第4話 「ささやかな祝杯」
四月に入り、夜風も心なしか温かい。水曜日の七時過ぎ、『Bar 灯火』の扉が勢いよく開き、一人の女性が入ってきた。年齢は四十代後半だろうか。少し息を切らせているが、その表情は晴れやかで、目元には隠しきれない喜びがきらめいている。
「こんばんは!」 明るい声が店内に響く。彼女は迷うことなくカウンター席に着くと、鞄の中から小さなタオルを取り出して額の汗を軽く拭った。 「いらっしゃいませ」 蓮がグラスにお冷やを注いで差し出すと、彼女は「ありがとう」と嬉しそうに受け取った。 「何か、お祝いできるような飲み物、ありますか?シャンパンとか、何かシュワっとするもの!」 メニューを開く前に、彼女は期待に満ちた目で蓮に尋ねた。その様子から、何か特別なことがあったのだとすぐに察せられた。
「シャンパンでしたら、グラスでご用意できますが」 「それにします!お願いします!」 彼女は即答した。蓮は頷き、冷えたボトルを取り出す。コルクが軽やかな音を立てて抜けると、細かな泡が立ち上る美しい液体を、フルートグラスに丁寧に注いだ。
「どうぞ」 「わあ、ありがとう!…じゃあ、私に、乾杯!」 彼女は嬉しそうにグラスを掲げ、一口飲んだ。喉を通る冷たい刺激に、満足そうに息をつく。 「実はね、今日、どうしても祝杯をあげたかったんです」 彼女は少し興奮した面持ちで、蓮に語りかけた。 「先週末、初めてフルマラソンを完走したんですよ!」 そう言って、彼女は鞄から少しよれた完走メダルを取り出して見せた。決して立派なものではないが、彼女にとっては宝物なのだろう。
「それは…素晴らしい。おめでとうございます」 蓮が静かに祝福の言葉を述べると、彼女は照れたように笑った。 「ありがとうございます。もう、大変だったんですよ!練習始めたのは一年前。最初は5キロ走るのもやっとで。早朝に起きて走って、仕事行って、帰ってきて…。何度も心が折れそうになりました」 彼女はシャンパンを飲みながら、これまでの道のりを語り始めた。雨の日の練習、膝の痛み、伸び悩むタイム。それでも、少しずつ走れる距離が伸びていく喜びが、彼女を支えたのだという。 「当日は天気も良くて。でも、30キロ過ぎたら本当に足が動かなくなっちゃって…。もうダメかと思ったけど、沿道の応援とか、一緒に走ってる人たちの姿を見てたら、不思議と力が湧いてきて」 彼女はゴールした瞬間のことを思い出したのか、目を細めた。 「タイムは全然、自慢できるようなものじゃないんですけどね。でも、自分の足で42.195キロを走りきったっていうのが…なんだか、すごく嬉しくて」
蓮は、彼女の話に静かに耳を傾けていた。タイムや順位ではない、彼女自身が成し遂げたことへの純粋な喜びが、ひしひしと伝わってくる。 「大変なご努力でしたね。ゴールされた瞬間は、格別だったでしょう」 蓮がそう言うと、彼女は深く頷いた。 「ええ、本当に。…なんていうか、大袈裟かもしれないけど、ちょっとだけ自分が変われたような気がして」
彼女はグラスに残ったシャンパンをゆっくりと飲み干した。 「正直ね、周りの人は『へえ、すごいね』くらいのもので、そんなに興味ないと思うんです。これは、完全に私の自己満足。でも…それでも、自分にとっては、すごく大きな出来事で」 そう言って、彼女は少しはにかんだ。 「ご自身のためだけに成し遂げたことは、特別な重みがありますね」 蓮の言葉に、彼女は深く頷いた。 「ええ、本当にそう思います」 その表情は、店に来た時よりもさらにすっきりとして、自信に満ちているように見えた。
「美味しかった。ごちそうさま」 彼女は満足そうに呟き、会計を済ませた。 「素敵な祝杯になりました。聞いてくださって、ありがとう」 「とんでもございません。こちらこそ」 立ち上がり、軽く脚をさすりながら「まだちょっと筋肉痛が…」と苦笑いして、彼女は店を出ていった。その足取りは、疲労の中にも確かな達成感を滲ませて、軽やかに見えた。
蓮は、カウンターに残された空のフルートグラスを手に取った。微かに残る甘い香りと、立ち上っては消えた無数の泡。ささやかだけれど、確かな輝きを放っていた祝杯の余韻を感じながら、蓮は丁寧にそのグラスを洗い始めた。