第7話 「嘘つきのスプモーニ」
四月も半ばを過ぎた木曜日の夜。窓の外は、春の夜を静かに濡らす雨が降り続いていた。『Bar 灯火』の中は、カウンターに数人の客がいるだけで、雨音だけがBGMのように低く響いている。
九時を少し回った頃、コートについた雨粒を払いながら、一人の男性客が入ってきた。年は三十代前半だろうか。少し疲れたような、何か思い詰めたような表情をしている。 「いらっしゃいませ」 蓮が声をかけると、男性は曖昧に頷き、カウンターの端に近い席に腰を下ろした。 「…スプモーニ、いただけますか」 メニューも見ずに、彼はそう注文した。
蓮は、イタリアのビターリキュールであるカンパリ、グレープフルーツジュース、そしてトニックウォーターを用意する。鮮やかな赤色が美しい、ほろ苦さと爽やかさが同居するカクテルだ。氷を入れたグラスに材料を注ぎ、軽くステアして、ライムを添えて彼の前に差し出した。 「どうぞ、スプモーニです」 男性はグラスを受け取ると、すぐに一口、大きく飲んだ。 「…うーん。今日のカンパリは、やけに苦く感じますね」 彼は顔をしかめながら言った。 「左様でございますか」 蓮は静かに返す。 「いや、こっちの問題か。…自分自身が、苦いのかもしれません」 男性は自嘲気味に呟き、グラスの表面についた水滴を指でなぞった。その指先が、わずかに落ち着きなく動いている。
雨音が響く中、しばらく沈黙が続いた。やがて、男性が意を決したように口を開いた。 「…嘘、ついちゃったんですよね」 その声は、懺悔の響きを帯びていた。 「たいしたことじゃないんです、最初は。恋人が、俺のために一生懸命選んでくれたプレゼントがあって…正直、全然好みじゃなかったんだけど、がっかりさせたくなくて、『すごく嬉しい、欲しかったやつだ』って言っちゃったんです。…優しい嘘、のつもりでした」 彼はスプモーニをまた一口飲んだ。グラスの中の赤い液体が揺れる。 「でも、それが始まりで。そのプレゼントに関連して、また小さな嘘をつかなきゃいけなくなって。あいつは、俺がそれを気に入ってると思い込んでるから、色々と計画してくれたりして…。もう、引くに引けなくなってしまった」 彼は深いため息をついた。 「嘘をついてること自体が、すごく苦しい。あいつに対して不誠実だって分かってる。でも、今更『実はあの時…』なんて本当のことを言ったら、もっと傷つけるんじゃないか、関係が壊れてしまうんじゃないかって思うと…」 言葉が詰まる。どうすればいいのか分からない、という混乱が彼の表情に浮かんでいた。 「最初は、相手のためだったはずなのに。いつの間にか、自分が傷つきたくないだけなのかもしれない…」
蓮は、カウンターを磨く手を止めずに、静かに彼の言葉を聞いていた。相槌を打つでもなく、ただそこにいる。その沈黙が、男性にはかえって話しやすかったのかもしれない。 一通り話し終えた男性が、俯いてグラスを見つめている。蓮は、ゆっくりと口を開いた。 「…本当のことが知られた時、何を一番恐れていらっしゃいますか?」
その問いに、男性は顔を上げた。驚いたような、そして何かを探るような目で蓮を見る。 「…一番、怖いこと…」 彼は繰り返した。そして、しばらく考え込んだ後、ぽつりと言った。 「…がっかり、されることかな。幻滅されること。それから…嘘をついてたこと自体に、怒られることかもしれない。…信用を、なくすこと…ですね」 自分の心の奥底にある恐れを言葉にしたことで、彼は少しだけ自分の状況を客観的に見つめられたようだった。 「…結局、自分が可愛いだけなのかもな…」 彼は力なく笑い、スプモーニの最後のひと口を飲んだ。カンパリの苦味が、口の中に広がった。
「…ありがとうございます。聞いてもらって、少し…頭が整理できた気がします」 まだ表情は晴れないが、店に来た時よりは少しだけ落ち着いて見えた。 「恐れ入ります」 「人生とは、まま、そういうものかもしれませんね」 蓮は静かに言った。簡単な答えなどないことを、二人とも分かっていた。
会計を済ませ、男性は「お騒がせしました」と小さく呟き、再び雨の降る夜へと出ていった。彼の嘘が、これからどうなるのか。それは誰にも分からない。
蓮は、鮮やかな赤色が残る空のグラスを手に取った。ほろ苦くて、少し甘酸っぱい。嘘と真実、優しさと欺瞞。それらが複雑に混じり合った、人間の心の味によく似ている、と蓮は思った。 外ではまだ、静かな雨が降り続いていた。