唯一の私
放課後、制服を着替えて、私は「別の自分」になる。
高校二年の桜井唯。学校では誰とも話さない。いや、話しかけられない。クラスメイトの会話は私を素通りし、グループワークでは常に余り物として扱われる。存在しているのに、存在していない。
でも、ここは違う。
東栄商店街。昭和の香りが残る、寂れた商店街。私はここで、週三回、試食販売のアルバイトをしている。
「いらっしゃいませ!新発売のチーズケーキ、いかがですか!」
明るい声。笑顔。試食を配る手つき。
これは、私ではない。「桜井唯」という商品を売るための、パッケージだ。
でも不思議なことに、このパッケージを着ているとき、少しだけ楽になる。
「あら、唯ちゃん。今日も元気ね」
八百屋のおばちゃんが声をかけてくれる。
「はい!試食、どうですか?」
「もらおうかしら」
こんな会話ができる。学校では、一週間誰とも言葉を交わさない日もあるのに。
試食販売の制服を着た私は、学校の私とは別人だ。外側だけ変えた、偽物の私。
でも、この偽物の方が、人と繋がれる。
それが、悲しかった。
午後四時。商店街に子供たちの声が響く。
小学生の下校時間だ。彼らは金魚すくいの露店の前で立ち止まり、駄菓子屋に吸い込まれていく。
私は試食のトレイを持ち、決められた場所から動かない。これがルールだ。
「お姉ちゃん!」
小さな声が聞こえた。
振り向くと、五歳くらいの女の子が泣いている。
「どうしたの?」
「お母さんが、いない」
迷子だ。
「ちょっと待ってて。すぐ——」
でも、私は動けない。店長から厳命されている。「持ち場を離れるな」と。
女の子は泣き続けている。
商店街を歩く人々は、困った顔をしながらも素通りしていく。
私は、トレイを置いた。
ルールを破る。
「一緒にお母さん探そう」
女の子の手を引いて、商店街を歩く。金魚すくいの前、駄菓子屋、八百屋。
「ママ!」
女の子が叫んだ。若い母親が、青い顔で走ってくる。
「ありがとうございます!本当に!」
母親が何度も頭を下げる。
「いえ、大丈夫です」
店に戻ると、店長が仁王立ちしていた。
「桜井さん。何やってんの」
「すみません。子供が迷子で」
「持ち場を離れるなって言ったよね。商品盗まれたらどうすんの」
「でも」
「言い訳はいい。今日はもう帰って。明日、考えさせてもらう」
事実上のクビ宣告だった。
制服を脱ぐ。また、学校の私に戻る。
誰の役にも立たない、透明な私に。
翌日、学校帰りに商店街を通った。
謝ろうと思った。本当に、申し訳ないことをした。
でも、店の前に人だかりができていた。
「どうしたんですか?」
八百屋のおばちゃんが困った顔をしている。
「店長さんが急に倒れちゃって。救急車で運ばれたのよ。でも、今日、大口の納品があるって言ってたのに」
試食販売の店は、個人経営の小さな洋菓子店だ。店長一人で切り盛りしている。
「納品って?」
「ホテルのパーティー用に、ケーキを五十個。今日の夕方までに届けないと、違約金が発生するんだって」
時計を見る。あと三時間。
「鍵は?」
「店長の息子さんが持ってるけど、連絡がつかないの」
私は、ポケットに手を入れた。
昨日、店長に返し忘れた、バックヤードの鍵。
「私、入れます」
「でも、唯ちゃん——」
「店長に怒られたばかりですけど、今日は恩返しする日です」
店に入る。冷蔵庫に、完成したケーキが並んでいる。箱詰めして、ホテルの住所を確認。
でも、車がない。店長の軽トラは、病院に行ってしまった。
どうする。
電話をかけた。八百屋、魚屋、金魚すくいの露店の主人。
「お願いします。手伝ってください」
十五分後、商店街の店主たちが集まった。
「よし、手分けして運ぼう」
八百屋のおばちゃんが軽自動車を、魚屋のおじさんがバイクを出してくれた。
私は電動自転車にケーキを積んで、先導する。
ホテルまで二キロ。慎重に、でも急いで。
信号が赤になる。時間がない。
でも、ルールは守る。昨日、ルールを破って怒られた。でも、今日は違う方法で戦う。
知恵を使う。
「すみません!ケーキの配達で急いでます!」
交差点の警備員に声をかける。
「おお、それは大変だ。気をつけてな」
人の善意を、味方につける。力ではなく、知恵で。
午後五時。ホテルの搬入口に、全員が到着した。
ケーキは一つも崩れていない。
「ありがとうございました!」
ホテルの担当者が深々と頭を下げた。
翌日、店長が退院した。
私は店の前で、頭を下げた。
「昨日は勝手なことをして、すみませんでした」
店長は、困った顔をした。
「いや、俺の方こそ。ホテルから連絡もらったよ。お前が商店街の連中まとめて、配達してくれたって」
「でも、私が持ち場を離れたのは——」
「あの子の母親から、電話があったんだ」
「え?」
「娘を助けてくれてありがとうって。実はあの人、俺の常連客でね。『あの店員さんのおかげで娘が無事でした。本当にいい子を雇ってますね』って」
店長が笑った。
「お前、クビにしようと思ってたんだ。でも、お前がいなかったら、昨日の納品、間に合わなかった」
「私、何もしてないです。みんなが——」
「お前が頼んだから、みんな動いたんだよ。商店街の連中、口では文句言ってても、お前のこと気に入ってたんだ」
八百屋のおばちゃんが、店に入ってきた。
「唯ちゃん、これ」
手渡されたのは、商店街の店主たち全員からの寄せ書きだった。
『ありがとう』『また頑張ろうね』『いつも元気をもらってるよ』
涙が溢れそうになった。
夕方、試食販売を終えて、商店街を歩く。
金魚すくいの前を通りかかると、店主のおじいさんが声をかけてくれた。
「唯ちゃん、お疲れさん」
「お疲れ様です」
「なあ、唯ちゃん。あんた、学校では元気ないんだって?」
ドキリとした。
「どうして」
「八百屋の孫が、あんたと同じ学校でね。『あの子、学校ではすごく暗いのに』って言ってたよ」
恥ずかしさで顔が熱くなる。
「でもな、俺は思うんだ。学校の唯ちゃんも、ここの唯ちゃんも、どっちも本物だよ」
「でも、私、ここでは演技してるだけで——」
「演技じゃないよ。あんたが迷子の子を助けたのも、店長のために走り回ったのも、全部本物の行動だろう」
おじいさんは、金魚の水槽を見ながら続けた。
「人間ってのはな、いろんな顔を持ってる。でも、それ全部ひっくるめて『自分』なんだ。学校で暗いから偽物、ここで明るいから偽物、そんなことはない」
「じゃあ、本物の私って——」
「全部だよ。暗い顔も、明るい顔も、困った顔も、全部が唯ちゃんだ」
帰り道、おじいさんの言葉が頭の中で反芻される。
学校では、私は透明だ。誰とも繋がれない。
でも、商店街では、私は確かに存在している。
どちらが本物?
違う。どちらも本物なんだ。
そして、その両方を合わせた私は、この世界にたった一人しかいない。
桜井唯という人間は、私だけ。
代わりはいない。
翌日、学校で、初めてクラスメイトに話しかけてみた。
「おはよう」
相手は驚いた顔をしたけど、答えてくれた。
「あ、おはよう」
小さな一歩。
でも、この一歩を踏み出せるのは、私しかいない。
商店街で学んだこと。
人は、いろんな顔を持っている。
そして、その全てが、自分を形作っている。
私は、学校で孤独だった。
でも、商店街で知った。
私には、私を必要としてくれる場所がある。
私にしかできないことがある。
私は、この世界にたった一人。
それは、孤独じゃない。
唯一無二だということ。
かけがえのない存在だということ。
放課後、また制服を着替える。
試食販売の制服を着て、商店街に向かう。
もう、これは偽物じゃない。
これも、私だから。
「いらっしゃいませ!」
声が、以前より大きく響いた。
それは、本物の声だった。




