黒樹の門
目を閉じても、消えない影がある。
それは“忘却”の形をした記憶。
人はそれを封印と呼び、心の奥底に沈める。
だが封印されたものは、必ず“場所”を求める。
その場所が、「漆黒の森」だった。
雨が降っていたわけではない。だが、空気は濡れていた。
エイレンは、音のない霧の中を歩いていた。地図にはない道を、足だけが知っている。
「忘れるために、来たんだ。」
その言葉を、誰に言ったのか。自分なのか、娘なのか、それさえ定かでなかった。
目の前に現れたのは、黒い蔓に覆われた大樹だった。
中央には裂け目のような門が空いている。
——黒樹の門。
不思議なことに、門の向こうは夜だった。だが、外はまだ昼の名残を残していた。
彼が門をくぐった瞬間、世界の音がすべて裏返った。
足元に土が現れる。後ろを振り返ると、そこにはもう現実の世界はなかった。
「ようこそ、エイレン。」
少女の声がした。
赤い傘。白い服。黒い髪。年齢は10歳前後。だが、その瞳は彼よりもずっと多くを知っているようだった。
「ノア、と呼ばれてる。ここの案内人…ってわけじゃないけど。」
エイレンは問いかけた。「ここはどこだ?夢か?死後の世界か?」
ノアは少し微笑んで、こう答えた。
「ここはね、“まだ決まってない世界”。
あなたが忘れたこと、無かったことにした記憶、
そういうものが…形を変えて、存在してる場所。」
彼女は足元の土を踏むたびに、小さな光の粒を散らして歩いた。
その跡にだけ、道が生まれる。
「さ、エイレン。あなたの森に、入ろうか。」
エイレンはふと、自分の胸の奥が疼くのを感じた。
冷たい感触だった。まるで、心臓が“濡れている”ようだった。
忘れたいことは、
実はもっとも「記憶したがっている」ものなのかもしれない。
森の門をくぐった瞬間、エイレンはまだ気づいていなかった。
この森が、外界ではなく、内界の地図でできていることを。
さあ次は、記憶の中でもっとも影が濃い場所へ。
——次章『影と種子』にて、森が囁く。