影と種子
過去は変えられない。
だが、記憶は書き換えることができる。
人は時に、耐えられない現実を前にしたとき、
“真実を信じるより、自分を守る嘘”を選ぶ。
そのとき、心に落ちたのが「影」。
そして、その根に埋めたのが「種子」だった。
森を進むにつれて、空気は変わった。
肌がざわつく。背後に何かがいる。だが、振り返ってはならない。
ノアは言った。
「この森では、後ろを見ると“過去に引きずり戻される”の。
…それは、誰にとっても地獄よ。」
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■ 忘れられた少女
最初の分岐点に差しかかったときだった。
森がざわめき、道の先に“人影”が現れた。
「…あれは、誰だ?」
ノアは立ち止まった。
「エイレン、あれは“あなたが見殺しにした少女”。
でもあなたの記憶では、彼女は死んでないことになってる。」
「…見殺しに?何の話だ。」
影はだんだん形を持ち始めた。
白いワンピース。片腕に包帯。足元から血が滴っている。
「先生…わたしの名前…覚えてる?」
その声で、世界が歪んだ。
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■ 記憶の歪曲
エイレンの頭に、かすかに思い出せる情景がよぎる。
——山岳地帯の診療所。
——土砂崩れ。
——急患の少女。
——救急車の無線。
——娘の熱。高熱。けいれん。
「…いや…そのときは…娘の熱が…」
「そう。あなたは家に戻った。
でも、私…ここで死んだの。」
影の少女が微笑む。その目に、恨みも怒りもない。
ただ静かに、彼を責めていた。
「私の母は…毎日言ってたよ。
“先生が帰らなければ、助かってたのに”って。」
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■ 内面の葛藤と崩壊
エイレンは崩れ落ちるように地面に膝をついた。
「俺は……娘が、もう戻れないかもしれないと思って…
……もしあの夜、戻らなければ、二人とも失っていたかもしれない……!」
「それが、正しかったと思う?」
ノアの声は柔らかい。だが突き刺さる。
「“自分の大切なもの”を優先するのは、人間らしい。
でも、“それで他者を殺したこと”を、自分で赦すのは違う。」
彼は叫んだ。
「……俺は、医者だった。
……それでも、父親であることを選んだ。
……間違ってたかどうかなんて……もう、答えはないだろ……!」
少女の影は微笑んだまま、光の粒となって消えていった。
そこに残されたのは、小さな花の種子。
「“あなたが見殺しにした記憶”は、あなたの中でずっと泣いてたの。」
ノアはその種子を拾い、エイレンの手に握らせた。
「それを埋める場所を、あなたは探してる。
……つまり、この森に来た理由はそれ。」
本当に赦されたいのは、他人ではなく、自分自身。
記憶の中の影を“他人のせい”にしたとき、
そこに最も深い罪の根が生まれる。
それはきっと、
罪ではなく、“種”だったのかもしれない。
種が咲くとき、あなたは真実と向き合うことになる。
——次章『囁く声、裂ける空』で、
森の内側が、あなたを覗く。