46.パンドラ
ノートパソコンを閉じると、、服部清子は正座して、玄関に胡坐を掻いた剣と距離を空けて向かい合った。その距離に深い意味はない。ゴミが散らかり過ぎていて、近付くのが面倒臭いだけだ。
「……ゴミ屋敷め」
「あはは。まあ近々誰かが片付けてくれますよ。さて。それじゃあ話を聞かせ……じゃないですね。私に話を聞きに来たんでした」
清子は普段どおりのヘラヘラした態度を崩さなかった。
「何聞きます?」
「あの女について教えてくれ。明らかに知ってる口ぶりだったし、わざとそれを仄めかしてただろ」
清子は首を傾げた。
「あの女? ……えーっと、心当たりなら沢山いるんですけどね。虎熊さんなら相変わらず行方不明なままですよ? 金熊さんは相変わらずヒッピーで」
「違う違う。鬼じゃねーよ」
「じゃあ誰です?」
「アンタがユイナだって言った奴だよ! 俺を襲った、あの白髪……ちょうどアンタと同じ頭の色の」
「ああ、それですか」
ケタケタケタケタ。清子が笑う。
この先ちゃんと会話が進むのか、剣はとても不安になった。
「えーとですね。最初に言っときますけど、たとえ剣ちゃんが納得しなかったとしても怒らないで下さいよ?」
比較的真面目な口調に、剣は安堵した。
だが、いつどのように脱線するかは分からない。ゴミだらけの部屋と同じく、清子もまた、埃の雪崩をいつ起こすか分からない存在だった。
清子は両手の人差し指を立てて、角のようにして頭に添えた。
「……鬼?」
自らが鬼と呼ばれる剣にとって、鬼と角は昔からあまり関係性を見出だせない組み合わせだったが。
「いえーす。鬼と言っても色々ありますがね。剣ちゃんの言う鬼とは、現代の鬼とは平安時代の大江山伝説に登場するあの鬼達の子孫。ということになってますね」
「ああ」
鬼の家に生まれた子供は皆、幼い頃に家の過去について学ばされる。大江山の伝説を細部まで詳しく。そして……これからは人間との共存を求めていかなければならないという、極めて穏やかな方針も。
「酒呑童子と茨木童子。その下に熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子。主にはその子供達がどさくさに紛れて山の下へ逃げ切って、歴史に残らないところで淡々と血と力を引き継ぎ、鬼というものを技術に昇華させていった。……俺は星熊童子の子孫だ」
名乗る苗字まで変えて抗った運命ではあるが、一方で僅かに誇りに思ってもいた。だが、清子は首を横に振った。
「残念ながら、それは嘘なのですよ」
「――え?」
剣にとっての常識を、清子がヘラヘラと否定した。
「自らを鬼と呼び、かつ特異な力を持つ人物は、少なくとも江戸時代には存在していなかった。明治の終わり頃、突如現れるのです」
「……いやいやいや――そんなはずがない。書物に残されていないだけだ。ばーちゃんだって……」
「うひゃひゃ、そんなはずないことないんです。剣ちゃんのオバアチャンは嘘を吐いていたんでしょう。まあ、本人の意志で……ではなかったと思いますがね」
動揺してしまった剣は、是が非でも聞き出すつもりだったユイナのことも忘れて、幼い頃の教育を思い返していた。
大江山を逃れた後、鬼は全滅を恐れて散り散りになった。そして、ある鬼の子孫は人間世界に潜り込んで農耕で生計を立て、またある鬼の子孫は暗殺部隊を作って、歴史にも残る幾つかの仕事をし、さらに別の鬼は生きる道を見つけることができず、途絶え――そんなことまで聞かされた。辻褄は合っていた。
「家系図……家系図がある」
剣は冷静さを欠いていた。既知の世界を守ることに躍起になっている。
変な歴史なんかない方が、普通の人間に近付けるはずだ。それなのに彼女はここにきて、その自信の後ろ盾にもなっていた重みを失うのを恐れていた。
「アテになりませんよ家計図。物証一つでは私の研究に劣ります」
清子はいつもの柔らかい顔をしていた。優しく、どこか気味悪くもある柔和な笑み。
清子は超常現象の研究が好きだった。
高校時代。周囲が恋愛やスポーツ、あるいは受験勉強に精一杯励む中、清子は表向きは完璧に普通の女子高生をしながら、家では憑かれたように調べ物を続けていた。が、研究成果は協力者にすら発表されることなく、ただ清子の脳内にのみ蓄積されていくのみだった。
服部清子は単なるオカルト好きではなく、紛れも無い研究者であった。
それを知っていたから、剣は彼女の言葉に耳を貸した。
「少な過ぎるんですよ」
清子は言った。
「鬼の子孫を名乗る者も、鬼が現代に与えた影響も。歴史もあるし、力もある連中です。その気になれば日本を支配して牛耳ることができるはずの鬼が、どうしてこんなに謙虚に生きているのか、私は不思議でした」
「……言っとくけど、鬼は大江山で人間に負けたんだ。敗者は基本的に表舞台にはもう出てこない。思うように子孫を増やせなかったってのも自然なことだろ」
「ともかく私は疑問だったのです。ですから文献や協力者の力も借りて、最初の鬼の発生を調べ上げました。……彼女の名前を聞いたら驚きますよ、剣ちゃん」
剣は口を挟まず、無言で清子の返事を待った。驚くということは、全く知らない名前ではないはずだ。が、見当がつかない。
――歴史上の有名な人物でも出てくるのか。……でも、彼女って……?
「その鬼は、自分のことをパンドラと呼びました」
「明治時代に?」
「ええ」
清子は剣の反応を期待するような不安がるような、そんな仄かな笑みを浮かべて、言葉を紡ぎ取るようにゆっくりと発した。
「――本名、須上結菜」
「なっ……」
剣は驚愕し、目を見開いて硬直……はしなかった。ユイナが話のどこかに絡んでくることはほぼ決まっていた。ならばどのタイミングで出てくるか。だから、ある意味では予想済みだった。が。
「……やれやれ。何が何だか俺にはもう……」
ショックがない訳ではない。剣は現実逃避でもするかのように天井を仰ぎ見た。蛍光灯に死んだ虫が沢山付いていた。
「汚い」
「放っておいてください。もしくは掃除よろです」
「ちなみにそのパンドラってのは、俺を襲った結菜か?」
清子がこれ以上のことを知っているとも考え難かったが、剣は浮かんだ疑問をそのまま清子に投げかけた。
「まあ、出世魚のようなものですね。それかまあ、蛙とオタマジャクシですか。呼び方変わりますよね、同じ個体でも。要するに剣ちゃんを襲ったあの子は、現世に生きる結菜ちゃんの未来とでも言うんですかね」
「未来?」
「ええ、ルーツは一緒ですから一応同一人物ですよ。倫理観やら何やらが既に全く違うでしょうし、別人と言っても過言でもないと思いますがね。ちなみに彼女は子孫を残した訳ではなく、技術だけを残して去ってしまったようです。鬼の力は教育によって引き継がれていく伝統技術ですからね。先天的なものは……まあ、才能がちょっと関わってくる程度ですし」
「……いやいや、おかしいだろ。それじゃあ何、タイムマシンでも開発されて? 結菜が過去に行って? いやいやいや」
「隕石の莫大なエネルギーが何らかの何かが何かして、結菜ちゃんをトンデモ能力者にしたのかもしれません。そうして時空移動を習得したユイナちゃんが、現代に帰ってきて何かをしようとしている。そういうことですよ、おそらくはね」
断言。まるで実際に見てきたような口ぶり。
「……随分自信があるんだな。キッパリ言い切るなんて」
「ええ、まあ、そうですね。正直、これは確信してますから」
「確信? ……お、おい」
清子は立ち上がり、話は終わりだということを示すように剣に背中を向けた。
「服部先輩?」
「剣ちゃん、生まれ変わりってあると思いますか?」
清子は答えを求めていないことを示すかのように、ゴミの中の布団に体を投げ出した。
「私も結構数奇な運命辿ってます。だから応援してるんですよ、剣ちゃんのこと。貴女は鬼である以前に、独自の道を行く正義の味方です。だから頑張って」
「…………糞」
剣は諦め、玄関を乱暴に開け閉めしてやかましく部屋を去った。
――最初の鬼は結菜。
今までの自分の世界が崩壊してしまったような虚無感に、指先だけを微かに震わせながら。
決意はできた。
地球の為。そして運命を振り回された一人の鬼として。
彼女はターゲットを絞り込んだ。
「覚悟しろよ……パンドラ!」
◇
夜の公園。向かい合って佇む男女。
遠目で見ればカップルにも見える二人だがその実、彼らはついさっき初めて出会ったばかりの関係だった。しかも敵同士。
「……地球は僕が守る」
瓜生正義が言った。
「やってごらんよ」
須上結菜……否、パンドラが言った。
次の瞬間、二人は一斉に重力に逆らった。体が浮いている。まるで水の中を泳ぐ魚。通行人がいれば、彼らの現実味のない動きに腰を抜かしていたかもしれない。
当事者である瓜生正義も腰を抜かしそうになっていた。
「と、飛べるのか、君も!」
「重力に逆らうのは自分の特権だと思ってた? ダメだよ。今この宇宙でオンリーワンでも、長い時空の中ではありふれた存在だったなんてこともね、珍しいことじゃないんだから。そもそも……」
スガミユイナは何やら語り始めたが、地上対空中作戦を最初からへし折られた瓜生に、それを聞く余裕はなかった。
瓜生は自分の力を正確には把握できていない。自分が今この瞬間をどう飛んでいるのかも、正直なところ、全然分かっていなかった。
ただ……自分が触れている何かしらの力を奪うことができるらしいことは感覚で分かっていた。相手の攻撃を無効化したり、高いところから落ちても平気だったり、拍手が鳴らなくなったり。それなら確かに、重力や風の抵抗を無視して跳ね回れても不思議ではないかもしれない。
そんな自分の特権を、スガミユイナは……原理は違うかもしれないが……当然の如く真似した。
「お兄さん、そうやって逃げ回ってても良いの? 相手は普通の女の子だよ? そんな大柄でもない」
「飛べる時点で普通じゃない!」
叫びながら彼は空気を蹴り、車でも出したことのない速度まで加速した。どう加速しているのかは分からない。まるで奪った力を放出しているかのような、ものすごい勢いだった。
事故は怖くない。重力さえ無視できるようになった彼に、もはや物理的な力は便利な道具程度のものでしかなかった。
熱も摩擦も何も平気な彼は、自分でもいつか無敵の存在になることを予期し、期待し、懸念もしていた。恐怖の対象が消えてしまうことを、彼は少なからず恐れていた。
だが、そんな心配をする必要はなかったと、彼はひしひしと感じた。
――怖い、怖い、怖い怖い! ただ追いかけられるだけですごく怖い!
実力差など分からない。ただ、平然と飛んで追いかけてくる彼女の態度に気圧されているだけだ。向こうだってハッタリかもしれない。案外、殺すことも容易なのかもしれない。
……しかし、その勇気が出ない。この土壇場で、彼は歯を震わせながら町中を逃げ回ることしかできなかった。
怖い。はっきりした理由もなく、ただ怖いから怖い。だから逃げる。
「くそ、来るな、頼むから来るな!」
「いやー、見逃せないかな。自分に対してちょっとでも殺意のある人を生かしとくのは怖いからね。分かるかな。怯えながら生きるのは非常に良くないんだよ。こう見えて年寄りだからね私。一応八十年分の時を過ごしてきた訳ですから」
「……糞!」
いつの間にか二人は都市部に来ていた。かなり速度を出していたから、七色とは別の都道府県に来てしまっているかもしれない。
が、ともかく都市部の地上は身を隠すのにうってつけに見えた。
「……よし」
瓜生は重力を一旦受け入れ、建物と建物との間へと吸い込まれるように落ちた。
地上でケリをつけたいという思いからの行動だったが、
「んー、そうくるか。人目は避けたいところだなぁ。当時の私に迷惑かけたくないし、うん」
スガミユイナは何か言った後、あっさりと踵を返した。
「はぁ?」
その姿が離れていく。戦意喪失?
「えーと……終わった、のか?」
彼女の姿が見えなくなるのを、瓜生正義は半分信じられないような気持ちで眺めた。
スガミユイナ。あの白髪が、本当に自分が戦うべき相手。
直後、強い罪悪感が彼を襲った。
戦っている最中には忘れてしまっていた、ある一つの事実を思い出したからだ。
重力を再び避け、光の反射も避けて宙に漂う。光を通すことはできないので、黒い人型が浮いているような状態。誰かに見られて奇怪がられているかもしれないが、彼にはもうそんなことはどうでも良かった。
「…………そうか。僕はもう少しで、無実の女の子を殺すところだったのか」
彼は涙を流した。
スガミユイナは一人ではなかった。彼女は二人いて……そして、自分は罪のない方の命を奪おうと躍起になって――。
彼は何度も、夜空に向かって懺悔した。気が触れそうだった過去の自分を思い出しながら。