旅立ち
「まったく来ないな。勇者たちは……」
春の辺境は、魔の土地と言われているイメージとは思えないくらい色とりどり花が咲き誇り、川には雪解けの冷たく澄んだ水が流れ、小鳥が囀る声が陰鬱だった冬の心を洗う。
砦までの山道には雪の重みで折れた針葉樹林の枝が無数に落ちていた。ここ半年ほど、道を通るのは鹿の親子か狼の群れくらい。魔族も人もまったくこの砦を訪れていない。
それでも俺は道に落ちている枝を丁寧に箒で掃いていた。
数世紀にわたる人類と魔族の戦争は、膠着状態に陥っていた。
俺は元々別の世界で人間だったが、こちらの世界では小鬼、つまりゴブリンとして転生してきた。
前世の記憶があったから、成長速度も早かったし、知識をどんどん身についていく喜びもあったので、5歳で軍門を叩き、8歳で魔王軍の諜報部隊に配属された。気づかれずに人を追う方法や暗殺の技術を叩きこまれた。
ただ、身体が小さかったこともあり、戦場に出るということはなく、鷲を使役して遠隔地の情報を得る技術を習得。さらに、同じ舞台の骸骨剣士から、霊媒術を教えてもらい、死者の声も聞けるようになった。
部隊ではほとんど文官のようになっていた。遠隔地からの情報収集によって人の国の情勢にも明るかった俺は、どこにどういう能力の魔族を送り込めば戦場にならないのか上官に進言していく仕事をしていた。
それがことごとく当たり、上官は自分の手柄にしたため、どんどん出世していった。出世していくと能力の高い部下というのは邪魔になるもので、俺は辺境砦に飛ばされた。
人の国と魔族の国の間に、山脈が連なっている。大陸の中心部には両国の軍人がにらみ合っているが、北限の砦なんか誰も来ない。
時々、訓練中に負傷した魔族が療養のために来ることもあるが、ここ2年は俺一人で、自給自足でのんびり暮らしていた。
今年も何とか食料が尽きることなく冬を越せたので、気分がいい。
よく晴れた春の日、この辺境砦唯一の仕事と言ってもいい、雪が解けた山道の見回りをする。時々、冬に山越えをして魔族の国に入ってくる冒険者の死体が転がっていることがあるからだ。
山は急斜面で歩きにくく、ユキヒョウでも登りたがらない。野生のヤギが昇ってくることもあるが、グレートイーグルという魔物に進化してしまった砦で飼っている鷲が食べてしまう。
本日も、冒険者数人の死体が谷底に落ちていた。崖を降り、死体を検分。鞄の中に干し肉が少しあったが、装備は山を越えてくるには心もとない。
霊媒術で死者に話を聞いてみると、前年は冷夏だったため大陸の北部では食糧危機が起こっていて、魔族の国から食料を略奪しようと考えていたらしい。残念ながら彼らが欲しているような魔族の農村は山の反対側にはない。
俺は抜け道を使い人の国へと侵入。さらに山道を調べた。
冬眠していた熊が凍死していたり、鹿の骨だけが転がっていたりと厳冬だったことが伺える。
人の国側にも砦はあるが、夜になっても火が灯ることはなかった。
これでも諜報部隊なので、砦の中を調査してみると誰もいない。寒さで逃げ出したのだろうか。食糧庫は空っぽで、置いてあった手記には芋の食中毒が発生していることが書かれていた。
人の国で起こったことは魔族の国でも起こりえる。
俺はすぐに魔族の国に戻り、食糧危機を食い止めるべく、近隣の町や砦に手紙を送った。
ただ、何日経っても返信が返ってこない。人の国の事情など知ったことではないというのが、魔族の考えだ。しかも辺境の砦にいるたった一人の兵士から送られてくる情報など真偽不明だろう。
その間に、砦の墓地に埋まっている魔族の死者たちと、霊媒術で会話を続けていた。
前の砦長のミノタウロス曰く「厳冬の翌年は、気候が荒れる」とのこと。台風、山火事、竜巻、洪水など大陸中で見られる現象なのだとか。
自分の日誌を確認し、昨年の秋からの気温を調べると、確かに寒い日が多かったようだ。鷲も砦内の巣に籠っている日が多い。
気候による災害はいつどこで起こるかわからないため防ぎようがないが、予防できることはある。そもそも厳冬になることを予想できたので、俺は日持ちする食料を溜め込んでいたし、大雪の対策で砦の改装工事もできた。
なぜ災害対策の知恵が広まらないのかと嘆くよりも、実践していかないと世界は変わらない。魔族一人だけでは無力だが、伝えられることはあるだろう。
この冬、砦の死者たちと話し合いを続けた結論だった。
正式に軍を辞めて、一旅人になる前に、グレートイーグルで大陸各地の情報を集めた。過去の災害の爪痕が残る地域は重点的に調査させておいた。空から見えることと現地に行って見ることは違うのは当然だとしても、住人とは別の視点の者がいるというのも大事だろう。