31.幻の世界のあいつ
人のいない、モンスターだらけの世界。
町の側の草原で。……パジャマで。あたしは立ち尽くしていた。
目の前には獅子が倒れている。腹にはあまりにも痛々しい傷。……いや、穴か。
倒したんだ。たった一発で。
「ハ――?」
あの結菜が、この大きな怪物を? そんなもん信じられる訳ない。そもそも、入院していたアンタが何でここに……。
「えーっと、とりあえず大丈夫? というか何でこんなとこいんの?」
結菜は、いつもと何も変わらない調子で言う。
正直、大木みたいに大きな槍は怖かったし、創作物に出てくる勇者顔負けの立派な装備をした結菜の姿には疑問を持たざるを得ないが。……それでも、その声を聞くと、肩から力が抜けていった。
「……何でこんなとこにって、それはウチが聞きたいわ。そもそもどこやここ! 今の何や! 夢か!? 夢やろ! アホか!」
「は? え、ちょ、待、え? アホって? ちょ」
「とりあえず説明せぇ! ウチがここにいる理由も、アンタがここにいる理由も!」
「え、あ、するする! するってば! ちょ、何で泣いてんの!? 私のせい!?」
困惑する結菜。少しだけおかしくて笑いながらも、あたしは流れる涙を止めることが出来なかった。格好良くて、少し非現実的。そんな姿の結菜だけど、中身は本当にあたしの知っている結菜と一緒で……。何というか、ホッとしたんやな、きっと。
「……っ」
くそ。子供やないのに、本当に涙が止まってくれない。
そんなあたしに向かって、結菜は少しだけ照れくさそうに笑い、手を伸ばし……。
――瞬間、槍が、あたしの頬を掠めた。
微かに血が垂れる。……じんわりと染みてくる、炭酸みたいな痛み。
「――結……菜?」
何やそれ。今、何した? その槍……何に向けた?
世界が停止した。それくらい、瞬間的に色んなことが頭の中を埋め尽くした。
何や。何や一体。何が起こった? 槍? 何で?
まさか獲物なんか? あたしもあの獅子と同じ獲物。そういうことなんか? 心臓が、あたしの胸を潰しかねないくらいに暴れ始めた。体は恐怖で固まって、きっと表情もすごいことになっていると思う。
「春風、しばらく動かないでね。……一体だけじゃなかったみたいだから」
「……あ、」
思わず振り返ると、さっきの獅子がもう一体。頭を刺されて倒れていた。
「うわ……っ」
「動くなっ!」
結菜が叫ぶ。その目からは、現実の結菜には無かった威圧感と自信が強く感じられた。
「……ご、ごめん……」
声が出たかどうか分かたなかったが、そういう風に舌を動かす。喉が固まって、言葉も上手く伝えられない。
――怯んでしまった。結菜に。一瞬だけど、瀬尾以上の恐怖を感じてしまった。
いや、落ち着けやウチ。結菜からすれば何てことない話やないか。獲物の獅子がまた出てきたから、ウチが襲われないうちに倒した。ただそれだけのことやんか。別にウチに対して何かした訳やない。叫んだり槍を向けてきたのも、仕方のないことやったんや。……せやのに。
怖かった。自信に満ちたあの目が。あの態度が。「誰にも負けない」という声が聞こえてきそうな、そのオーラが。
まるで、離れていくみたいで。あたしの隣にいた結菜が、いなくなってしまうみたいで。
「三体目!」
結菜の槍が、またしても現れた獅子の、今度は喉を突く。やはり一撃。突き刺さった槍を引っこ抜くと、ようやく結菜はいつもの表情に戻った。
「ふぅ。春風、大丈夫?」
「……え、あ。ああ……」
落ち着かない心臓。思わず逸らしてしまう目。一歩だけ後ろにやってしまった右足。
「……大丈夫や、全然」
――怖かった。
「そっか。……ホントに? 顔色悪いけど」
「あ、いや大丈夫やから!」
早口。意思よりもプレッシャーから発せられる言葉。
違う。こんなんウチの態度じゃない。結菜に対して遠慮なんか、ウチらしくもない!
分からない。二週間前……いや、さっきまで結菜に対してどう接していたのか、分からない。
何やこれ。まるで瀬尾相手に話してるような感覚。違うやろ。こんなはずとちゃうやろ……?
「一段落ついたけど、どうする? ここじゃモンスター来るし、町で話そうか」
「え……あ」
あの奇妙な町に戻る。考えただけで寒気がしたけど、何も言えなかった。
……情けない。それくらいは分かっているけど仕方ないやろ……。
◇
「ということなんだ」
「は? ど、どういうこっちゃねん」
「……んー、戦闘魔法がいくら使えるようになっても、テレパシーはやっぱり使えないか」
結菜らしい言葉に少しだけ安心したが、それでも距離感に少しだけ戸惑いながら。
町を歩いて、宿屋に到着。結菜は宿代も払わず階段を上り、部屋の扉を蹴破った。
「ま、ここでいっか。椅子も二つあるしね」
「……勝手に使うてええんか? この部屋」
「そういうのも含めて、今から話すよ」
結菜は盾や鎧やら荷物袋なんかを床に置いた。そして、町人と変わらない服装で椅子に腰かけ、頭の中を整理するように唸り始めた。
「あー……」
ちなみに槍は宿屋の外に置いてある。盗まれないのか聞いたけど、絶対に盗まれないらしい。その理由も、これから話してくれるのだと思う。
「……えー、まず信じられないかも知んないけど、この世界は現実世界じゃない。ゲームの世界なんだ」
「……続けてええよ」
あたしの言葉を待つ結菜に、なるべく動揺を読まれないように言う。出来るなら、いつも教室で聞く妄想みたいに否定したかった。下らん話ばっかやな、と笑ってやれれば良かったのに。どう考えても、今は結菜の言葉が一番現実的だった。……結菜の話が間違っているとすれば、それはこの世界があたしの夢だった場合くらいなもんや。
「それで、どうしてこの世界に来ちゃったか、だよね。正直、私もどうしてなのか分かってないんだけどさ。……多分、現実では意識が無い状態なんだよね。眠ってるんだ、きっと」
「は? 意識が無いってどういうことや。現に今、ウチはここに……。それとも夢ってことか?」
「夢……に近い考え方だけどね。例えばゲームをやってる時。コントローラーを握ってる私は、森や砂漠や近未来や戦場をあっちこっち旅してる。けど、実際の私……須上結菜っていう人間は、ただずっとテレビの前で画面を見てるだけなんだよね。……それと同じ。私はあれだ。何か、病院かどっかで眠りながらゲームしてんじゃないかなっていう推理なんですけどどうですか。夢との違いはネットに繋がってるかどうかの差かな」
「それ、推理というか想像やけどな……」
けど、まあ納得は出来る。考えてみれば、あたしが今、本当に宿屋の二階にいる! なんて断言は出来ない。「あたしはここにいる」ということを五感を通じて認識している訳だけど、例えばそこに偽物が混じっていたとしたら? 視覚は嘘で、聴覚は狂っていて、触覚は気のせい。無意識の中でそういう情報を与えられれば、きっとあたしはこの不思議な世界にいると「錯覚」してしまう。それが「ゲーム」をやっている時か。リビングで何が起こっているかより、神聖な泉で何が起こっているのかを優先して認識しようとするような……。
それがネットに繋がっている……。つまり、共通の「錯覚」をしているということか。結菜やあたしや、町の門で話したあの男口調の女が。
けど、そういうことを言ってしまうと、現実世界の存在だって危ういものになってしまうんじゃ……?
「それで……って、春風?」
「――ああ、すまん。それで?」
頭の中に引きこもって夢中になってしまうなんて、ウチらしくもない。ぶっ飛んだ妄想は結菜の専売特許やろうが。
「で……まあ、うん。ゲームの中で、この世界に来ちゃって……。ね。うん。……説明終わり」
「終わり!?」
案外短いな……。
結菜も自分でそう思っているのか、何となく苦みを含んだ笑みを浮かべていた。
「……ぶっちゃけ、情報が無いからさ。細かいことは分かんないんだよ」
「確かに、まともに話せる人間と会う機会が極端に少なそうやしな……。なぁ、帰り方は分からんのか?」
「さあ。ゲームオーバーにでもなればいいんじゃない? モンスターに襲われて、HPを零にする」
……。死ぬってことやないか。
頬に出来た傷を触ってみる。痛い。心と体が強引に結び付けられるような、細やかなかすり傷。
痛みのある世界で死を選ぶ。……それは、生を否定することと同じじゃないのか。
「……他に、ないんか?」
結菜に聞いても分からないとは分かっていたけど、他に頼れる相手がいなかった。
「他? んー、聞かれてもなぁ…………」
しばらく考えた後、結菜は唐突に立ち上がり、ベッドに飛び込んだ。
「やっぱ、帰りたい訳?」
そしてこっちを向いて、特に意味の無さそうな声で聞いてきた。きょとんとした目はまるで動物。無邪気。何となくウサギのようだ。現実世界よりも自然な、安心感に溢れた顔。……充実感。やっぱり現実よりも活き活きしているように見えた。
「……そらぁ、帰りたいわ。何がどうなるかも分からんこんな世界より、日本の方が安全やし」
「知らないってことが怖いんじゃないの?」
「……意味が分からへん。知らないことが怖い? そんな奴がおったら、学校の授業なんか断末魔が飛び交う血みどろの場所になるやろ?」
「ほら、否定しようとして使ったよね。『意味が分からへん』ってさ」
――そらぁ怖いわ。当たり前のことやんか。知らないことに臨むことは、自分が無知であることを自覚すること。未知を前向きに受け入れられるなら、無条件で勉強好きになれる人はもっと多いはずや。
と、ここまで来て気が付いた。……決して勉強好きという訳ではないが、結菜は少なくとも未知に前向きだ。得体の知れないこの世界は、結菜にとっては絶好の餌場じゃないか。
「――私は帰らない。帰り方が分かったとしても……。極めるまで、この世界を離れる気はないからさ」
「……けど、元の世界にだって未知はあるやろ。怖がって逃げてんのはアンタの方やないんか?」
「春風の言えたことじゃないじゃんか!」
結菜が声を張り上げた。あたしを睨みつけるその目に、モンスターと戦っていた時の威圧感はもう無い。
……ただ、小心者のか細い心が垣間見えるだけだった。
「やっと……やっとあの世界から解放された。死のうかなんて思っても冗談にしか思われなくて。ホントに死のうとしたら怖くて死ねなくてさ。逃げ場なんか無いから、未知の世界とか非現実が、私を連れ去ってくれんのをずっと待ってたんだよ!」
とうとう、結菜の目から涙がこぼれた。感情的で力任せ。その上、悲しくなるほどダサい醜態。
それでもそんな結菜を笑えないのは、あたしも弱いからだと思う。……いや。醜態を晒す勇気のないあたしは、もっと下か。
「・……やっと叶ったんだ。今、幸せなんだよ……」
◇
疲れていたのか、結菜はベッドの上で眠ってしまった。安心しきった穏やかな表情に、何となくこっちまで顔がほころぶ。
……人間それぞれに"居場所"のようなものがあるとしたら、結菜の居場所はきっとここなんじゃないかと思う。幻想と偽りに固められた場所。……別に、幸せなら真実に囲まれなくたっていいじゃないか。
「……ん?」
は。
と気が付いた。
「……結菜? あれ、違う……」
宿屋じゃなかった。……白くて薬臭い、カーテンで遮られた狭い空間。
そこは病院だった。勿論、見る限りでは現実世界の。
夢、だったのだろうか。いや、それにしては記憶があまりにもはっきりとしていたが……。ここで目が覚めたという事実が、今まで見ていたものが夢であることを表す何よりの証拠か。
窓の外を見る。地上が近い。一階か。風景から判断するに、近所にある小さな病院のようだ。今寝ているベッドも、腹壊した時なんかに点滴してもらうような、そういう時に使うような場所。入院なんかするような大層な場所ではない。
とりあえずは起き上がってみる。半分寝たままの意識をどうにか覚醒させ、昨日の記憶を呼び起こそうとしたが、夕方、部屋で寝ようとしてからの記憶は無かった。病院の壁にあった時計。昼間の正午過ぎ。
――午後六時前後から、翌日の十二時まで。十八時間も寝たことになるが……。自室やなくて病院? どういうことやねん。
「――――……っ」
フラつく。あかん、覚醒してない……というより、熱でもあるらしい。頭が異常に重たい。額を触ると、案の定熱かった。
人の気配がしたので、カーテンから顔を覗かせる。すぐ大柄なおばちゃん……看護士さんが来た。看護士。別に看護婦でも良いと思う。そんなことはどうでもいいから「ゆとり世代」という言葉を早く差別用語として認めるべきやろと思う。と、熱のせいか、思考はいつもよりも飛び易かった。
「春風ちゃん、頭大丈夫?」
「……? あ、はい」
昔から世話になっている病院だからだろうか。こっちは分からないけど向こうが一方的に覚えている……という関係以外には思い付かなかった。頭大丈夫? という聞き方はいかがなもんかと。
「ずっと起きんくって熱もあるみたいじゃけぇって、お母さんが心配して連れてきたんよ。よぉ寝とったねぇ」
「……はぁ」
ちょっと方言強め? いや、そもそもこの辺りではこれがデフォルトなのか。関西弁を喋って、仮面を被っているあたし。……不自然なのは自覚済みではあるが。
「それにしてもタイミング良く起きたもんじゃねぇ。ちょうど今さっき、友達が来たんよ」
「友達? こんな時間にですか?」
一体誰が……。いや、結菜じゃないなら、誰でも一緒か。
目上に対しては関西弁の「ウチ」じゃなくて、敬語の「あたし」で問題無くやり取り出来る。少しおかしい話ではあるが、同級生が相手よりは楽だ。甘えることが出来るからというか。最初から対等ではないということが、救いのように思えるのだ。
けど、友達となれば誰が相手でも「ウチ」を被らなければならなくて……。急に気が重たくなった。