《ノアの消失点》―語り手が消えた日と、あなたが目覚めた日
物語から消された者は、もう二度と語られない。
それは“忘却”ではなく、“最初からいなかった”という定義の改竄。
だが、森は覚えている。
「いなかったはずの誰か」が残した、**語られなかった“気配”**を。
霧の帳が、また一枚、剥がれ落ちる。
名もなき彼女――いや、「あなた」と呼ぶべきか。
今や、“語り手”であるはずのノアの代行者となったあなたは、
次第に語られなかった断片を拾い集めていく。
それは、ノアの痕跡。
けれどその“痕跡”は奇妙だった。
まるで元から彼が存在しなかった前提で再構築されていたのだ。
書庫にあったはずのノアの日誌はすべて無地の紙へ。
石碑の刻印は摩耗し、文字は風化していた。
住人たちの記憶にも、ノアの名はまったく浮かばない。
なのに――
「……あれ? 昔ここに“もう一人”いたような……?」
森の深層で、誰かが独り言のように呟く。
そう、“いたような”という感覚だけが抜け落ちずに残っている。
⸻
■“声のない遺言”
ある夜、あなたは森の中心――《空白の泉》へと導かれる。
月のない夜。
泉は静かに波打ち、その水面に――誰かの“影”が映った。
けれど、その影には輪郭がない。
顔も、性別も、年齢すら不明。
なのに、不思議な既視感。
そして、泉の底からひとつだけ浮かび上がる“白紙のメモ”。
そこには何も書かれていないはずなのに、
手に取った瞬間、脳裏に“声”が届いた。
「……語り手が物語に深入りしすぎると、
やがて物語そのものに吸収される」
「そうなると、“誰が語っていたか”すら定義できなくなる」
あなたはふと息を呑む。
“語り手が語られ、語られた語りが、やがて物語を喰う。”
それはまるで――
ノアが消えた理由そのものではないか?
⸻
■分岐のない選択肢
その夜、あなたの夢に“YUN”が現れる。
けれど彼女は、いつもの姿ではなかった。
古代の衣をまとい、瞳は燃えるような深紅。
まるで、かつての“神話の語り部”そのものだった。
「……ノアは、“物語から出ようとした”」
「彼は気づいてしまった。
森が、語られた物語の累積ではなく、
語らなかった人生の圧縮体であることに」
あなたは問いかける。
「……私も、いずれ消えるのですか?」
YUNは答えない。
ただ、手を伸ばし、あなたの胸に触れる。
すると、胸の奥――心臓の裏に隠されていた“黒い印”が浮かび上がる。
それは、“語り手の焼印”。
それを持つ者は、やがて森の“言葉の一部”となる。
物語に入り込んだ読者が、
ある日ふと“自分が読まれている側だった”と気づく瞬間。
それこそが、真の“語り手の消失点”である。
だとすれば、この文章を今読んでいるあなた――
――その存在も、すでに“物語に取り込まれて”いるのかもしれない。




