〜恋雨(8)〜彼女の名を呼ぶのは
──俺の名を呼べよ。なあ、美耶?
闇神に名を呼ばれた瞬間、美耶の中のなにかが目覚めた。なにか、が産声をあげた。
美耶の身体が揺らめく。全身から力を奪われた心地になり、倒れかけた彼女を素早く抱きとめたのは、やはり、樹峯だった。
「……」
痙攣を起こしたように身体を震わせている美耶を慎重に抱き寄せる樹峯の顔は。
「……ふ、やばいな」
闇神が面白げに独白し、樹峯を見据える。
彼は、これ以上はなく穏やかだった。整った口元を慈愛深く緩ませ、柔らかい色の瞳は極上の優しさを宿していた。
そう。抑えきれない激情を抑えるために。
偽りの顔をしているのだ。
やがて、樹峯が柔和な顔をしたままで、ゆっくりと開口した。
「満足か?命神様の名を呼べて」
闇神がうっすらと笑う。
「ああ、満足だ」
言葉どおりな笑みを刻んだまま、闇神は、焦点のあわない目をし、小刻みに震える美耶を見据えた。
「だから、やはり俺がもらう」
途端、闇神から放たれた暗黒の瘴気が美耶に差し迫った。
──だが。
「黙れ」
ついに、樹峯の感情のリミッターが外れた。
偽りの感情を宿した顔が剥がれる。
柔和だった顔は凄み、怒りと憎悪が露わになった。
──美耶を抱く樹峯の腕が隠しきれない激情にふるえ始める。
「……」
言葉はなかった。
怒りが、憎しみが、激憤が、殺意が樹峯から言葉を奪った。
一瞬、意識を失って震える美耶を強く抱き、そして、荒々しく剣を拾い上げ、横一閃に振るった。
銀の輝きが非情に空を切る。
樹峯のその面にあるのは、暗い激情。
──抑えきれない。
「まだまだだな、森神」
樹峯の全力の剣での攻撃は、容易に闇神に片手で受け止められてしまった。
余裕で、そして心底楽しそうに闇神は笑い声を漏らした。
「…………っ」
「武神でもある俺に剣で挑もうなんて随分無理をするもんだ。強大な力を秘めていても所詮は生まれたばかりの若神。その力を操るには時間がかかるようだな」
感情にまかせて動くのも、あまりよろしくないな。
そう揶揄し、闇神は次には無情な光をその目に宿していた。
樹峯が操る剣をいとも簡単に、右手でねじ曲げ、樹峯の腕を片肘で地面に叩きおとす。
微かに呻き声を漏らす樹峯に闇神が冷笑した。
「俺は戦闘を何よりも好んでいる。だがな、こんな戦いには興醒めしてしまう。いくら闇の力に抵抗力をもっていようと、お前は森神。十裏神にさえかなわない神だ」
だから、お前にもう用はない。
「もともと、俺が欲しいと思ったのは命神だけだからな」
我を忘れ、体を心臓のように動かしている美耶だけを闇神はその瞳にうつす。
樹峯は味わった事の無い絶望を覚えた。
──命神が奪われる。
誰よりも大切にされ、誰よりも敬われるはずの乙女が。
守るべき少女が。
何より、樹峯が愛する彼女が──
(美耶………)