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第3話 「彼女のフランボワーズ・フィズ、彼のジン・トニック」

三月最後の金曜日。桜の蕾も膨らみ始め、街には週末を前にした華やいだ空気が漂っていた。『Bar 灯火』にも、いつもより少しだけ客の入りが早い。それでも、大声で騒ぐ者はなく、それぞれがグラスを片手に静かな時間を楽しんでいた。




八時過ぎ、軽やかな音を立てて扉が開き、若い男女が入ってきた。女性の方は明るい色の春物のコートを着て、好奇心旺盛といった様子で店内を見回している。対照的に、男性の方は少し疲れた表情で、口数少なく彼女の後ろについてくる。


「わあ、素敵な雰囲気!ねえ、カウンターに座ろうよ」 女性が隣の男性の腕を取り、蓮の目の前の席に腰を下ろした。男性も、促されるままに隣のスツールに座る。 「いらっしゃいませ」 蓮が静かに声をかけると、女性の方が満面の笑みで応えた。 「こんばんは!おすすめとか、ありますか?」 「そうですね…何かお好みはございますか?」 「んー、甘すぎなくて、ちょっと可愛いのがいいな!春っぽい感じの」 彼女はメニューを見ながら楽しそうだ。一方、男性はメニューにちらりと目をやっただけで、「…じゃあ、俺はジン・トニックで」と短く告げた。 「えー、せっかくだからお揃いにしない?何か、こう、ペア!みたいな」 女性が男性の顔を覗き込む。 「いや、いいよ。今日はそういう気分じゃないから」 男性は、ややぶっきらぼうに答え、視線をカウンターの上に落とした。女性は少しだけ不満そうな顔をしたが、すぐに気を取り直して蓮に向き直った。 「じゃあ、私にはさっき言った感じで、何かお任せしてもいいですか?」 「かしこまりました」




蓮は、彼女のためにフランボワーズのリキュールとグレープフルーツを使った、淡いピンク色のフィズ・スタイルのカクテルを。彼のためには、キレのあるドライ・ジンを使い、ライムを効かせたシンプルなジン・トニックを用意した。並べてカウンターに置くと、二つのグラスは色も形も対照的だったが、それぞれの持ち主にどこか似合っているように見えた。


「わあ、可愛い!ありがとうございます」 彼女は嬉しそうにグラスを受け取り、スマートフォンで写真を撮っている。彼は自分のジン・トニックを黙って一口飲んだ。




しばらく、他愛のない会話が続いていたが、やがて彼女が本題に入ったようだった。 「ねえ、この前見たお部屋、やっぱり良かったよね?あそこにしちゃわない?」 声のトーンが少し上がる。 「…まあ、悪くはなかったけど」 彼の返事は、どこか歯切れが悪い。 「日当たりも良かったし、駅からも近いし!それに、ペット可だったんだよ?ずっと言ってたでしょ、猫飼いたいって!」 「猫か…。まあ、世話とか大変だろ」 「二人でなら大丈夫だよ!一緒に家具とか見に行くのも楽しみだなあ。どんなカーテンにする?」 彼女の言葉は弾んでいるが、彼の表情は硬いままだった。 「…まだ、決まったわけじゃないだろ。もう少し、考えさせてくれ」 「え、なんで?あんなに良い物件、すぐなくなっちゃうよ?それに、一緒に住むって、決めたんじゃなかったの…?」 彼女の声に、不安の色が混じり始める。彼は答えず、ジン・トニックの氷を指で弄んでいた。


気まずい沈黙が流れる。彼女は助けを求めるように、蓮に笑顔を向けた。 「あの、私たち、一緒に住むお部屋を探してるんです!楽しみですよね?」 「…左様でございますか。新しい生活、楽しみですね」 蓮は当たり障りのない返事を返し、静かにグラスを磨き始めた。これ以上、踏み込むべきではない。男性は、蓮と彼女のやり取りを、居心地悪そうに聞いていた。




その後の二人の会話は、さらにぎこちなくなった。彼女の明るさは影を潜め、彼もほとんど口を開かない。最初に店に入ってきた時の華やいだ空気は、すっかり消え失せていた。




やがて、彼女が「そろそろ行こっか」と切り出した。 会計を済ませ、二人は並んで席を立つ。どちらからともなく手を繋ぐでもなく、微妙な距離を保ったまま。 「ごちそうさまでした」 彼女の最後の挨拶は、店に来た時とは違う、少し沈んだ声色だった。


扉が閉まり、二人の気配が遠ざかる。蓮は、カウンターに残された二つのグラスを見つめた。鮮やかなピンク色のフランボワーズ・フィズと、無色透明のジン・トニック。並んでいながら、決して交わることのない二つの色が、まるで彼らの心の距離を表しているかのようだった。




春の夜風は、まだ少し肌寒い。あの二人は、この後ちゃんと話ができるのだろうか。そんなことを考えながら、蓮は一つずつ、丁寧にグラスを洗い始めた。それぞれのグラスに残った、甘酸っぱい香りと、シャープな苦味が、鼻先をかすめた。

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