったな……」
改めて男湯側の脱衣所に入って服を脱ぎながら、クトーは少し落ち込んでいた。
酔っている上に思索に沈んでいたとはいえ、現状把握を怠るなど冒険者にあるまじき失態だ。
まして婦女子の、それも若い女性の裸体を意図していなかったとはいえ見てしまった。
これは、明日にでも詫びの品を贈らなければならないだろう。
「いや……詫びなら……」
クトーは一つうなずきながら、全裸で手拭いを肩にかける。
それからメガネや服といったものを全てカバン玉に収納して小さな巾着袋に入れ、手首に紐を通してぶら下げつつ温泉に向かった。
※※※
「いい加減にしなさいよっ!」
翌日、山の中で響いたレヴィの怒鳴り声に、クトーはかすかに表情を歪めた。
「頭に響くから大きな声を出すな」
「あなたが二日酔いなのは呑み過ぎたからでしょ!? 自業自得よ!」
「薬草のおかげで大した事はなくなった。頭痛の名残があるだけだ」
「だから何よ!?」
ゼーゼーと肩で息をするレヴィに、クトーは外套の下で腕組みをした。
「一体、何が不満なんだ?」
「何が不満ですって!? 全てよ全て! 何で、温泉来ていきなり山歩きしなきゃいけないのよ!」
「お前の訓練の為だろう」
「あなた休暇中なんでしょ!?」
「そうだ。だからこうしてお前の訓練をしている」
何を当たり前の事を言っているのか。
休みでなければ仕事があるから、こんな事をしてはいられない。
横にプカプカと浮かぶトゥスに目を向けて、クトーは尋ねた。
「レヴィが何を不満に思っているのか本気で分からないんだが、トゥス翁は分かるか?」
トゥスは、プカァ、と煙を吐いて、いつもの皮肉な笑みを浮かべる。
『さぁねぇ。女特有のアレでイライラしてんじゃねぇのかい?』
「違うわよ!」
カッと顔を真っ赤にして、レヴィが握りしめた拳を震わせた。
「あなたたち、今日私にやらせた事をちょっとは思い出してみなさいよ!」
そろそろ、日も頂点を過ぎてからしばらく経っている。
レヴィの言葉に答えて、クトーは今日の訓練内容を口にした。
「まず、薬草を三つ並べて、毒草を見分ける訓練をしたな」
「そうね! 私が集めた薬草を、『一個毒草だ』って言ってビビらせたあげくに食べさせたわよね!?」
『嬢ちゃん、嘘は良くねぇね。わっちは『薬草によく似た草に、即死級の毒草がある』と言っただけさね』
「同じ事よね!?」
「違うな。お前がきちんと見分けていれば、トゥス翁の言葉は特に恐れるような話ではなかった」
レヴィが三つのうちの一つを選んだ後に、クトーも一つ選んで食べた。
二日酔いが辛かったのもあるが、実際は全部ただの薬草、というのが正解だったからだ。
レヴィは自信がなかったから疑って、不要に緊張しただけだ。
「それに、罠を貼る練習とか言って散々仕掛けさせた後に、自分で通らせたりとか!」
「自分で全て仕掛けさせただろう? 引っかかったのはお前の責任だ。追加などはしていない」
本来、敵や獲物を追い込んで引っ掛けるための罠の配置すら覚えていないなど、斥候として話にならない。
「漫然と言われた事をやって、根本的な意味を考えなかったからそうなる」
「ぐっ……ほ、他にも、寝るのに適した場所を探させて、嫌な予感がしたのに洞窟見つけたら入れって言った! でも入ったら中に魔物がいたし!」
「気配を察知したなら、警戒しろ。トゥスを事前に憑かせたし、そのまま調べもせずに入るのが悪い。人が過ごしやすい場所は猛獣や魔物にとっても過ごしやすい場所だ」
少し注意深く周辺を見れば、ぬかるみに足跡を見つけられただろう。
また獣に似た臭いも漂っていた。
そうした全ての答えを、クトーはトゥスと一緒に、事が済んだ後にレヴィに教えている。
「批難されるいわれはない。全てお前の不注意と真剣味の足りなさが原因だ」
「〜〜〜ッ! だから、そういう事を言ってるんじゃなくて、何で休暇中なのに休まないでこんな事をしてるのかって話でしょ!?」
「休暇中だからお前の訓練をしているんだと、さっきから言っているだろう」
「ああもう、話が噛み合わない!」
うがー、と頭を掻きむしるレヴィに、クトーは背後に意識を向けながら問いかけた。
「つまり、訓練をして物を覚えるのが嫌だと?」
「ぐ……そ、そうじゃないけど」
やりたくないのならやめるか、と考えて口にしたが、そうではないらしい。
人が何をどう思っているかを理解するのは、レヴィのように素直な相手でも中々難しいものだ。
「いいか、レヴィ。ただ答えを教えられて全てを知った気になっても、いざ本番で答え通りに動けなければ意味がない。また言われるままに反復したところで覚えはしない。自分がやって、失敗し、根本的に言われた事を理解しないと身にならないんだ。それは分かるか?」
クトーの言葉に、レヴィは反発したそうに口元を震わせてから、それでも首を縦に振る。
「……分かるわよ、それくらいは」
「では、何が不満なのかを明確に説明してくれ。俺はお前の利益になる事をしているつもりだ。そもそも、借金返済の為にFランク依頼をこなし、魔物を退治して報酬を得るのも重要な事だろう」
「う……」
まして現状、クトーが立て替えている食事代やフライングワームの素材加工代の他に、宿代や素材から装備を仕立てる為の金も、魔物細工を生業とする職人に支払わなければならない。
クトーとしてもレヴィが使い物になるくらいに育てば問題ないが、そうでなければ別の職を紹介するか否かを休暇中に見極めなければならない。
「分かっていて不満を言うのなら、その理由を教えてくれ。俺が見落としている事が何かあるのかも知れんしな」
レヴィはしばらく、答え辛そうに指を体の前でこすり合わせていた。
だが、やがてモゴモゴと言った。
「……私は、一日くらいユカタを着て、街を歩きたかっただけよ」
思いがけない事を言われて、クトーは少し黙ってしまった。
それをどう思ったのか、レヴィはアゴを上げてこちらを睨みつけてくる。
「何よ、いけないの? 借金してるのにワガママ言って悪かったわね!」
「いや」
クトー自身は、必要な事を優先して片付けてしまう方が好きだ。
仕事ではないが、レヴィの訓練には金も絡んでいる事だし、やり残しがあるままに遊ぶのは素直に楽しめない面がある。
しかし、そうではない人々がいる事もまた、クトーは知っていた。
筆頭はリュウだ。
だから、街の散策に関しては後二日三日、レヴィの訓練を行ってからにしようかと思い、そう計画を立てていた。
ユカタのレヴィを眺めながら街中を歩くことに、クトーも魅力を感じていない訳ではないのだ。
どう説明するべきか、と考えていたが……その前に時間が来た。
クトーはくるりとレヴィに背を向ける。
「レヴィ」
「何?」
「お前の意見は聞いた。前向きに検討しよう。その条件として」
クトーは、草むらを溶かして取り込みながら目の前にズルズルと現れた魔物を指差した。
「あれを単独で倒せれば、明日からの訓練を後に回して観光を前倒しで行おう。だが倒せなければ、明日は一日情報収集と金額交渉の講義を行う。……ユカタ姿でな」
クトーたちの前に現れたのは、ゼリー状の体で這う、プルンとした可愛らしい魔物だ。
半透明の薄青の体の中に、少し濃い色の青い球体が浮かんでいる。
その魔物は、スマーフ・ライク・ジェム……通称スライムと呼ばれる魔物だった。




