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第2話 「出されなかった手紙」

夜が更け、壁の時計の針が九時を回った頃だった。『Bar 灯火』のカウンターには、既に三人の客がそれぞれの時間を過ごしていた。ノートパソコンを開く男性、文庫本に目を落とす女性、そして、カウンターの隅で静かにグラスを傾ける初老の男性。


月島蓮は、その初老の男性に注意を向けていた。店に入ってきたのは三十分ほど前。くたびれてはいるが良い仕立てのコートを脱ぎ、カウンターの隅に腰を下ろすと、彼は銘柄を指定してジャパニーズ・ウイスキーのシングルモルトをストレートで注文した。それ以来、時折グラスをゆっくりと口に運ぶ以外は、ほとんど動かずに窓の外の暗闇か、手元のグラスを見つめている。どこか遠い場所に想いを馳せているような、物憂げな表情だった。




しばらくして、男性がふと内ポケットに手を入れた。取り出したのは、少し黄ばんだ封筒。彼はそれをテーブルの上に置くでもなく、指先でそっと撫でるように触れると、何かを確かめるように小さく頷き、またすぐにポケットへ戻した。その一連の仕草はあまりに自然で、他の客が気づいた様子はない。だが、蓮の目には留まっていた。


「…ウイスキーを飲んでいると、昔のことを考えますな」 不意に、男性が呟いた。蓮がちょうど彼の空いたグラスにミネラルウォーターを注ごうとしたタイミングだった。 「左様でございますか」 蓮は静かに相槌を打つ。 「ええ。特に、悔やまれること…ですかね」 男性は自嘲するように小さく笑い、ウイスキーの残りをゆっくりと飲み干した。 「おかわり、お持ちしますか?」 「ええ、お願いします」




新しいウイスキーが琥珀色の輝きを取り戻すと、男性は再び口を開いた。 「実は…手紙を書きましてな」 やはり、あの封筒のことらしい。 「大事な人に宛てて。ずっと、書こうと思っては書けずにいた手紙です」 彼は言葉を探すように、わずかに間を置いた。 「だが、いざ書き上げてみると…今度は、出すのが怖い」 グラスを持つ指が、微かに震えている。 「今更、届いたところで相手を困らせるだけかもしれん。あるいは、もう私のことなど忘れているか、憎んでいるかもしれん…。そう思うと、この一通が、とてつもなく重いものに感じられて」


蓮は黙って耳を傾けている。カウンターを磨く布巾の動きだけが、静かな空間に微かなリズムを刻んでいた。


「若い頃は、もっと素直だった。思ったことをすぐに口に出し、時にはそれで人を傷つけもした。…この手紙の相手とも、そうやって…些細な行き違いから、大きな溝ができてしまった。もう何年も、会っておりません」 後悔の念が、彼の声色を重くする。 「もっと、違う言葉があったはずなのに。もっと、伝えるべき想いがあったはずなのに…。時間は、戻せませんな」




深い溜息が、静寂に落ちる。蓮は、磨いていたグラスを置くと、男性の目を見て静かに問いかけた。 「…その方との、楽しい思い出も、おありだったのでしょう?」


男性は虚を突かれたように目を瞬かせた。そして、ゆっくりと視線をグラスに落とし、記憶の糸を手繰るように、かすかに口元を緩ませた。 「…ああ。ありましたな。あいつは、よく笑うやつで…。私が仕事で初めて大きな契約を取った時、自分のことのように喜んでくれた。不器用な手つきで、ささやかな祝いの席を設けてくれたりもして…」 そこまで言うと、彼はふっと言葉を切り、再び寂しげな表情に戻った。 「…そうでしたな。そんな良い時間も、確かに…あった」


温かい記憶の欠片が、後悔の色に沈んでいた彼の心に、ほんの少しだけ違う光を差したように見えた。




それからしばらく、男性は黙ってウイスキーを味わっていた。先ほどまでの張り詰めた空気が、少しだけ和らいだように感じられる。 やがて彼は席を立ち、コートを羽織った。 「…ありがとう。良い酒と、静かな時間を」 その声は、店に来た時よりも穏やかに響いた。 「恐れ入ります」 蓮は深く頭を下げた。




男性は会計を済ませると、ポケットの封筒に一度だけそっと触れ、そして、何も言わずに店を出ていった。彼が手紙を出すのか、出さないのか、それは蓮には分からない。


客が一人去ったカウンターで、蓮は空になったウイスキーグラスを手に取った。グラスの底には、まだ芳醇な香りが残っている。過去の重みと、微かな温もり。その両方を抱えたまま夜の街へ帰っていった客の後ろ姿を思い浮かべながら、蓮は静かにグラスを洗い始めた。 『灯火』の夜は、まだ始まったばかりだ。

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