第一章 交差する夜
私――綾子を、
苦労して育ててくれた母が亡くなって2週間。
残業を終え、夕暮れの町を歩く。
最近、帰り道が少し怖い。
母が残した借金と、仕事疲れで、今日も自炊する気力はない。
私は、大好きなラーメンを食べようとお店に向かった。
店外にまで広がるスープの匂いに惹かれ、お店に辿りつく。
(あーいい匂い)
扉を開けると、やっと少しだけ息がつける。
この店の中だけ、世界が止まっているみたいだった。
手提げバッグを横に置き、店員さんにいつものラーメンを注文する。
私は肩の力を抜いた。
「はぁ……」
疲れた息が漏れる。
スマホを置き、紙の手帳に目を落とす。
小さな安心感が、かすかに心を落ち着かせた。
――――――――――――――――――――
店員さんがラーメンを持ってきてくれた。
一息ついた後、私はいつものように、
ヘアゴムとヘアピンで髪をまとめ、髪垂れを防いで食べ始める。
ずるずると音を立ててすすりながら、ふと子供の頃のことを思い出した。
母も、いつも同じようにしてラーメンを食べていた。
あの頃の母の笑顔を思い出すと、
今の私のやるせなさと比べてしまい、少し胸が痛む。
手帳に、今日あったことを書き留める気力はない。
食べ終えて、もう一度だけ息をつく。
そして、店を後にした。
暖簾をくぐった途端、冬の冷たい空気が火照った体を一気に冷ます。
それでも、体の奥だけは、まだ温かかった。
――――――――――――――――――――
時計の針は23時前。
アパートまでは、10分ほど。
人通りの少ない道を選ぶのは、いつものことだ。
――その時。
こつ。
靴音が、ひとつ。
……気のせい?
私は歩く速度を少しだけ上げる。
こつ、こつ。
今度ははっきりと聞こえた。
私の歩調に、合っている。
背中に、冷たいものが這い上がる。
(……まさか)
角を曲がり、街灯の影に身を滑り込ませる。
心臓が、うるさい。
数秒後――
視界の端に、影が映った。
見覚えのある、背の高さ。
革靴。
ゆっくりとした、嫌に余裕のある歩き方。
(……あの人だ)
借金取り。
喉が、きゅっと鳴る。
(どうする……?)
戻る? 無理。
走る? 追いつかれる。
頭の中で、選択肢が次々と潰れていく。
その時――
「綾子ちゃん、みぃつけた」
低く、落ち着いた声。
体が、びくりと跳ねた。
もう、隠れる意味はなかった。
私は、ゆっくりと影から姿を現す。
見つかった。
完全に。
「綾子ちゃ~ん、返済計画についてお話しよっか~」
語尾を伸ばした声が、やけに軽い。
まるで、久しぶりに会った知り合いに声を掛けるみたいに。
――その瞬間。
私は、考えるより先に走り出していた。
「っ……!」
背後で、舌打ちが聞こえた気がする。
(ダメ、振り返らない)
足音が、増える。
一人じゃない。
路地を抜け、明かりの少ない方へ、無我夢中で走る。
やがて視界が開け、並ぶのは無機質な倉庫の影。
倉庫街だ。
昼間はトラックが行き交う場所も、夜は音がやけに響く。
自分の呼吸音が、うるさい。
心臓が、喉の奥で暴れている。
(どこ……どこに――)
角を曲がった瞬間、足元が僅かに滑った。
「っ……!」
体勢を立て直す間に、距離が一気に詰められる。
「ほらほら~、無理せん方がええって」
すぐ後ろ。
息が、かかるほど近い。
私は必死に腕を振り払おうとした。
「やっ……!」
だが――
がしり、と。
手首を、強く掴まれる。
「はい、捕まえた」
力が、違いすぎた。
体を引き寄せられ、背中が冷たい倉庫の壁に叩きつけられる。
息が詰まる。
逃げ場は、もうない。
男は、にやにやと笑いながら、私の顔を覗き込んだ。
「ちゃんと話そっか? 逃げんでもええからさ」
倉庫街の闇が、私を、すっかり包み込んだ。
――――――――――――――――――――
借金取りは、殴ろうとはしなかった。
ただ、男の筋力で私を捩じ伏せようとしている。
左腕で首元を押さえつけられ、逃げようと動いた瞬間、地面に押し戻された。
借金取りは、右手に握ったナイフを、わざと私の視界に入る位置まで持ち上げる。
月明かりを受け、刃が鈍く光った。
「綾子ちゃ~ん、俺の彼女になってくれたらなぁ」
耳元で、粘つくような声がする。
「お母さんが残した借金、チャラにしたるでぇ」
私は必死に身を捩り、叫んだ。
「嫌に決まってるでしょ! 放して!」
喉元にかかる腕の力が、わずかに強くなる。
借金取りは、低い声で続けた。
「ほな、うちの系列で働いてもらうしかないなぁ」
「返済も、早よ終わらせられるでぇ」
視線が絡みつく。
「綾子ちゃんは、どっちがエエかなぁ?」
「どっちも嫌っ!」
叫んだ瞬間、男は一度だけ、ナイフを床に置いた。
金属が、乾いた音を立てる。
次の瞬間、影が覆いかぶさり、逃げ場が完全に消えた。
近い。
息遣いが、異様に近い。
嫌悪感が、背筋を這い上がる。
「そんな事言わんとさぁ」
男は、楽しむような口調で囁いた。
「これはな、提案や」
私は残った力を振り絞り、暴れながら叫ぶ。
「嫌って言ってるじゃない!
お願いだから、もう放して!」
借金取りは、喉の奥で低く笑った。
「あ~……」
鼻を鳴らし、顔を近づけてくる。
「綾子ちゃん、エエ匂いするわぁ」
――その時。
倉庫内に差し込む月明かりに照らされ、
床に置かれたナイフが、私の視界を支配した。
――――――――――――――――――――
そして……。
私は、全力で逃げ始めた。
心臓が喉元までせり上がり、頭の中は真っ白だ。
「……逃げなきゃ……!」
そう自分に言い聞かせ、ただ前へ、前へと足を動かす。
倉庫を飛び出した瞬間、冷たい夜気が肺に突き刺さった。
綾子は振り返らない。
――振り返れなかった。
(……絶対、逃げる……!)
呟きながら、必死に走り続ける。
足がもつれる。
息が荒れ、喉が焼ける。
背後から追ってくる気配がある――
そう思い込んだだけで、体の芯が凍りつき、
全身にぞわりとした悪寒が走った。
(来る……まだ来る……)
だが、実際には、もう誰も追ってきていない。
それを確かめる余裕など、綾子にはなかった。
ただ、逃げなければならない。
止まったら終わる。
捕まったら、もう――。
街灯の光が増え、視界が開けてくる。
車の走行音が耳に届いた。
国道だ。
(ここまで来れば……誰か、助けを――)
そう思った瞬間、足がわずかに鈍る。
助けを呼んで、何が変わるのだろう。
母はもう、いない。
帰る場所にも、戻れない。
お金も、守ってくれる人もない。
胸の奥が、すとんと落ちた。
(……もう、いいのかもしれない)
そう思った――はずなのに。
それでも、体は前へ進んでいた。
――――――――――――――――――――
歩道のない国道脇を、ガードレールを掴みながら歩く。
トラックが横を通り過ぎるたび、風圧が容赦なく体を叩いた。
鉄の塊が、すぐ隣をすり抜けていく現実に、
足の裏がじわりと痺れる。
時刻は、23時を回っていた。
大型トラックが、列車のように何台も連なり、夜道を流れていく。
だが、その流れは一定ではない。
遅い車が大名行列を作り、信号で分断される。
途切れたかと思えば、
また光の列が現れては、消えていった。
その中で――
一台だけ。
信号の最前列から発進したトラックが、
後続を置き去りにして走り出す。
加速についてこられない車列と、
少しずつ距離を広げながら、こちらへ近づいてくる。
(……あれなら)
綾子は、無意識にその一台を目で追っていた。
単独で走っている。
他の車を巻き込む可能性が、ほんの少しだけ、低い。
(大事故には……ならない)
そんなことを考えている自分が、
どこかおかしくて、
ほんの一瞬、
笑いそうになる。
(飛び込めば……終わる)
分かっている。
それでも、
足が前へ出た。
まるで、
背中をそっと押されたかのように。
暗闇の向こうで、
白い光が、ふた筋揺れながら近づいてくる。
距離が縮まっている――
ただそれだけが、理屈抜きに分かった。
気付いた時には、
綾子の体は、もう前へ出ていた。
――――――――――――――――――――
時間は、少し遡り――
その夜。
別の場所で、
一人の男が、
大型トラックを走らせていた。
彼はまだ、
綾子の存在すら知らない。
――――――――――――――――――――
夕暮れも過ぎ、
辺りがすっかり暗くなった頃、
男は荷物を降ろし、帰路についた。
高速道路を一時間ほど走り、残りは下道。
何度も信号に捕まりながら、
諦めの境地でトラックを進める。
信号で停車するたびに、
ヒマを持て余してタバコに火をつける。
(下道はタバコ吸う本数が増えるんだよなぁ)
男は小さく愚痴を漏らした。
田舎ではラジオの入りが悪く、
そんな時のためにラジコでお気に入りの番組を流すのが、
孤独な運転の、ささやかな楽しみだった。
夜も深まり、夜間運転の危険度は増していく。
長時間の運転で疲労は溜まっているが、
経験と勘が彼の行動を支えていた。
視界の端で、道路沿いの暗がりの動きを目ざとく捉えつつ、
ミラー越しの後続車の動向も読む。
下道を走り始めて2時間ほど。
男は呟く。
「やっと前のクソ遅ぇトラックどいてくれた」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「まぁまたどーせすぐ詰まるんだけどねー」
アクセルを踏み込み、
男は無駄のない操作で速度を上げた。
前方が開けたトラックは快調に走り出す。
――その時だった。
道路脇の暗がりに、
一瞬だけ、不自然な“動き”が見えた。
胸の奥が、ざわりとする。
細かい動きや距離感を理屈抜きに認識する感覚――
それは、これまでの経験が身体に刻み込まれたものだった。
「ん?この時間に、こんな所に若いネーちゃん?」
男は瞬時に予備動作を開始する。
センターライン寄りにハンドルを切り、
歩行者との距離を取ろうとした。
だが――
人影が、ふらりと車道側へ踏み出した。
「おい!……ネーちゃん!」
男は即座に判断する。
――対向車なし。
後続車の有無を、ミラーで一瞬だけ確認。
――いない。
センターラインを越え、
反対車線へ避ける。
人影がさらに割って入り、こちらを向いた。
ライトに照らされた顔。
――一瞬、時間が引き延ばされたように感じた。
男の視界に、はっきりと映る。
「おいおいおいおい、マジかぁ!」
第一章 終わり




