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第6話 「旅人の一夜」

日曜日の夜八時過ぎ。週の始まりを前に、街全体が静けさを取り戻しつつある時間帯だった。『Bar 灯火』のカウンターにも、まばらに客がいるだけだ。春の心地よい宵闇が、窓の外に広がっている。




そんな中、扉がゆっくりと開いた。入口でためらうように立ち止まったのは、大きなバックパックを背負った外国人男性だった。年は三十代半ばだろうか。少し疲れた表情で辺りを見回し、カウンターで静かにグラスを拭いている蓮と目が合うと、安堵したように小さく息をついた。




「いらっしゃいませ。…Welcome」 蓮が声をかけると、男性は少し驚いたように、そして嬉しそうに微笑んだ。 「こんばんは。…Good evening. Is it okay? One person?」 片言の日本語と、辿々しい英語が混じる。 「Of course. Please, have a seat.」 蓮がカウンター席を指し示すと、男性は「アリガトウ」と言いながらバックパックを床に置き、スツールに腰を下ろした。


「何かお飲みになりますか? Would you like something to drink?」 蓮がメニューを差し出すと、男性はそれを興味深そうに眺めた。 「うーん… Japanese whisky? Or… something special? Here, Hiroshima?」 彼は蓮に尋ねた。 「でしたら、瀬戸内産のレモンを使ったカクテルはいかがでしょう。広島のウォッカをベースにお作りしますが。Would you like a cocktail using local Setouchi lemon? Based on Hiroshima vodka.」 「Oh, lemon! Sounds good. Please.」 男性はにこやかに頷いた。




蓮は、地元産のクラフトウォッカと、フレッシュな瀬戸内レモンをたっぷりと使い、隠し味に少しだけ蜂蜜を加えたカクテルを作った。「ヒロシマ・レモンドロップ」とでも呼ぶべき一杯だ。 「どうぞ。Please enjoy.」 差し出されたカクテルを、男性は興味深そうに眺め、そしてゆっくりと口にした。 「Wow…! This lemon… so fresh! すごく、美味しい!」 彼は感嘆の声を上げた。その素直な反応に、蓮も思わず笑みがこぼれる。


「広島には、観光で? Are you enjoying Hiroshima?」 蓮が尋ねると、男性は頷いた。 「Yes. Peace Park… and Museum. それから、宮島。…It was beautiful. And… とても、心が動きました」 彼は言葉を選びながら、旅の感想を語り始めた。訪れた場所の美しさ、歴史の重み。そして、一人旅ならではの感覚。 「一人で旅をしていると、時々… a bit lonely? 言葉も、難しいし…」 彼は少し寂しげに笑った。素晴らしい景色や体験をしても、それを分かち合う相手がいない時、ふと孤独を感じるのだという。 「でも、こういう静かな場所を見つけられると、嬉しいですね。This place… very calm. Peaceful.」 彼は店内を見回し、心からそう言った。




蓮は、彼の言葉に静かに耳を傾けていた。流暢な英語ではないかもしれないが、彼の表情や声のトーンから、その想いは十分に伝わってくる。言葉が完璧に通じなくても、共有できる感覚はある。蓮は、地元の小さな菓子店で作っているレモンピールを添えた小皿を、そっと彼の前に差し出した。 「宜しければ、どうぞ。Made with local lemon, too.」 「Oh, アリガトウ!」 男性は嬉しそうにそれをつまみ、カクテルとの相性を楽しんでいるようだった。




しばらくして、彼はスマートフォンの画面を蓮に見せた。そこに映っていたのは、雪を頂いた美しい山の写真だった。 「My home. スイスです」 「…綺麗なところですね」 蓮が言うと、彼は誇らしげに頷いた。故郷を離れて遠い地を旅する彼の心に去来するものを思いながら、蓮はその写真に見入った。




カクテルを飲み終えると、男性は名残惜しそうに席を立った。 「Thank you. とても、良かったです。元気が出ました」 彼は満面の笑みで言った。店に入ってきた時の疲れた表情は、もうない。 「こちらこそ。ありがとうございます。どうぞ、良い旅を。Please have a safe trip.」 蓮がそう言うと、彼は深く頷き、「アリガトウゴザイマス!」と、今度ははっきりとした日本語で言い残し、店を出ていった。




扉が閉まると、店内にはまたいつもの静寂が戻ってきた。カウンターに残されたグラスからは、まだ爽やかなレモンの香りが漂っている。遠い国からやってきた旅人が、この場所で束の間の安らぎを見つけてくれたのなら嬉しい。そんなことを思いながら、蓮は丁寧にグラスを洗い始めた。国境や言葉を超えて、一杯のカクテルが繋ぐことのできる、ささやかな何かを信じながら。

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