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唯一の私

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/20

放課後、制服を着替えて、私は「別の自分」になる。


高校二年の桜井唯。学校では誰とも話さない。いや、話しかけられない。クラスメイトの会話は私を素通りし、グループワークでは常に余り物として扱われる。存在しているのに、存在していない。


でも、ここは違う。


東栄商店街。昭和の香りが残る、寂れた商店街。私はここで、週三回、試食販売のアルバイトをしている。


「いらっしゃいませ!新発売のチーズケーキ、いかがですか!」


明るい声。笑顔。試食を配る手つき。


これは、私ではない。「桜井唯」という商品を売るための、パッケージだ。


でも不思議なことに、このパッケージを着ているとき、少しだけ楽になる。


「あら、唯ちゃん。今日も元気ね」


八百屋のおばちゃんが声をかけてくれる。


「はい!試食、どうですか?」


「もらおうかしら」


こんな会話ができる。学校では、一週間誰とも言葉を交わさない日もあるのに。


試食販売の制服を着た私は、学校の私とは別人だ。外側だけ変えた、偽物の私。


でも、この偽物の方が、人と繋がれる。


それが、悲しかった。


午後四時。商店街に子供たちの声が響く。


小学生の下校時間だ。彼らは金魚すくいの露店の前で立ち止まり、駄菓子屋に吸い込まれていく。


私は試食のトレイを持ち、決められた場所から動かない。これがルールだ。


「お姉ちゃん!」


小さな声が聞こえた。


振り向くと、五歳くらいの女の子が泣いている。


「どうしたの?」


「お母さんが、いない」


迷子だ。


「ちょっと待ってて。すぐ——」


でも、私は動けない。店長から厳命されている。「持ち場を離れるな」と。


女の子は泣き続けている。


商店街を歩く人々は、困った顔をしながらも素通りしていく。


私は、トレイを置いた。


ルールを破る。


「一緒にお母さん探そう」


女の子の手を引いて、商店街を歩く。金魚すくいの前、駄菓子屋、八百屋。


「ママ!」


女の子が叫んだ。若い母親が、青い顔で走ってくる。


「ありがとうございます!本当に!」


母親が何度も頭を下げる。


「いえ、大丈夫です」


店に戻ると、店長が仁王立ちしていた。


「桜井さん。何やってんの」


「すみません。子供が迷子で」


「持ち場を離れるなって言ったよね。商品盗まれたらどうすんの」


「でも」


「言い訳はいい。今日はもう帰って。明日、考えさせてもらう」


事実上のクビ宣告だった。


制服を脱ぐ。また、学校の私に戻る。


誰の役にも立たない、透明な私に。


翌日、学校帰りに商店街を通った。


謝ろうと思った。本当に、申し訳ないことをした。


でも、店の前に人だかりができていた。


「どうしたんですか?」


八百屋のおばちゃんが困った顔をしている。


「店長さんが急に倒れちゃって。救急車で運ばれたのよ。でも、今日、大口の納品があるって言ってたのに」


試食販売の店は、個人経営の小さな洋菓子店だ。店長一人で切り盛りしている。


「納品って?」


「ホテルのパーティー用に、ケーキを五十個。今日の夕方までに届けないと、違約金が発生するんだって」


時計を見る。あと三時間。


「鍵は?」


「店長の息子さんが持ってるけど、連絡がつかないの」


私は、ポケットに手を入れた。


昨日、店長に返し忘れた、バックヤードの鍵。


「私、入れます」


「でも、唯ちゃん——」


「店長に怒られたばかりですけど、今日は恩返しする日です」


店に入る。冷蔵庫に、完成したケーキが並んでいる。箱詰めして、ホテルの住所を確認。


でも、車がない。店長の軽トラは、病院に行ってしまった。


どうする。


電話をかけた。八百屋、魚屋、金魚すくいの露店の主人。


「お願いします。手伝ってください」


十五分後、商店街の店主たちが集まった。


「よし、手分けして運ぼう」


八百屋のおばちゃんが軽自動車を、魚屋のおじさんがバイクを出してくれた。


私は電動自転車にケーキを積んで、先導する。


ホテルまで二キロ。慎重に、でも急いで。


信号が赤になる。時間がない。


でも、ルールは守る。昨日、ルールを破って怒られた。でも、今日は違う方法で戦う。


知恵を使う。


「すみません!ケーキの配達で急いでます!」


交差点の警備員に声をかける。


「おお、それは大変だ。気をつけてな」


人の善意を、味方につける。力ではなく、知恵で。


午後五時。ホテルの搬入口に、全員が到着した。


ケーキは一つも崩れていない。


「ありがとうございました!」


ホテルの担当者が深々と頭を下げた。


翌日、店長が退院した。


私は店の前で、頭を下げた。


「昨日は勝手なことをして、すみませんでした」


店長は、困った顔をした。


「いや、俺の方こそ。ホテルから連絡もらったよ。お前が商店街の連中まとめて、配達してくれたって」


「でも、私が持ち場を離れたのは——」


「あの子の母親から、電話があったんだ」


「え?」


「娘を助けてくれてありがとうって。実はあの人、俺の常連客でね。『あの店員さんのおかげで娘が無事でした。本当にいい子を雇ってますね』って」


店長が笑った。


「お前、クビにしようと思ってたんだ。でも、お前がいなかったら、昨日の納品、間に合わなかった」


「私、何もしてないです。みんなが——」


「お前が頼んだから、みんな動いたんだよ。商店街の連中、口では文句言ってても、お前のこと気に入ってたんだ」


八百屋のおばちゃんが、店に入ってきた。


「唯ちゃん、これ」


手渡されたのは、商店街の店主たち全員からの寄せ書きだった。


『ありがとう』『また頑張ろうね』『いつも元気をもらってるよ』


涙が溢れそうになった。


夕方、試食販売を終えて、商店街を歩く。


金魚すくいの前を通りかかると、店主のおじいさんが声をかけてくれた。


「唯ちゃん、お疲れさん」


「お疲れ様です」


「なあ、唯ちゃん。あんた、学校では元気ないんだって?」


ドキリとした。


「どうして」


「八百屋の孫が、あんたと同じ学校でね。『あの子、学校ではすごく暗いのに』って言ってたよ」


恥ずかしさで顔が熱くなる。


「でもな、俺は思うんだ。学校の唯ちゃんも、ここの唯ちゃんも、どっちも本物だよ」


「でも、私、ここでは演技してるだけで——」


「演技じゃないよ。あんたが迷子の子を助けたのも、店長のために走り回ったのも、全部本物の行動だろう」


おじいさんは、金魚の水槽を見ながら続けた。


「人間ってのはな、いろんな顔を持ってる。でも、それ全部ひっくるめて『自分』なんだ。学校で暗いから偽物、ここで明るいから偽物、そんなことはない」


「じゃあ、本物の私って——」


「全部だよ。暗い顔も、明るい顔も、困った顔も、全部が唯ちゃんだ」


帰り道、おじいさんの言葉が頭の中で反芻される。


学校では、私は透明だ。誰とも繋がれない。


でも、商店街では、私は確かに存在している。


どちらが本物?


違う。どちらも本物なんだ。


そして、その両方を合わせた私は、この世界にたった一人しかいない。


桜井唯という人間は、私だけ。


代わりはいない。


翌日、学校で、初めてクラスメイトに話しかけてみた。


「おはよう」


相手は驚いた顔をしたけど、答えてくれた。


「あ、おはよう」


小さな一歩。


でも、この一歩を踏み出せるのは、私しかいない。


商店街で学んだこと。


人は、いろんな顔を持っている。


そして、その全てが、自分を形作っている。


私は、学校で孤独だった。


でも、商店街で知った。


私には、私を必要としてくれる場所がある。


私にしかできないことがある。


私は、この世界にたった一人。


それは、孤独じゃない。


唯一無二だということ。


かけがえのない存在だということ。


放課後、また制服を着替える。


試食販売の制服を着て、商店街に向かう。


もう、これは偽物じゃない。


これも、私だから。


「いらっしゃいませ!」


声が、以前より大きく響いた。


それは、本物の声だった。


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