第九章② 木漏れ日を踏みしめて
湖畔を離れて、しばらく歩いたところで――
森の奥から、重く空気を震わせる音が響いた。
風が森を撫でるように吹き抜け――
その圧倒的な轟音に、男――唯一残った男は思わず足を止め、振り返る。
「……すげぇな。
あれが、本気で飛ぶってやつか……」
思わず漏れた声は、感嘆というより呆然に近かった。
頭上では、姿こそ見えないものの、
ドラゴンが高度を取るたび、低く唸るような音が森に残る。
私――綾子は思わず顔を上げ、その音を追った。
胸の奥で、すうっと力が抜ける。
(……上に、いてくれてる)
見えなくても、確かにそこにいる。
それだけで、背中を押されているような気がした。
――――――――――――――――――――
「姐さん、大丈夫ですか?」
前を歩く男が、ちらりと振り返る。
声は気取らず、けれどどこか探るようでもある。
「え、ええ……。でも、あの……」
私は足元の木の根を避けながら、少し眉を寄せた。
「どうして森の中から行くんですか?
道、ないですよね」
ぼやくような問いかけに、男は一瞬きょとんとする。
「近道、ってやつです」
「……近道?」
「街道は楽ですけど、見張りも多いですし。
姐さんみたいなべっぴんさんだと、余計に目立ちますから」
その言葉に、昨日の出来事が一瞬で蘇る。
胸の奥が、きゅっと強張った。
「 ”あなたたち”みたいな人も居るしね」
思ったより、声が強くなっていた。
男は一瞬、言葉に詰まったように視線を逸らした。
それから、苦笑を滲ませる。
「目ぇ付けられると、あとが怖いですからね」
そう言いながら足を止め、
男は木々の隙間から上空を見上げた。
枝葉の向こうに青空は見える。けれど、白銀様の姿は見えない。
「今は上に怖い旦那がいますから。多少は強気に行けるってわけです」
「調子に乗ってませんか?」
私が間髪入れずに言うと、男は肩をすくめて、にやりと笑った。
「へへ、ちょっとだけです」
そんなやり取りをしながら、二人は森の中を歩き続けた。
――――――――――――――――――――
森は深い。
でも、男の足取りには迷いがなかった。
枝を払い、獣道を選び、
時折立ち止まっては周囲を確かめる。
その目は森の奥をちらりと走り、
足取りは揺るがない。
男は、手元の枝を軽く払いながら、
小さくため息をついた。
気まずさを紛らわせるように、
少しぶつぶつと独り言めいた声を漏らす。
「……あの、まぁ、せっかく歩いてるんですし」
少し間を置いて、こちらを気にするように続ける。
「聞きたいことも……その……いいですか?」
私は答えずに歩き続けた。
拒まなかったことを、彼は許可と取ったらしい。
「そういえば、姐さん……あの……
白銀様も言ってましたけど、"娘"ってのは本当なんですか?」
私は一度、視線を足元に落とし、
小さく息を吐いた。
「……いいえ、違います。
ちゃんとお母さんはいました」
「お母さんは、どちらに……?」
胸の奥が、すっと冷える。
「ついこの間、死んだの……」
自分でも驚くくらい、声は静かだった。
男はすぐに言葉を重ねなかった。
少し間を置いてから、慎重に続ける。
「じゃあ……お父さんは?」
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「お父さんは……居ないの」
「……お父さんも、お亡くなりに……?」
私は首を振った。
「ううん、違うの。お父さんは、最初からいないの」
少しだけ重い沈黙が落ちた。
男はそれを振り払うように、
肩をすくめて一言だけ言った。
「……なるほど、姐さんの家系は複雑ですね」
男は重い話から逃れるように、
再び枝を払いながら歩き続けた。
――――――――――――――――――――
歩き続けるうちに、私は少しずつ下腹部に違和感を覚え始めていた。
――まずい。
このまま歩き続けたら、我慢できなくなりそうだ。
「……あの」
声をかけようとするのに、言葉が喉でつかえる。
顔が熱くなるのが、自分でもわかる。
足を小刻みに動かしながら、前を歩く男の背中を見つめていると、
彼はちらりとこちらに気づき、歩く速度を落として振り返った。
「どうしました?」
私は小さく息を吐き、意を決して口を開いた。
「その……ちょっと、用を足したくて……」
男は一瞬きょとんとしたあと、軽く笑って手を振った。
「はいはい。急がなくていいですよ。ここで待ってますから」
私は何も言わずに頷き、木の陰へ向かってしゃがみ込む。
用を足している間、胸元の奥に隠していた宝石をそっと取り出した。
半分だけを革袋へ――
見られないよう、素早く、それでいて確実に。
終えて立ち上がり、深く息を整えてから男の元へ戻る。
「……お待たせしました」
男は、にやりと笑う。
「遅かったですね」
顔に一気に血が集まる。
「う、うるさい!
急に、行きたくなっただけ!」
男は声を立てて笑い、何も言わず前を向いて歩き出した。
私はその背中を追いながら、
胸の奥に残った安堵と、ほんの少しの恥ずかしさを噛みしめていた。
――――――――――――――――――――
「もうすぐ森を抜けますから、抜けたら街道に出ます。
そこから二時間も歩けば、街です」
「街……」
私の中で、胸の高鳴りと不安が同時に押し寄せた。
「人、沢山いますよ。飯もちゃんとしてますし、
……美味いもんも、あります」
最後の一言は、少しだけ柔らかかった。
「……美味しい物、ですか」
私がそう返すと、男は軽く頷く。
「ええ。朝食った干し肉とは、だいぶ違います」
(えっ、…朝の干し肉、美味しかったのに……)
ふと、木々の隙間から光が落ちてくる。
揺れる葉の間をすり抜けて、淡い光が地面に斑を描く。
綾子は、無意識にその一歩を踏み出した。
――木漏れ日を、踏みしめて。
足元に落ちた光は、すぐに形を変えたが、
確かにそこに“進んでいる感触”があった。
その間、
上空から響く低く重い音は、ずっと聞こえ続けていた。
守ってくれてるような、
見下ろすような、確かな存在感。
綾子は、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
(……大丈夫)
そう思えたのは、木漏れ日のおかげか、
それとも――空の見守り手のおかげか。
二人はやがて森を抜け、踏み固められた道へと出る。
遠く、開けた先に、街の気配が滲んでいた。
第九章② 終わり




