机の中の不安定
僕の周りには、この話を受け渡せる人間が一人もいない。
こんな話を周りの人にしてしまえば、きっと頭のおかしい人間だと思われてしまうだろう。もしくは、悪趣味な冗談を言うやつだと思われてしまうかもしれない。いずれにせよ僕が、世界の中心から外側に向かって何メートルか移動するだけの結果になる。そして孤独という名前の売り物にならないゴミを、きっとまた自分の部屋に一つ増やしてしまうのだ。
しかし僕は今、とても混乱している。この状況を整理するために、この話を誰かに伝えることができれば、どれだけ心が楽になるか知れない。しかしそれができないのは、先に述べた通りだ。
そこで僕は、この話を文章にしたてあげ、不特定多数の方の目に触れる場所に公開することにした。それがまさに、あなたがいま目にしているこの文章だ。
あなたに読んでもらえれば、それだけで僕は本当に救われるし、何か意見なりアドバイスなりもらえれば、もっと嬉しい。頭のおかしい人間だと思うのであれば、それはそれでいっこうに構わない。そういうわけで、気が向けば僕の話を聞いて欲しい(病室にお見舞いに行くような気持ちで聞いてくれれば丁度いい)。
――― それは、「不安定」に関する話だ。
僕の机の中には、不安定なものが住んでいる。視界に入るだけで、不安定な気持ちになる。それはまるで、寝過ごして知らない駅についてしまったときのような、そんな感覚に似ている。
ここではその不安定なものの名前を、便宜的に「クロ」と呼ぶことにする。理由は、単に全身黒色をしているからだ。この文章は小説ではなく、たかだか四千文字程度の独白にすぎない。凝った呼び方も特に必要ないだろう。
クロについて簡単に整理してみる。クロの大きさは人差し指くらいで、人の形をしている。歩いたり喋ったりしなければ、ただの人形に見えるだろう。特徴的なのは、その形状が不安定なことだ。まず右足と左足の長さが違う。そのせいか、歩いているとよくこける。また、目の形が左右で異なっている。左目は丸い形だが、右目は星のマークになっている。その他にも、右手と左手の形状が違ったり、本来鼻があるべき位置に口があったり、いろんなものがちぐはぐになっている。どんな合理的な理由があって、こんなに不安定な形状をしているのか、自分にはまったく見当もつかない(あるいは明確な意図や理由などないのかもしれない。何かしらの複雑な因果があり、結果としてこうなってしまっただけのかもしれない)。
僕はちょうど一週間前に、この不思議な物体と出会った。そのとき僕は、自分の部屋で学校の宿題をはじめるところだった。机の引き出しを開け、筆箱を取り出そうと手を伸ばそうとしたその瞬間、引き出しの中をとことこと歩いている物体があった。それが、クロだった。僕はびっくりして伸ばす手をひっこめた。そして、その物体のことを目を見開いて凝視した。
僕の視線に気づいたクロは「やあ」と言うように、その黒い左手を上げた。ぎょっとした僕は、反射的に引き出しを閉めた。これはきっと、何かの見間違いだろう。そう思うよう試みたが、あんなにはっきりと見てしまった以上、それもいまさら難しかった。
そこでこの物体のことをどうしたものか、冷静に思案してみた。その結果、机の引き出しは今後一切開けず、さらにガムテープでふさぎ、すべてをなかったことにしようと考えた(事故の起こった電車を埋めるように)。
しかし、それはできないことを思い出した。というのも、引き出しの奥にはチナリからもらったキャンディが入っていたからだ。僕は一日に一回、引き出しの奥にしまっている黄色い袋から、一粒のキャンディを取り出し、それを口の中に放り込むことを日課としていた。それは僕の決まり事なので、そう簡単に変えるわけにはいかなかった。
そういう事情があり、僕はその不安定な何かと、少なくとも一日に一度は顔を合わせることになった。そのたびに僕は、不安定な気持ちにさせられた。といっても、それ自身は特に悪いことをするわけでもないので、実質的な支障はあまりなかった。机の中のキャンディも、勝手に食べたりはしなかった。
ただ、僕が宿題やなにかをしていると、クロは机の上に上ってきて、よくイタズラをしかけてきた。いや、あれはイタズラだったのだろうか?クロは、教科書やノートの文章の中に「丸」…例えば、ぱぴぷぺぽとか、文末の句点なんか…そういうのを見つけると、思いっきりかんしゃくを起こしながら、「丸」の部分を、鉛筆で黒く塗りつぶしてきた。そして僕のことを厳しい目線でにらみつけた。良くわからないが、何かがクロのしゃくにさわるらしかった。
また、クロは基本的に机の外には出ようとしなかった。お風呂にもついてこなかったし、学校にもついてこなかった。とはいえ、部屋の中にそれがいるところを想像すると、それだけでいつでも、いつまでも、不安定な気分になれた。
ところが、今日に限ってはちょっとだけクロの様子が違っていた。僕が神保町の喫茶店に行こうかと思い着替えをしていると、クロは「自分もついていく」と言い始めた。はじめは何かの冗談かと思って聞き流していたが、机の足をつたって降りてきたところで、本気で言っていることが分かった。そしていつものように左右の長さが違う足でふらふらと歩いてきて、僕の足元でころりと転んだ。
僕はやはり不安定な気持ちになったし、チナリとはやはり二人だけで会いたかった。しかし、こうも真剣な気持ちを真正面からぶつけられては、僕には断ることはできない(僕は不安定な人間だが、けっして冷たいわけではないのだ)。
僕は虹の色をしたカバンにクロを入れて、緑色の山手線へと乗り込んだ。電車が止まったり動いたりすると、カバンの中でクロがもぞもぞと動くのが分かった。よく分からないが、楽しそうにしているように思えた。それから三田線に乗り換えて、神保町の駅についた。駅のA7出口から出たところで、クロをカバンから出して、さっそく外の景色を見せてあげようとした。
…それがまずかったのだろう。どうやらクロは、光に当ててはいけないものだったらしい。クロは光に当たると色がうすくなり、おもちゃの笛のようなゆかいな音を立てながら、やがて透明になって消えてしまった。どうやら僕は、何かをやってしまったようだった。それが自分にとってどんな意味を持つのか、良いことなのか、致命的なことになるのか。まったく想像もつかない。
しかしすぐに、やってしまったことは仕方がないと思い直した。そう思った僕は、喫茶店で一人で一服し、三田線に乗って、山手線に乗って、それから自宅へと戻った。
自宅についた僕は、チナリにお詫びの電話を入れた。
「詳しくは説明できないけれども、黒いものが太陽の光にあたって消えてしまった。それで特に困りはしないけれども、だから今日のデートは中止です」
「へえ」
チナリの声には色がなく、平たんだった。そしてますます、平たんな口調で続けた。
「なんだか良く分かりませんが、貴方が良いようにしたというのであれば、それはそれで良かったのではないでしょうか」
チナリはそれ以上、何も言わなかった。
十秒くらいの沈黙の後、電話はぷつりと切れた。
ともかく僕は一週間ぶりに、不安定ら開放されることができた。そして部屋に戻り、やわらかな羽毛でできたパジャマに着替えた。視界に机が入る。でも、もう大丈夫。クロはいなくなったのだ。もう、不安定な気持ちになる必要もないし、丸を黒く塗りつぶされる心配もないのだ。
うれしくなった僕は念のため、机の引き出しを開けた。クロがもういなくなったことを確認するために。するとそこには「やあ」といった具合に左手を上げて、挨拶をしてくる物体がいた。クロだった。
そういった経緯があって、僕の机の引き出しの中には、まだ例の不安定がいる。だから僕の気持ちも、いまだに不安定なままだ。しかし、チナリからもらったキャンディを舐めている間だけは、かろうじてその気持ちを忘れることができる。つかの間の安定だ。でも、それもいつの日かは、必ず無くなってしまう。
キャンディがなくなってしまった後のことを考えると、ますます気持ちが不安定になる。僕は今、困惑した思いで、この文章をスマートフォンで書いている。状況を整理するため。より良い解決策を見つけるため。
その様子を、クロが真剣な表情で見つめている。文章の中に「丸」がつく文字を見つけようものなら、クロは激昂して、それを黒く鉛筆で塗りつぶそうとしてきた。クロは文章の中身なんて、読んではいないのだろう。ただ単に、丸があるかどうかを気にしているだけだ。
しかし、僕の毎日はこんな感じで続いていくのだろう。ごまかしごまかしやっていく。でも心は不安定なので、本当はもう何もかもが怖くて仕方がない。でも、そんな不安定を誰かと共有する必要なんてないし、そんなことをしても、誰も幸せにはならない。誰一人として幸せにできないような行動は、どんな理由があっても、どんな感情があっても、絶対に慎むべきだ(あなたも慎むべきだ)。
だから机の中の不安定のことは、黙っていれば誰かがご褒美にキャンディをくれるかもしない。チナリがそうしてくれたように。しかし、机の中にある不安定のことが知られてしまったら、すぐにでも自分がついた失望の溜息に吹かれて、どこか遠くの空に飛んでいってしまうかもしれない。
僕は、机の中の不安定に視線を向ける。今日もとても怒っている。見ようによっては可愛くもあるが、どういう目的で生きているのかは全く理解できない。
…まあいいか。と僕は思う。
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