おっさんは少女の機嫌を損ねる。
「お待ち申し上げておりました。女将のクシナダと申します」
宿に着いてレヴィと共に中に入ると、若い女性が板を敷いた床に膝をついて出迎えをしてくれた。
指をついて頭を下げた彼女は、赤いキモノを身に付け、目尻に赤い紅色を差した独特の薄化粧をしている。
涼しげな一重まぶたの顔に淡く微笑みを浮かべながら、彼女は顔を上げた。
女将、というのは、クサッツの宿を取り仕切る女性を指す言葉だ。
「……若いな」
この高級宿は、一階建ての広い木造という贅沢な作りだ。
建物自体もしっかりとしており、年季が入っている。
そうした場所を任されるには、彼女は若過ぎる気がした。
しかしクトーの発言に対して、クシナダは気分を害した様子もなく滑らかに立ち上がる。
「父母が他界して、他に継ぐ者もおりませんので……若輩ではございますが、精一杯のおもてなしをさせていただきます。お履物はそちらに」
「え?」
レヴィがクシナダの言葉に声を漏らすのに、クトーは小さく答えた。
「クサッツの宿は、土足で入れないところが多い。代わりに室内用の履物がある」
幾度か訪れた事のあるクトーは戸惑うレヴィをうながして靴下も脱ぐと、渡された手布で足を拭ってから室内履きに足を入れた。
同じように履き替えたレヴィが、落ち着かない様子で肩をくねらせる。
「なんか足元がスースーする」
「すぐ慣れる。キョロキョロするな」
「わ、分かってるわよ」
やはり緊張しているようだ。
魔物に相対する時のふてぶてしい程の図太さは、こういう場所では発揮されないらしい。
「では、ご案内いたします」
庭に面した廊下を抜ける際、美しく整えられた庭にぽかんと口を開けるレヴィには何も言わない。
部屋に入ったクトーが二人分の外套をクシナダに預けると、彼女はそれを壁に掛けた。
部屋は二つ続きで、片方はベッドルーム、もう片方の今いる部屋にはタタミと呼ばれるものが敷いてある。
ラッシュという草を編み込んだ床敷きで、緑色で独特の匂いを持ち、そして絨毯よりも少し弾力がある。
室内履きも脱いで過ごす部屋に、レヴィはやはり落ち着かないように幾度かつま先で感触を確かめていた。
クシナダが入り口の辺りで膝をついて部屋の中と宿の設備に関する説明をしてから、再び頭を下げる。
「……説明は以上になります。夕食の時刻になればまたお呼びしますが、お出かけになられますか?」
「宿から出る予定はない」
「でしたら、館内では好きにお過ごし下さい。呼び鈴を鳴らしていただければ係の者が対応いたします」
クシナダが退出するのを目で追ったクトーは、フスマと呼ばれる横に滑るドアを閉める彼女の表情が少しかげっているのを目に留めて、軽く首をかしげた。
「何を名残惜しそうに見惚れてるのよ」
するとレヴィが突っかかって来て、クトーは彼女に意識を戻す。
「ギルドから機嫌が悪そうだな。せっかく可愛いものを身につけているのに何が気に入らないんだ?」
髪留めに目を向けながらクトーは外套からカバン玉を取り出して彼女に放る。
何故か隠すように髪留めを片手で押さえながら、レヴィがカバン玉をパシリと受け止めた。
「別に!」
苦い表情を消そうとしない彼女に、クトーは別の話題を振る。
必要な話はまだ済んでいない。
「ベッドルームで着替えの準備をしろ。例のユカタの着付け方はここにある」
早く着てみせてほしいと思いながら、クトーはテーブルに置かれた紙を一枚、彼女に手渡した。
絵が入っているので、どう着るのか分かりやすい。
「カバン玉を持ち逃げするなよ」
「今更やらないわよ! 嫌味!?」
「返せと言っているだけだ。翌朝までの着替えを、ベッドの横にある物入れに入れておけ。装備品はダガー以外は仕舞っておいていい」
「……」
レヴィは答えずに、黙ってベッドルームに入ってフスマを閉めた。
「……一体どうしたんだ?」
『ヒヒヒ。鈍いねぇ、色オトコ』
レヴィの不機嫌の理由が分からなくて声を漏らすと、答える声があってクトーは片眉を上げる。
「何の話だ?」
『気にしねぇこったよ、兄ちゃん。わっちはこういうのが楽しくて仕方ねぇタチでね』
煙に巻かれたような感じがするが、クトーは言われた通りに気にしなかった。
皮の胸当てだけを外してカバン玉に収納すると、服の袖をまくる。
これから、レヴィに基本的な図面の描き方を教えながら夕食までを過ごし、夜の間に休暇計画を立て終えようと頭を切り替えた。
「トゥス翁。もう姿を見せても良いぞ」
『やれやれ。ようやくかい』
ゆらりと姿を見せたトゥスは、キセルを片手にザブトンというクッションにあぐらを掻いていた。
『茶を入れてくれねーかねぇ』
「飲めるのか?」
『香りを楽しむのさ。道中の茶店で香ったのは、故郷で飲まれてたもんに近ぇ匂いがしたからね』
懐かしそうなトゥスに茶を入れてから、自分とレヴィの分も準備する。
仙人がスンスン、と鼻を鳴らしながらユノミに顔を近づけ、湯気を吸い込む様子はとてつもなく和む。
その幸せそうな顔を堪能しながら、クトーは温かい茶を口に含んだ。
苦味が舌を撫でて、芳醇な香りが鼻に抜ける。
滑らかな喉ごしを感じた後には、スッキリとした後味が残った。
「美味いな。以前飲んだものよりも苦味の残り方が少ないように感じる」
『良い茶葉を使ってるんだろうよ。この手の茶は丹精込めて世話すると味が変わるのさ』
「なるほどな」
紅茶とも何か違いがありそうなので、休暇中にそれを学ぶのも面白いかも知れん、と思いながらクトーはユノミを置いた。
「レヴィに教える事を決めなければな」
『例の自然での過ごし方とかいうヤツかい? 街に着いちまったら出来ねぇ気がするけどね』
「クサッツの活火山は、ダンジョンがある区画が存在する。その周りには柵と派遣された兵士が配置されていて魔物はクサッツの街までは侵入しないが、山の過ごし方をレクチャーする程度は出来る」
『観光気分でダンジョン近くまで?』
トゥスは大きく片目を開けて、探るように皮肉な笑みを浮かべてクトーを見た。
チラリとレヴィのいるベッドルームに目を向けてから、声をひそめる。
『兄ちゃん、やっぱりただの冒険者じゃねぇね? お前さんは底が知れねぇ』
誤魔化しを許さない響きを帯びたトゥスの口調に、クトーはいつもと変わらずに答えた。
「ただの冒険者だ。普通とは少し違う経験を積んでいるかも知れないが」
『そうかい。わっちは山で過ごしちゃいるが、道行くヤツらの話に聞き耳を立てるのが好きでねぇ』
トントン、とキセルから出もしない灰を机の端で落とす仕草をしたトゥスは、クトーに対して、煙と共にねっとりと言葉を吐く。
『しばらく前に、魔王を名乗ってた魔物が殺されたってー話を聞いた。ほんの十数年前の事だがね。【ドラゴンズ・レイド】とかいうのがそれをやったらしい』
「……」
『表に出てくるのは大抵アタマ張ってるリュウってヤツの名前ばっかだが、その連中に不思議なヤツが混じってるってぇ話も聞いた。雑用やってる、メガネを掛けてて大して強くなさそーなヒョロいヤツがいる、ってな』
「別に一員である事を隠してる訳でもないからな。見かけた奴も多いだろう」
『だが、嬢ちゃんには言ってねぇんだろう? 何でだい?』
「特に必要を感じないからだ」
元々、自分から吹聴する話でもない。
訊かれれば答えるが、レヴィにパーティーの名前を尋ねられなかっただけだ。
『そうかい。じゃ、話を戻そうかねぇ。……フライング・ワームの攻撃を素手で止めて苦もなく始末する割に、ヤツのブレスを止めた時は嬢ちゃんを庇うのにえらく弱い魔法を使ってたねぇ。その外套も竜皮だろ? それも黒竜ってぇべらぼうに強ぇ竜のモンだ』
トゥスは、コキリと首を鳴らした。
『見合ってねぇんだよなぁ、色々と。……そんだけ莫大な魔力と外からの影響にビクともしねぇような魂を持ちながら、なんで力や存在を隠してる?』
油断のならない仙人だ、とクトーは感じた。
自らを物知らずと言いながら、冷徹なほどの観察眼だ。
しかし、彼は勘違いをしている。
「存在を隠している訳ではない。基本的に前に出る必要がないくらい、他のメンバーが強いだけだ。事務処理の方がどちらかと言えば得意でもある。魔力に関しては、使わないのではなく『使えない』んだ」
クトーは包み隠さずに告げた。
元々戦うのが好きな訳でもないが、それでもC級程度は素手で相手に出来なければあのメンバーについていけない。
どいつもこいつも、一撃でクトーの防御をぶち抜いて来る連中ばかりなのだ。
最後に全員で突入したダンジョンは、そんな連中でも単体なら苦戦するほどの強さを持つ魔物ばかりが生息していた。
「メンバーには目立ちたがりも多い。特にリュウはな。しかし俺はそうではない。ただそれだけの話だ」
『そうかい。なら、そういう事にしとこう』
しとこうも何も、事実なのだが。
あえて訂正することでもないので、クトーはレヴィに渡したのとは別のカバン玉からペンと何も書いていない紙を取り出した。
「では、休暇計画を立てよう。明日の計画は山登りにして、その中にレヴィの訓練を内容に含める」
『そういうの、苦手だねぇ』
「計画自体は俺が立てる。トゥス翁は、夜を過ごすのに適した場所の見つけ方、野草の見分け方などを一緒に見ていてくれれば良い」
『その程度で良けりゃ、適当に口を出すさね』
「魔物退治については俺がレクチャーする。他に知っていれば、どういう魔物のナワバリや足跡なのか、知ってる事を言ってくれ。明日一日もあれば、上手く行けばレヴィのランクが5まで上がる」
ランクが上の依頼を上位者と共にこなした場合、魔物退治の経験でランクが上がる条件は『自分と同ランクの依頼も同時にこなす事』だ。
薬草集めの依頼をもう一度レヴィに受けさせ、同時に魔物を討伐する。
ラージフット退治の時に、少し卑怯だが元からクトーの所持していた薬草を提出させてレヴィのランクを3まで上げた。
この辺りの魔物はEランク程度だ。
ラージフットの時と違い自分で野草を集めさせた上で魔物を倒せば、上手く行けば明後日からはレヴィ自身が魔物退治を行えるようになる。
「魔物に取り憑いて操ってくれれば、レヴィの危険も減るんだが」
『疲れるからイヤだねぇ。よく知りもしねぇヤツは暴れるしね。……が、逆ならイケる』
「逆?」
クトーが羽ペンを走らせる手を止めないまま言うと、トゥスが喉を鳴らした。
『そう、嬢ちゃんに憑いて力を貸すなら、問題ねぇ。わっちは嬢ちゃんの中にいるだけで良いからね。ただ、貸せるのは力だけだ。身の丈の岩くらいなら持ち上げれる程度になる』
「それで十分だ。祈祷師の憑依術に似ているな」
『根本は同じさね。降ろすか祟るかの違いだ』
「語弊のある言い方が好きだな」
レヴィは速い動きが出来るが、あくまでも女性だ。
彼女に足りていない力をトゥスが補ってくれるのなら、少しは無茶が出来る。
そうしてクトーが大まかに立てた計画に修正を加えていると、レヴィがベッドルームから顔を見せた。




