記憶の裂け目に棲むもの
ある記憶があった。けれど、それは“記録されていない”ものだった。
記憶と記録の境界が曖昧になった時、人格は形を失う。
ここは、そうして現れた森。
そう思い込んでいたことすら、もう“誰かの植え付けたもの”かもしれない。
ノアが、いなくなった。
エイレンは気づかなかった。ただ、森の湿気が急に乾いたように感じただけだった。
「……また誰か、来る」
風が“音”を連れてきた。
それは歯車の軋む音、蒸気の噴き出す音、あるいはタイプライターの打鍵音。
現れたのは、高い襟の軍服を着た青年だった。
目元には古びたゴーグル。右手には、スケッチブックがぶら下がっている。
「この森の構造を解明しに来た」
彼は一言だけそう言って、地面に定規を当て始めた。
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■ 時空と心象が混ざる
「ここは三次元空間ではない。“角度”が合わない」
青年が描いた円は、紙の中では閉じていたが、地面に写すと「永遠に閉じない弧」だった。
「あなたは誰?」とエイレンが問うと、青年は、
「……忘れていたのか。
君にその質問をされたのは、これで二度目だ」
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■ 名前を持たぬ者たちの連鎖
ふいに、森に小さな劇場が現れる。カーテンが風で揺れ、古い木製の椅子に誰かが座っていた。
座っていたのは、和服の女だった。
時代劇のような恰好。うつむいたまま、彼女はこう言った。
「この森では、名前を名乗る者は消える。
記憶されることで、私たちは森から消されるのよ」
——だから、誰も覚えてはいけない。
「けれど……あなたは、違うのね?」
人は、忘れることで生き延びてきた。
けれど、忘れられた側は、どこに行くのか?
次章『忘却の地図、または記録されなかった人生たち』では、
これまで一度も語られなかった“森の外”の人々の声が届き始める。