第九章① 湖畔の朝と小さな一歩
やがて空の色が、ほんのわずかに変わる。
森の奥から鳥の声が静かに響き始めた。
一晩中燃え続けた焚き火は、変わらず赤く揺れていた。
綾子は微かな光に気づき、
身じろぎしてゆっくりと目を開けた。
見知らぬ森の湖畔。
焚き火の炎。そして、すぐそばには白銀の鱗。
――夢じゃない。
その事実が、朝の空気と一緒に胸へ落ちてくる。
綾子は小さく息を吸い、新しい一日を静かに受け止めた。
―――
「目覚めたな……」
ドラゴンの低く、しかし落ち着いた声に、綾子は自然と返す。
「おはようございます……」
焚き火の横で、
男――唯一残った男が、寝ぼけまなこでうめき声をあげる。
「……まだ眠い……」
綾子は、小さくため息をつき、視線をそっと逸らした。
―――
男は、目を覚ますとすぐに水袋を取り出し、口に運んだ。
それを見た綾子は、少し驚き、わずかに息を呑む。
「……あの、わ、私も……」
男は差し出そうとしたが、
一瞬手を引っ込み、自分が使った吸い口を慌てて袖で拭った。
綾子はそのささやかな心遣いに、少し感心し、慎重に水を口に運ぶ。
だが、水はすぐに底を尽きた。
それを見たドラゴンが、静かに水袋を差し出すよう促す。
綾子が水袋をドラゴンの指に乗せると、瞬く間に水袋が膨らむ。
「……ありがとうございます」
驚きと安堵の混じる声で礼を言い、再び喉を潤した。
水を飲み終えた綾子が、ふっと息をつく。
男は、そっと昨日の残りのパンと干し肉を差し出した。
「……良ければ、どうぞ」
綾子は軽く頷き、慎重に手を伸ばす。
水袋の吸い口を見つめたあと、男の顔を見る。
そして、小さく「ありがとうございます」と礼を言い、口に運ぶ。
パンと干し肉は素朴ながら美味しく、
噛むたびに体の奥まで力が巡るのを感じた。
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食事を終えた男は、昨日の亡骸の装備を手早く確認する。
男は、亡骸の革袋に自分の金目の物をまとめ、それを身につけた。
空になった自分の革袋は、手に持ち綾子に渡す準備をする。
最後に、男は剣を拾い上げ、そっと綾子に差し出す。
「姉さん、これを」
革袋には手を伸ばしたが、剣には手を伸ばさず、綾子は首を振った。
「……それは要りません」
「殺めるためでなくても、護りには必要だ……」
横から低く諭すように、ドラゴンの声が響いた。
「言ったであろう、この世界は優しくはないと」
一度だけ息を整え、綾子は腰に剣を掛けた。
重みと共に、旅立つ意志が胸に静かに満ちていった。
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ドラゴンの声が、森の静寂を包むように響く。
「我は上から見守る。二人で先に行け」
「なに、火の後始末をするだけだ。すぐに追いつく」
綾子と男は少し緊張しながら、湖畔を後にした。
ドラゴンは二人が森の奥に消えるまで、じっと見つめ続ける。
やがて焚き火の火を消し、亡骸も光を放って一瞬で消し去る。
二人は森の中を歩き続けた。
朝の光が差し込む森を抜け、
未知の世界へと踏み出していく二人の小さな背中。
第九章① 終わり




