過去:少年の悪夢
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ノーレの家で幼馴染のウィルの面倒を見ることになったのは彼女らが九歳の時、基礎的な魔法を練習して魔力の扱い方を覚え始めた時期である。
ウィルがノーレの家に来たのにはもちろん理由がある。
家族が亡くなったのだ。
その日は、普段ならウィルを起こしに来てくれるはずの母がいつまでたっても来なかった。
たっぷり寝坊をした後に家の中を探したウィルが見つけたのは、ベッドの上で丸まり、苦しげな表情をしながら息絶えている母の姿だった。
ウィルの父親はずっと前に魔物に殺されている。
村の人々はウィルに優しかったし、よく面倒も見ていたから、ウィルがそれに関して寂しさを感じたことはほとんどなかった。
それでも、ウィルにとって母親はただ一人の家族だ。
そして、その母が亡くなった今、九歳の少年が一人で暮らすことはできなかった。
ノーレはウィルの幼馴染である。
当然お互いの家はしょっちゅう行き来しており、ウィルにとって自宅の次に馴染みのある家だった。
更に、ノーレの家は宿屋である。
それも、客があまり来ない宿屋である。
部屋を一つウィル専用にしても問題がないくらいに。
そのような理由でウィルはノーレの家で暮らすことになったのである。
ノーレには最近できた夜の習慣がある。
九歳の少年少女が眠る時間に合わせてウィルの部屋に行くことだ。
扉の前に立つと、部屋の中からはすすり泣く声が聞こえてくる。
ウィルがノーレの家に来てから、おそらく毎晩だ。
その泣き声に気づいた日から、ノーレはウィルの部屋の戸を叩くことにしていた。
今夜も戸を叩くと小さな声で返事があった。
それを聞いてからノーレは部屋に入る。
明かりは付けない。
きっとウィルは泣き顔を幼馴染の女の子には見られたくないだろうから。
部屋に入るとウィルはいつも頭まで布団をかぶって丸まっている。
小さく小さく丸まって、暗闇が去るのを待っているのだ。
「ねぇウィル、今夜も一緒に寝て良い?」
「……まだ怖い本読み終わらないの?」
「うん。とっても分厚くて、とっても怖い本なの。だから私、しばらくは一人で寝られないの」
ウィルはもそもそと動きベッドを半分開ける。
ノーレは礼を言ってそこに寝転んだ。
ウィルも気づいている。
怖い本を読んでしまったから一緒に寝てほしいだなんてものはただの口実であることに。
わかっていてなお、その優しさにウィルは甘えていた。
大人用のベッドは子どもが二人寝ても十分な広さがあった。
一つの掛布団を二人で被ると、ノーレはそっとウィルの手を握る。
そうするとウィルが少しだけ安心することに気づいたからだ。
「おやすみ、ウィル」
「おやすみ、ノーレ」
ウィルはなかなか寝付かない。
それでもノーレが横にいる間は涙を流すことなく横になっていることができた。
数時間後、ようやく眠りに落ちたウィルはうなされ始める。
眉をしかめ、ノーレと繋がっている手には力が入り、呼吸が荒くなる。
そして、ついに声をあげながら飛び起きた。
荒い息をしながら隣で眠るノーレを見る。
そして穏やかな寝息をたてていることを確認して、再び寝付けない数時間を過ごすのだ。
ウィルが再びベッドに横たわって目を閉じた後、ノーレはうっすらと目を開ける。
隣で人が飛び起きたのだ。
当然ノーレの目も覚めている。
先ほどのは狸寝入りである。
ノーレは思う。
一人だと眠れないどころか、黙って横になっていることもできないくせに。
もっと素直に甘えれば良いのに。
――お母さん、苦しそうな顔してた。もしかして、もしかして僕が、僕がお母さんの、苦しそうな声に気づいていたら、気づいて、ちゃんと起きて、誰かに助けてって言えていたら――
ウィルがそう村の神父に泣きながら訴えていたところをノーレは聞いてしまった。
ウィルはきっと眠るのが怖いのだ。
眠っている間に、大切な人が死んでしまうのが怖いのだ。
だったら、そばにいてほしいと言えばいいのに。
そうノーレは思っている。
きっと隣で寝ていれば何かあっても気づくし、他の部屋で寝ている人のことも、二人でいればきっとどちらかが気づく。
少なくともウィルだけのせいではなくなるのに。
その一方で、ノーレはこうも思うのだ。
ウィルはお母さんによく甘えていた。
それなのに、お母さんがいなくなってすぐに他の人に甘えるのは、まるでお母さんの代わりを見つけているみたいで、なんだか、嫌かもしれない。
ノーレは年齢よりも聡い子どもだった。
そして、ウィルのことを大切に思っていた。
だから、ウィルの気持ちはどうなのか、一生懸命考えた。
その結果が、『ノーレのわがままで一緒に寝ている』状態だった。
それでも、まだ足りないとノーレは感じていた。
今、ウィルは目を閉じているだけで寝ている時間はかなり少ない。
眠れたとしてもうなされてすぐに飛び起きる。
日中のウィルはいつも寝不足で顔色が悪かった。
ノーレは聡い子どもだ。
だけれどもまだ子どもで、時間が解決してくれるなどと言って、ウィルの苦しみを放置するという選択肢を取ることはできなかった。
どうすればウィルを救えるのか。
ノーレの脳はそのことばかり考えていた。
「ウィル自身が望んでいるかは、わからないけれど」
木陰で猫が眠っている。
その隣でノーレもまた眠っていた。
膝の上には分厚い本が置いてある。
怖い本ではない。
それは魔導書であった。
そこに載っているのは子どもが手を出すにはふさわしくない難しい魔法である。
その本を譲ってもらった時も、大人たちには止められた。
大人にだって難しいのだから、君には無理だ、と。
だが、ノーレはこの魔法が欲しかった。
幸いにもノーレは魔法が得意だった。
そして、努力するのも嫌いではなかった。
涼しげな風がノーレの前髪を揺らす。
長いまつ毛で縁どられた瞼がそっと開いた。
横で丸まって眠っている猫の背中を一度撫で、ノーレはそっと呟いた。
「成功……した?」
ノーレが初めて低級ではない魔法を身に着けたのは、この日であった。
今夜もウィルがうなされる声でノーレは目を覚ます。
今まではただ手をつないだまま隣にいることしかできなかった。
だが、今日は違う。
ノーレは枕元に置かれたお守りを手にする。
寝る前にウィルにプレゼントしたものだ。
安眠のお守りだとウィルには伝えたが、それは嘘である。
お守りの中身は魔法陣が描かれた紙であった。
ノーレはそのお守りを握り、そして、ウィルを起こさないよう小さな声で呪文の詠唱を始めた。
「……夢渡り」
ノーレの意識が遠ざかっていく。
ノーレはそれに逆らわず、そっと瞼を閉じた。
次に目を開いた時、ノーレがいたのは暗闇の中だった。
「暗い。ウィル? どこ?」
ここはウィルの夢の中だった。
ノーレはウィルの夢の中に干渉しているのだ。
しばらくすると暗闇から声が響いてきた。
――どうして気づいてくれなかったの? お母さん、ウィルを呼んだのに。苦しいよって、助けてって言ったのに――
ノーレは舌打ちを一つこぼした。
これが、ウィルがうなされている原因か。
そう思うと腹立たしかった。
「うるさい」
ノーレはそう呟くと、周りを明るくする。
ここは夢の中だ。
そう自覚しているノーレにとって、この世界は思うがままに操れるものだった。
夢とはそういうものなのだとノーレは知っていた。
ノーレは見やすくなった視界に、小さく丸まって蹲っているウィルを見つける。
ウィルは急に明るくなった世界にとまどったように顔を上げた。
「ウィル、遊ぼう」
そう声をかけたノーレの姿を見て、ウィルはうつむいた。
「僕、お母さんを死なせちゃったのに……」
辺りに闇が戻ってくる。
ウィルの精神がそうさせているのだ。
うなされているくせに、見たくなんかないくせに、それなのに自分でその夢を見続けている。
ノーレはそんなウィルの頬をはたいた。
「え、何、痛いよノーレ!」
「遊ぼう」
「え」
「遊ぼう」
ノーレはウィルの悪夢を塗り替えに来たのだ。
ウィルの手を掴んで無理やり起こすと、そのまま手を引いて走り出す。
「何!? 何なの? ちょっと!」
ノーレはウィルに考える時間を与えない。
何も考えさせずにウィルを引きずりまわす。
「ノーレ、ノーレったら! もう!」
とまどっていた声が、次第に笑い声に変わっていく。
それを聞いたノーレの顔にも笑顔が浮かんだ。
「あはは、何で僕たち走ってるの。意味わかんない。あはは……」
ベッドの上でノーレは目を覚ます。
外からは鶏のなく声が聞こえてきて、すっかり朝であることを示していた。
ノーレは隣で眠るウィルの顔を覗き込む。
その穏やかな寝顔は悪夢にうなされることなく、しっかり眠っているようだった。
ウィルが不明瞭な言葉を漏らしながら身じろぎをする。
ノーレは慌てて手の中に握りこまれていたお守りを枕元に戻した。
やがてノーレが見守る中で、ウィルはゆっくりと瞼を開いた。
穏やかに垂れた目がきょろきょろと周りを見渡す。
カーテンの隙間から漏れ出た光で今が朝であることに気づくとゆっくりと体を起こした。
「おはよう、ウィル」
「……おはよう、ノーレ」
ウィルは枕元に落ちているお守りを信じられないものを見るような目で見つめた。
「ノーレ、このお守り本物だよ」
それを聞いたノーレは嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。
ノーレはウィルがうなされるたびに悪夢を蹴散らしに行った。
初めのうちは寝付いたらすぐにうなされていたウィルは、だんだんうなされなくなっていき、そして。
「おはよう、ウィル」
「おはよう、ノーレ」
一晩中、一度もうなされることなく眠れるようになっていった。