第8話 「一人きりの乾杯」
三月最後の日、金曜日の夕暮れ時。『Bar 灯火』の扉が静かに開き、見慣れた女性客が一人、入ってきた。年は四十代後半だろうか。いつもきちんとした身なりで、仕事帰りに時折立ち寄る常連の一人だ。 「こんばんは、蓮さん」 落ち着いた声で挨拶し、彼女はカウンターの中ほどの席に腰を下ろした。 「こんばんは、佐伯さん」 蓮はグラスを差し出しながら、彼女の表情に普段とは違う、微かな翳りのようなものを感じ取った。だが、それは悲しみというよりは、むしろ静かな思索の色に近い。
「今宵は、キール・ロワイヤルになさいますか?」 彼女が注文する前に、蓮はそう尋ねた。以前、彼女がこのカクテルを「特別な気分になれるから好き」と話していたのを覚えていたからだ。 佐伯さんは少し驚いたように目を見開き、そしてすぐに柔らかな笑みを浮かべた。 「ええ、お願いするわ。よく覚えていてくださったわね」 その声には、素直な喜びが響いていた。
蓮は、冷えたフルートグラスにカシスリキュールを少量注ぎ、スパークリングワインをゆっくりと満たす。グラスの中で、鮮やかな赤色がゆらめきながら昇っていく様は、さながら小さな祝祭のようだ。 「どうぞ」 差し出されたグラスを、佐伯さんは美しい所作で受け取った。 「ありがとう。…美味しいわ」 一口含み、彼女はほう、と細く息をついた。そして、グラスのステムを指でゆっくりと撫でながら、独り言のように呟いた。
「今日はね、蓮さん…私たち夫婦の、結婚記念日だったのよ」 蓮は、ただ黙って頷いた。彼女が「だった」と過去形で言ったことにも、あえて触れない。 「昔はね、この日はお祝いだったの。ちょっと良いレストランを予約して、プレゼントを交換して…まあ、一通りね」 彼女は遠い目をして、懐かしむように言った。 「でも、人生って変わるものね。いつからかすれ違って…気がつけば、もう別々の道を歩んでいるから」 その口調は淡々としていて、悲壮感はない。まるで、過ぎ去った季節を語るかのようだ。 「だから、今日は一人でお祝い。…ううん、お祝いというより、けじめ、かしらね。過ぎた時間に感謝して、今日という一日に、静かに乾杯するのも悪くないかなって思って」
彼女は窓の外の暗がりに視線を移した。 「一人でいるのは、寂しいことばかりじゃないのよ。仕事にも集中できるし、誰に気兼ねすることなく自分のためだけに時間を使える。…もちろん、時々は、ね。ふと、昔のことを思い出したりもするけれど。でも、全体としては、悪くないわ」 それは、強がりではなく、静かな確信に満ちた言葉に聞こえた。孤独ではなく、自立した個としての時間を選び取っている、というような。
「時間は、多くのことの形を変えますね」 蓮が静かに言うと、佐伯さんは頷いた。 「本当にそうね。人も、関係も、そして自分自身も。変わらないものなんて、ないのかもしれない」 彼女は再びグラスに目を落とし、立ち上る泡を見つめた。 「でも、それでいいのかもしれないわね。過ぎた時間に、そして、これから来る時間に…」 彼女はそう言って、グラスを胸の高さまでそっと持ち上げた。誰に見せるでもない、自分自身への、静かで厳かな乾杯だった。
キール・ロワイヤルをゆっくりと味わい終えると、彼女は席を立った。その表情は、店に入ってきた時よりも、どこか晴れやかで、凛として見えた。 「ありがとう、蓮さん。美味しいキール・ロワイヤルと…覚えていてくれたこと、とても嬉しかったわ」 「恐れ入ります」 「また寄らせていただくわね」 そう言い残し、彼女はしなやかな足取りで店を出ていった。金曜の夜の賑わいが、少しずつ始まろうとしている街の中へ。
蓮は、彼女が座っていた席に残された、美しいフルートグラスを見つめた。鮮やかなカシスの赤も、立ち上っていた泡も、今はもうない。けれど、そこには確かに、一人の女性が自分の人生と静かに対峙し、受け入れた時間の証が残っているように感じられた。 記念日の形は変わっても、流れる時間の中で人は確かに生きていく。蓮は、その静かな強さに思いを馳せながら、丁寧にグラスを洗い始めた。