23.正義VS正義 1
光村雫は息を止め、自分の気配を限りなく無に近付けた。
病室の外にいるのが何者かは分からない。だが、常人でないことは感じ取れた。自分と似た、禍々しい者の気配。
――来るなら来い。
ノックの音がして、ドアが開く。
病室は狩り場に変わる。餌に食いついた獲物に飛びかかろうと、一歩踏み込む雫。
容赦はしない。絶対に止まらない。
もう、止まれない。
◇
ドアを開けた彼にとっては、予期せぬ事態だった。
とある事情から殺人をすることになった彼は、懐に凶器を忍ばせ、標的の病室に入った。するとその瞬間、少女らしき何かに後頭部をわしづかみにされ、顔を窓ガラスに叩きつけられたのだ。
鼓膜を刺す、透きとおった破壊の音。粒子となって飛び散るガラスの破片。窓を突き破り、遥か下の駐車場へ落ちて行く体。
「ちょ、ちょぉ! うおぁぁあああ!」
「お別れだ」
彼の背中に乗った少女が言う。全く予定外の事態。
何が起こった? それすらも把握できなかった。
地面はもう、目の前にあった。
「死んでたまるかよぉおお!」
反射的に、手を伸ばす。地面に手を付き、直後。顔面が地面に叩きつけられた。
死んだだろう。普通の人間なら。
だが。
彼は生きていた。意識もはっきりしている。その顔にも手にも体にも、外傷は一切なかった。
「危なかった……けど。何とか助かった」
その声に、余裕など一切ない。彼は心の底からほっとしたように息を吐くと、自分の後頭部を掴んでいる少女の手を掴んだ。
――力では負けない。
まるで帽子を脱ぐように軽々と、彼は少女の手を離した。
「な……?」
少女は理解に苦しむような声を出し、数メートルほどの距離を取った。が、彼にはその少女が何を不思議がっているのかが分からない。華奢な腕のくせに、よっぽど力に自信があったのだろうか。
――いや。自分のような特殊な存在なら、話は別か。
恐怖で興奮した頭を絶えず回しながら、彼は立ち上がる。そして改めて、自分を殺そうとした少女の姿を確認した。
小柄な少女。印象に残らない暗い色の服に、目元を軽く覆う前髪。
「君、もしかしてキタムラの邪魔をした……?」
彼は、呆れるように言った。
「僕らの邪魔をするということは、君は……悪で間違いないよな?」
少女はきょとんとした。
「は? 私が?」
まるでギャグ漫画のような、間抜けな空気が場を包む。
……何だこの空気? 彼は困惑した。単なる意見の相違ということだろうか? なら、無理に互いを消そうとしなくても良いんじゃないか。彼は、事態の安全な収束を望んだ。
「……僕の名は瓜生正義。サイキック団という組織の団長をしている」
「なんだ。大将首か」
瞬間、少女がカラスのように襲い掛かってきた。
人とは思えない速度。
「うおぁ! っと」
彼は少女の刃物のようなスライディングを避けた自分を誉めた。心の中で大喝采が起きる。ほとんど常人である自分が人外の攻撃を避けた! すごい!
だが、まだ危機は終わらない。
後ろから、今度は拳が飛んでくる。リーチは短い。武器を持っている訳でもない。だが速い。
すぐに距離をとったので避けるのは容易だったが、防御を捨てたその攻めには、どうしても勢いで劣ってしまう。
防戦。一方的になっていく戦い。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
話で解決できるはずだ。自分の背中にある重過ぎる責任を見せてやれば、相手が天使であろうと悪魔であろうと味方になってくれるはずだ。それなのに。
「嫌です」
止まない猛攻。聞く耳を持たない少女。
「頼むから一旦止まれよ! 殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ!」
彼の目に涙が浮かぶ。自分の置かれた状況が、あまりにも救いのないものだったからだ。
――殺さなきゃ。そして救わなきゃ。
「僕が、地球を救わなきゃ……!」
やみくもに手を伸ばす。防御を捨てているように思えた少女の動きになら、デタラメな攻撃でも通用するように思えた。
だが、少女は冷静に退き、アクロバティックに飛び跳ねた。それはもう、人間の跳躍力ではない。
そして、降ってくる。
「うぉおおおおわああああ!?」
弾丸と化した少女の蹴り。……それを、彼はとっさに掌で受け止めた。
ダメージはない。掌が少し汚れただけだ。
彼が平然としているのを見て、飛び退いて着地した少女は一瞬だけ怯えた目をした。知識人が理解できないものを目の当たりにしたような、そんな表情だった。
「……何故」
彼は、またしても無傷だった。
マンションの五階相当の高さから降ってきた人を掌で受け止めて、だ。
「何故なんだ?」
少女の表情が、畏怖と疑問と憤怒の間で二転三転する。
……一応は表情豊か、と言えなくもない。化物から少女の顔へ。彼は思わず毒気を抜かれた。
――論戦に持ち込むなら今。
「落ち着け。まずは僕の話を聞くんだ」
彼は諭すように言った。だが。
「――嫌です!」
彼女は、両掌を正面に突き出した。その掌の中央に少しずつ、青白い炎が発生する。二つの炎はやがて掌を離れ、それぞれ独立したヒトダマとなって浮遊し始めた。
「焼却!」
ヒトダマが二つ、まっすぐ彼に飛んでくる。
流れ星のような二つの炎。慌てつつも、彼はその二つを手で受け止めた。
炎はぼやけて消滅した。
「ハ?」
少女が嘲笑した。己に対してか、目の前の敵に対してか。
……あるいはその両方か。
畏怖と怒りを同時に表すような歪な笑い声。少女は明らかに動揺していた。仕掛けるなら今しかない。周囲に人気がないことを改めて確認すると、彼は少女の首根っこを掴み、建物の陰へと移動した。
コンクリートに見ず知らずの少女を押し倒すのは流石に気が引けたが、手段を選んでいる場合ではない。叫ばれれば全てが終わってしまう状況ではあったが、幸いにも少女は不貞腐れた顔をするだけで、突拍子もない行動は起こしそうになかった。
「話を聞けって言ってんだ。僕は通り魔じゃないんだ。あの子を理由もなく殺したりはしない。できれば僕だってそんなことは」
「不可解」
彼の声を、少女が強引に遮った。
「何がだよ」
「貴方の能力に決まっている。何をされても無傷のくせに、全く表情に余裕がない。圧倒的な力を持っているとも思えないが、微弱な力でもないような……。とにかく、不可解だ」
「……色々とあるんだ。この力を手に入れたのだって、結構最近のことなんでね」
手帳をめくればすぐ辿り着く、遠くない過去。
その頃は彼も一般人だった。自分が妙な組織を作り、誰かを殺そうとするなど、想像もしていなかった。
近所の歯医者が潰れて、水道水がまずくなって。彼女と別れて、新しい彼女ができた。それを激動の一ヶ月と呼んでいたら、その翌月。そんな前月の出来事の全てがちっぽけ過ぎると感じるほどの大事件が訪れた。
拍手をしても、音が鳴らなくなった。そのうちに、音の有無を切り替えられるようになった。
それはどうやら、超能力の発芽だったらしい。
「喧嘩でこの力を使ったのは、正直今日が初めてだったけどな」
「喧嘩? 殺し合いの間違いだ」
「いや、それは……」
躊躇なく「殺し」という言葉を発する少女。異常だ。それを押し倒す自分もやはり、普通ではないのだろうか。
殺さないといけないのだろうか。押し倒した少女の顔を見ながら、何となく物思いにふける。
少女を押し倒す、という状況。酷い。犯罪だ。誰がどう見ても、今の彼は裁かれるべき人間。
だが、彼には目の前の少女を襲う気も、勿論殺す気も微塵もなかった。
彼……瓜生正義は、善人だ。
優しく責任感の強い、愚直な青年。
「――くそぉ……」
怖い。顔が強張る。体が冷たい。暑いのに寒い。
確かに自分の力は、彼女のあらゆる攻撃を対処した。この後も、しばらくはやり過ごすことができるだろう。
――でも、本当に? 絶対とは言えない自信の隙間に、そんな不安が入り込んでくる。
自分の力が常に使えるとは限らない。弾切れを起こすかもしれない。今日をどうにか切り抜けても、今後、また襲われるかもしれない。
――動きを封じている今のうちに、理解してもらうしかない。
まずは、自分の言い分を聞いてもらおう。男は全てを少女に話すことにした。
「……聞いてくれ。僕の話を」
少女は返事をせず、親の敵でも見るような目で彼を睨み付ける。その目に、思わず顔を背けたくなった。誰かにはっきりと敵意を見せつけられることにも、彼は慣れていなかったからだ。
呪われそうな鬼の眼差しにやや押されながらも、彼はゆっくりと、言葉を紡ぎ出した。