《あの日、森に置いてきた少年》―それはもうひとつの“あなた”か、“彼”か
失くしたものより、置いてきたもののほうが重たい。
忘れたふりをしてきたその“誰か”が、
森の奥で、まだ泣いている気がする。
森は静かだった。
だが、その静けさは何かを待っている。
あなたが気づくことを。
思い出すことを。
呼び戻すことを。
その夜――森の中心部、「鏡池」へと導かれる。
そこは水面が鏡のように滑らかで、空も木々も映さず、ただ“記憶だけを映す”と伝えられる場所だった。
あなたが覗き込むと、水面が震えた。
――映ったのは、「少年」だった。
年の頃は十か十一。
髪は少し長く、目はどこかあなたに似ていた。
だが、違う。
この少年は、“あなた”ではない。
もしくは、かつてのあなたではないふりをしている。
「やっと来たんだね」
少年は、水面の中から語りかける。
まるでそこが、もうひとつの世界であるかのように。
⸻
■「ぼくは、君が置いていったもの」
あなたは、無言になる。
心の底が“なにか”でざわついた。
「君はあのとき、ひとりで森を出た。
忘れたふりして、大人になった。
でもね……あの時、ぼくをここに置いていったんだよ?」
あなたは確かに、幼い頃この森に迷い込んだことがあった。
現実では「迷子だった」と言われていたが、記憶は曖昧だった。
思い出そうとすると、何かが遮る。
まるで“その出来事そのもの”が編集されているような違和感。
「君が逃げ出したとき、ぼくはずっと泣いてたんだ。
でも、叫んでも誰にも届かない。
だから、ここに残った。
君の“恐れ”として」
⸻
■“森に住むもの”の正体が変質する
これまで出会ってきた“住人たち”が、ふとした瞬間に重なり始める。
ノア、ミコ、老婆、空を漂う言葉たち――
彼らのセリフが、何重にも過去の記憶の声と重なっていた。
それは誰か他人の声のようでいて、あなた自身の“心の分裂体”のようでもあった。
「僕たちは、君が語らなかったバージョンの“人生”さ」
水面に浮かぶ少年の目が、わずかに歪む。
その背後で、複数の顔が仄暗く浮かび上がる。
「もしあの時、違う選択をしていたら――」
「もし、“怖くても進んでいたら”――」
「もし、誰かを傷つけることを恐れなかったら――」
それぞれの“可能性”が、人格を持って自立し、
あなたを責めるでも、救うでもなく、ただ存在していた。
⸻
■「この森は、お前が何を『棄てたか』で変わる」
ノアの声が脳裏に蘇る。
その意味が、今ようやく体に染み込んでくる。
森は、あなたが何を避け、見なかったことにし、忘れ、そして切り捨てたかを映す。
それは人間関係。愛。憎しみ。後悔。弱さ。夢。罪。
「お前が“成長”と呼んだものの中には、
たくさんの“棄てられたお前自身”がいたんだよ」
少年が囁く。
「でもね、気づいてほしい。
森は君を責めるためにあるんじゃない。
君が棄てた“僕ら”と、向き合いに来る場所なんだよ」
⸻
■あなたは言葉を選ぶ
「君は誰?」と問いかけようとして、あなたはやめる。
それは意味がないとわかった。
なぜなら少年は――
君でもあり、君ではない者の象徴だったから。
彼は最後にこう言った。
「“漆黒の森”が“あなたの心”だなんて、
そんなわかりやすい話、あるわけないじゃない」
そして、微笑んだ。
その笑みには、明確な意図の錯綜があった。
かつて“子どもだった自分”は、どこにいる?
彼はまだ、何かを待っているのか。
あるいは――
君を森に誘っているのは、“今も彷徨っている彼”なのかもしれない。




