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第1話 「最初のカクテル、最後の言葉」

火曜日の夜にしては、カウンターはまだ空席が目立っていた。三月の広島市内は、就職活動の本格化を告げるように、真新しいスーツ姿の若者たちが足早に行き交う季節だ。


『Bar 灯火』の扉が、ためらうように少しだけ開いた。覗き込むようにして現れたのは、まさにそんなスーツを着た若い女性だった。店内の落ち着いた照明に目が慣れないのか、少し眩しそうに瞬きをしている。




「いらっしゃいませ」 月島蓮は、グラスを磨く手を止め、穏やかな声をかけた。 「あの、一人でも、大丈夫ですか…?」 不安げな声が、静かな店内に小さく響く。 「ええ、どうぞ。カウンターへ」 蓮が促すと、彼女は恐縮したように頷き、一番手前のスツールに浅く腰掛けた。手には、使い古されたクリアファイルが数枚入った、就職活動用の鞄が握られている。


「何か、お作りしましょうか」 メニューを差し出す蓮に、彼女は困ったように眉を寄せた。 「すみません、こういうお店、初めてで…。あの、お酒じゃなくて、何か…さっぱりするようなもの、ありますか?」 「かしこまりました」 蓮は彼女の緊張した面持ち、わずかに疲労の色が浮かぶ目元を認めると、静かに頷いた。




シェイカーを振る音ではなく、グラスの中で氷が軽やかに触れ合う音だけが響く。蓮が差し出したのは、淡い黄金色の液体に、櫛形に切られた広島県産のレモンが添えられたシンプルなグラスだった。 「どうぞ。レモンと、少しだけ蜂蜜を入れた冷たいハーブティーです」 「わあ…綺麗…」 彼女は小さく息を呑み、グラスをそっと持ち上げた。一口含むと、強張っていた肩の力が少し抜けたように見えた。


「…美味しい、です。なんだか、落ち着きますね、ここ」 「それは良かった」 蓮はカウンターの内側で、静かにグラスを拭き始めた。無理に会話を促すことはしない。




しばらくして、彼女がぽつりと呟いた。 「今日、最終面接だったんです。…また、ダメでした」 声が、震えている。 「手応え、あったと思ったんですけど…。もう、何が悪いのかも分からなくて」 次々と溢れ出す言葉は、誰に聞かせるでもない独り言のようだった。 「周りの子は、どんどん内定もらってるのに、私だけ…。才能ないのかな。何にも向いてないのかも…」 俯いた彼女の目に、涙が滲んでいるのが見えた。クリアファイルを持つ手に、ぐっと力が入る。


蓮は手を止め、静かに言った。 「…とても、頑張っていらっしゃるんですね」 それは、慰めでも励ましでもなく、ただ事実を認める言葉だった。 彼女は顔を上げ、驚いたように蓮を見た。その目には、堰を切ったように涙が浮かんでいたが、不思議と、それは絶望の色だけではなかった。


涙をそっと指で拭うと、彼女は残りのハーブティーをゆっくりと飲み干した。 「…そう、ですね。私、頑張ってる、のかも」 ふっと、初めて微かに笑ったように見えた。




会計を済ませ、彼女は鞄を持ち直して立ち上がった。 「ごちそうさまでした。美味しかったです」 「ありがとうございます」 扉に向かい、数歩歩いて立ち止まる。そして、振り返ると、まだ少し潤んだ目で、けれど先ほどよりもしっかりとした声で言った。


「もう少し、頑張ってみます」


そして、今度は迷いなく扉を開け、夜の街へと消えていった。 蓮は彼女が見えなくなるまで静かに見送ると、空になったグラスを手に取った。まだ微かにレモンの香りが残っている。カウンターの向こう側で繰り広げられた、短いけれど切実な時間に思いを馳せながら、蓮は丁寧にそのグラスを洗い始めた。また、いつもの静かな夜が更けていく。

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