構文解析不能領域 -Null Name-
森は進むほどに、「読めなくなる」。
名前が消える。意味が崩れる。
それでもあなたは、物語を読むことをやめない。
なぜなら、“その先に何かがある”と信じているから。
……だが、果たしてそれはあなた自身の意志だろうか?
物語に読まれているのは、あなたの方かもしれない。
——記憶が砂のように指の隙間を滑り落ちていく感覚。
ノアは立ち止まるたびに、自分の“存在のパーツ”がどこかへ置き忘れられていくのを感じていた。
歩くたびに、名前が剥がれる。
言葉が歪む。
最初に失われたのは、“音”だった。
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「……────」
口を開いても、音が出ない。
彼の声帯は確かに動いている。空気も震えている。
だが、そこに“言葉”はなかった。
次に失ったのは、“形”だった。
森の木々は、まるで文字化けした言語のように、ぐねりと曲がっていた。
幹が「||∥∥∥◯∮∵≠」のような記号に変化し、それでもなお、木であることをやめてはいない。
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「ノア」という概念が、彼の中で薄れていく。
(おまえはノアではない)
(最初からノアなどいなかった)
(ノアとは“物語上の仮初の仮面”にすぎない)
その声は、彼の中から聞こえてきた。
彼の中に、“複数の声”があるのを彼はもう知っていた。
ひとつは観察者31-A。
もうひとつは、未来から来た自分自身。
そしてもうひとつ——“読者の声”だ。
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そのとき、視界にノイズが走った。
草原の中に、現代の教室が現れた。
昭和の銭湯、2045年の研究施設、江戸の座敷牢……時間が溶け、空間が混ざりあい、あらゆる時代の「逃げた人々」が、ひとつの部屋に集まりはじめた。
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【人物記録 断片】
•高城 結衣:令和時代の高校教師。失踪した生徒の“夢”の中で森の存在を知り、現実を否定し始める。
•イシュ=ナム(イスラム歴未記録):戦火を逃れた子ども。家族を失い、語る言葉が消えていく。
•エリク・ベスト(西暦2201年):AIに記憶を管理された社会の中で、意図的に「記録から消された」研究者。
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そして彼らは同じように、“自分だけが特別な真実に気づいた”と信じていた。
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ノアは震えながら呟いた。
「まさか……俺たちは全員、物語に選ばれてるんじゃない……試されてるんじゃないか?」
その言葉に、誰も反応しない。
なぜならその時点で、ノアはまだ言葉を持っていなかったからだ。
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誰かが本を持っていた。
古びた、皮表紙の分厚いもの。
背表紙には、こう記されていた。
《漆黒の森/第0章:未読領域》
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ノアがその本に触れた瞬間、周囲の人々の目が一斉に彼を見た。
それぞれの時代、国、記憶、文化、言語の違いを超えて、ただ一つの“共通理解”を持って。
「そこには、“まだ読まれていない物語”が眠っている」
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ノアは気づいてしまった。
森は、すべての「終わらなかった物語」が集められる場所だ。
現実に絶望した者たちの、“完成しなかった章”の、墓標。
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そのとき、空から声が降ってきた。
「おかえりなさい。“筆者”さま」
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ノアの膝が崩れ落ちた。
筆者? 俺が……?
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空に、無数の未完の原稿が舞っていた。
それは、ノアの記憶にあるはずのない、物語の断片。
だが、確かに“自分が書いたような気がする”。
少年の物語、戦場の記録、母を失った娘の手記——
どれも、途中で物語が終わっていた。
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ノアは震える手で、そのうちの1枚を拾った。
「君が“筆者”だということに、気づかせるために、我々は存在していた」
「我々は物語の亡霊だ」
「読み手であるあなたを、“書き手”へと引き戻すための」
「そう、“漆黒の森”とは——」
──ページはそこまでしかなかった。
真実は、読者の数だけ存在する。
だが、それすらも「物語の設定」にすぎないとしたら?
あなたが“読んでいた”物語が、いつしか“あなたを読んでいた”のなら。
あなたが今、誰であるかさえ、**物語に書かれた“役割”**だったのだとしたら?
次の章では、いよいよ“読者”のあなたの存在が物語の一部となります。
覚悟は、できていますか?