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第5話 「グラス越しの光景」

四月も二週目に入った火曜日の夜。桜は満開を過ぎ、時折吹く夜風に花びらがはらはらと舞っていた。『Bar 灯火』の扉が開いた瞬間にも、一枚の薄紅色の花びらがひらりと店内に迷い込んできた。


入ってきたのは、三十代後半と思しき男性だった。落ち着いた色合いのジャケットを着て、肩には少し大きめのカメラバッグをかけている。彼は店内をゆっくりと見回し、カウンターの中ほど、ボトル棚の反射が美しく映り込む席を選んだ。 「いらっしゃいませ」 蓮が声をかけると、男性は静かに頷き、「ジン・リッキーをいただけますか」と注文した。




ライムを搾り、ジンとソーダを注いだシンプルなカクテル。蓮が差し出すと、男性はグラスを手に取り、しばらくの間、その透明な液体と立ち上る気泡をじっと見つめていた。そして、おもむろにジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、テーブルに肘をついて、慎重な手つきでグラスの写真を数枚撮り始めた。他の客に配慮してか、シャッター音は消されている。


蓮はその様子を黙って見ていた。写真を撮り終えた男性は、少し照れたように蓮に会釈した。 「すみません、つい。…職業病みたいなもので」 「…写真家の方でいらっしゃいますか」 蓮が静かに尋ねると、男性は頷いた。 「ええ、まあ、一応…。ですが、最近はどうもスランプで」 彼はジン・リッキーを一口飲み、自嘲気味に続けた。 「面白いものが、何も見つからない。何を見ても、心が動かないんです。ファインダーを覗いても、ただ平板な景色が広がっているだけで…」 その声には、深い疲労と焦りの色が滲んでいた。 「仕事の依頼はあるのですが、型にはまったものしか撮れない。自分の『目』が、曇ってしまったような気がして…」




蓮は、黙って彼の言葉に耳を傾けていた。カウンターの内側で、別のグラスを丁寧に磨きながら。 男性は、そんな蓮の手元に目を留めた。 「バーテンダーさんも、丁寧な仕事をされますね」 ふと、彼が言った。 「グラスの磨き方一つにも、無駄がない。光の角度まで計算されているかのようだ…。ボトルの配置にも、何か…構図のようなものを感じます」 プロの視点からの、鋭い観察だった。 「恐れ入ります。整理整頓を心がけているだけですよ」 蓮は謙遜したが、磨いていたグラスを光にかざしながら、少しだけ言葉を続けた。 「でも、磨き上げたばかりのグラスに、こうして光が宿る瞬間は…悪くないなと思います。このジン・リッキーも、光の当たり方で、気泡の輝きやライムの色合いが、刻々と表情を変えますからね」


その言葉に、男性ははっとしたように自分のグラスを見つめた。そして、もう一度スマートフォンを構え、先ほどとは違う角度から、ゆっくりとシャッターを切った。今度は、何かを確かめるような、真剣な眼差しで。 「…そうか。光、か…」 彼は小さく呟いた。 「特別な被写体ばかりを探して、焦っていたのかもしれない…。もっと、身近なところに、目を向けるべきなのかも…」


その後の彼は、何か吹っ切れたというよりは、静かに考え事をしている様子だった。ジン・リッキーをゆっくりと味わいながら、時折カウンターの木目や、ボトル棚のガラスに映る光を眺めている。




やがて彼はグラスを空け、席を立った。 「ありがとう。…美味い酒と、それから…光を」 彼は少しだけ口角を上げ、蓮にそう言った。その表情は、店に来た時よりも幾分か和らいで見えた。 「恐れ入ります」 蓮は静かに頭を下げた。




カメラバッグを肩にかけ直し、男性は店を出ていった。扉が閉まる瞬間、また数枚の花びらが風と共に舞い込んだ。 蓮は、男性が座っていた席に残されたコースターの上に、グラスの輪郭が水の跡となって残っているのを見つめた。そして、そのグラスを手に取る。透明なガラス越しに見えるバーの光景は、いつもと同じはずなのに、先ほどの男性の言葉の後では、少しだけ違って見えたような気がした。 光と影、そしてその中に映るもの。蓮は、磨き上げたグラスに映る自分の姿を静かに見つめながら、ゆっくりと次の準備を始めた。

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