鏡像の境界
……“鏡”は真実を映すという。
だが、それは“表面”に現れるものにすぎない。
映されたそれが、あなたの“内面”と一致している保証はどこにもない。
漆黒の森が“あなたの心”だったとしたら?
——それも、誰かが仕掛けた“幻想”ではなかっただろうか。
ノアは、またしても目を覚ました。
だが、目の前に広がる森は、これまでとどこか違っていた。木々の並びがわずかに歪み、足元の落ち葉は左右非対称に配置されている。空の色も、記憶にある青緑ではなく、仄かに赤みを帯びていた。
「……これは、前と同じ場所ではない」
声に出して初めて、その確信が重く彼の胸にのしかかる。森が変わったのではない。彼の認識のほうが変化しているのだ。
足元に、何かが落ちていた。
一冊の書物。だが、ページはすべて真っ白だった。
鏡を覗き込むように、その本を傾けた瞬間——
──言葉が、現れた。
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「この物語は、あと23章で終わる」
「あなたは、前章の終わりで死んでいた」
「ノアの正体は、“あなた”だ」
「作者は、もう存在していない」
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ノアは本を閉じた。ページは確かに白紙のはずだった。
だが彼は、そこに“意味”を見たのだ。鏡の中にしか存在しない記憶を。
「……これは、誰の言葉だ?」
遠くから、誰かの足音が聞こえる。だが、音はまるで“反響”しているかのように方向感覚を持たない。右か、左か、後ろか、それとも——
「……ようこそ」
その声は、性別を持たない。若くもあり、老いてもいる。
彼の前に立ったその存在は、ローブを纏い、顔の半分を覆っていた。
「観察者番号31-Aです。貴方はまだ、“中心”には至っていません」
「……中心?」
「すべての物語の“根”のことです」
観察者は、ノアの手から本を取り上げた。ページをめくる。
そこには、こう記されていた。
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「観察者31-Aは、ノア自身の未来人格である」
「だが、それはミスリードである」
「あなたが読んでいるこれは、まだ“第1階層”でしかない」
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ノアは混乱した。
だが、次の瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
気づけば彼は、草原に立っていた。
そこには、時代も国も異なる無数の“逃げ込んだ者たち”がいた。
—明治の精神病院から逃げ出した男。
—戦争で家族を亡くした少女。
—22世紀のクローン研究者。
皆が、こう語った。
「現実が、壊れそうだったんだ。だから……この森に来た」
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だが、彼らの言葉が正しいとは限らない。
彼らが語る“自分の過去”が、真実だとは限らない。
なぜなら彼らの記憶も、どこか歪んでいたからだ。
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ノアはつぶやいた。
「森が……集めているのか……現実に耐えられなかった者たちを」
そのとき、一本の道が彼の前に現れた。
それは、地図に記されていない“十三番目”の道。
朽ち果てた木の標識には、こう書かれていた。
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「ここから先は、“解釈不能領域”につき通行禁止」
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それでも、ノアは足を踏み入れる。
失われていく記憶を感じながら。
自分が、何者だったかも忘れていく恐怖のなかで。
あなたが読んできた“この章”すら、偽物かもしれない。
あなたの記憶が、物語の齟齬を“補完して”しまっている。
だが、そうであったとしても——あなたは、最後まで辿り着けるだろうか?
森の正体が“あなたの心”だったという結末すら、偽装かもしれない。
本当の答えは、“そこに辿り着いた者”しか知り得ない。