囁く声、裂ける空
夜が静かなのは、語る者がいないからではない。
声が多すぎて、互いの音が重なり、ただ“沈黙”に聞こえるだけだ。
——この森は、静かすぎた。
それが、妙に気になった。
「風が、変わった」
そう言ったのはノアだったか、あるいは木の枝にひそむ“何か”だったのか。
エイレンの頬に一筋の風が走る。その風は、やけに“重たかった”。
(……重たい風なんて、あるか?)
ふと足元を見ると、小さな時計が落ちていた。
秒針が止まったまま、12と6の間で針がかすかに震えている。
「誰の……だ?」
拾い上げた瞬間、遠くで“声”がした。
「たったひとつを、忘れただけなのに」
「だから、ここに来たの」
ノアはエイレンの手元を見ようともせず、森の奥を見ていた。
「さっきの声……知ってる?」
ノアは少し笑った。それは、少しだけ、泣きそうな顔にも見えた。
「ねぇ、エイレン。森ってさ、境界がないと思う?」
「……どういう意味だ」
「どこからが“森”で、どこからが“戻れない”のか、気づける人って少ないのよ」
⸻
■ 終わらない風景の中で
道はあった。はずなのに、いつの間にか“歩いていた場所”と“いま立っている場所”が食い違っていた。
エイレンは何もない空間に手を伸ばす。何も掴めない。だが、確かに誰かの指が、
ほんの一瞬、エイレンの指に触れた。
(誰かいた……?)
空はいつの間にか裂けていた。
いや、もとから“空などなかった”のかもしれない。
目を細めて見ると、裂け目の向こうに“街”が見えた。
だが、その街は……明らかに時代が違っていた。
煙突から黒煙が上がり、瓦屋根がずらりと並ぶ中に、
ガスマスクをつけた少女が歩いていた。
⸻
■ “名前”を持たなかった者たち
少女はこちらに気づいたようだった。
だが、口は動いていない。彼女の声は、頭の中に“直接”響いた。
『わたしは、終わらなかったの。だからここにいるの』
『ねぇ、名前って、なに?』
ノアが静かに答える。
「名前は、境界線よ。
誰でもなかったものが、誰かになるときに手に入れる。」
少女は静かに笑った。
その笑みは、何かを哀れんでいるようにも、憐れんでいるようにも見えた。
『だったら、私はあなたになればよかったのかもね』
風がまた吹いた。
さっきまであった少女の姿は、すでに森の彼方だった。
ただ、彼女のいた地面に残された“靴”だけが、向き合った証だった。
風が語り、森が囁き、時計が刻まぬ時間を揺らす。
それらはすべて、ほんの小さな“偶然”に見えるかもしれない。
だが、「あなたが気づかないように設計されたもの」は、
常に真実の近くにある。
次の章、『時計仕掛けの記憶、あるいは輪廻の錯覚』では、
一度壊れたものが、どこへ向かうのかを問う。