文字を覚えました
カリカリカリ
石筆で石板をひっかく。ひたすらひっかく。延々とひっかいている。
石筆と言うものをご存じだろうか。
原材料は蝋石というもので、それを細長く筆記するに適するように削ったものである。
わたしが子供のころは駄菓子屋さんとかで売っていて、家の前のアスファルトにかかしを描いて、けんぱけんぱと遊んだものよ、懐かしい。
手には他にB5サイズの黒い石の板。この一式が、こどもの手習いの基本装備であるらしい。ベンツさんのお子さんが、小さいときに使っていたものを持ってきてくれた。
ちなみに、手本に広げている絵本も、ベンツさんとこから借りている。
絵本を見ながら、書いてある文字らしきものを書き写し、覚えようとしているところである。
こちらの文字は英語パターンの表音文字だった。一覧表見せてもらった時の安心感たるや。これだけ覚えればいいなら大丈夫、なんとかなる。仕事上必要で、英語以外にドイツ語とポルトガル語を勉強したけど、それ並みに文字数少なくて安心した。文字の形も、ブロック体に近い。一つ一つが明確に形が違うのも、覚えやすくて大歓迎だ。
昼食後、みんなが仕事や鍛錬に出払ったこの時間。お手伝いも少ないので、食卓の自分の椅子に腰かけてずっと一面ひっかいては擦って消し、ひっかいては擦って消しを繰り返して、アルファベットは覚えた。今は台所でよく使っている野菜を絵本で見つけて、覚えているところである。
虎の巻云々で思ったんだけど、わたしはこの世界のことをほとんど知らない。
日常生活を何も考えずにふわふわ過ごすだけなら、言葉も通じるし、二か月近く経ったから、いろんなものの名前もわかる。けれどそれだけ。今のわたしの世界はこの第二騎士団と、嫌だけど、第三騎士団だけしかない。
それは困る。ここで生活するだけなら困らないけど、なにせ、自宅に居ても世界中の情報を入手できた元日本人なのだ。なにもわからないのは気持ちが悪かった。
せめて、今いる国がなんという国で、どういう仕組みで動いているのか知りたかったし、文化も歴史も知りたい。
そういう情報を自力で仕入れるのは、やはり本だ。本を読みたい。けど読めない。字がわからない。これっぽっちも。
それがわかったときは呆然とした。だって、前に、第三に連れていかれるときにクルト君が落とした自分のデータは読めたのに。
”あ~。それはまだみっちゃんがみっちゃんやったからやな”
ヤオの返答はそれだった。
一応、この世界の神様であるダルマクさんが何らかの設定をしようとするのならば、その対象はこの世界のものでなければならない。
そりゃそうだ。
そして、当時のわたしがどうだったかと言うと。
魂は予定外。体の材料は日本製。名前もない。拠点も定まっていない。つまりこの世界に繋がる縁の一つもありゃしない。
完璧、アウトサイダー。他所者である。
本来なら、あのまま団長さんに保護されて、気に入られて、名前もつけてもらえて、居場所も決まるはずだった。
その時点で、この世界のものとして認定。設定も効果が発動する予定だったらしい。
ところがどっこい。
第三に拉致られて、宙ぶらりん続行。
設定、『山本道子』のまんまだったと。
だから字も読めた。
そして今。
第二騎士団長 トビアス・フォン・ワーグナーの娘、エルシア・ローゼルート・フォン・ワーグナー となった事で、やっとのことで設定完了。
性能、能力、五歳児になりました。
だから、字が読めない。
……言葉話せるんだったら、字も読めるようにしとけよ。そんなの普通転生特典じゃないのか。
“五歳じゃ字ぃ読めへんらしいで、こっち”
……それでか!
あのクソナタル。
あくまでも、『目立たせない』(やらかしがバレない)ことに、基本性能設定、重点置きやがったな。
くそ。こんどぶん殴る。
だが残念だったな。
そんな浅知恵、自力で無駄にしてやるわ!
++++
「あ~、あち~」
「もう勘弁してくれ~」
「なに、寝ぼけたこと言ってる。素振り千回させるぞ」
「今日、間引き何体いた?」
「3か? 西のはずれの方だ。あっちの牧場で被害出てたらしいから、マシになるだろ」
わいわいと、玄関辺りで声がする。どうやら、鍛錬や任務からばらばらと戻ってくる時刻になったようだ。
急いで一面埋め尽くした文字をこすって消して、わざと大きくガタガタとした文字で『トマト』と書いた。もちろん、本もトマトのページを押し開く。
「うわ、勉強してる」
最初に食堂に入ってきたマルコくんが、目を丸くする。第二では若手の見習い騎士くんである
「え~。まだちっこいじゃん。なんで勉強なんてするのさ~ って!」
言うそばから、後から来たウドさんに頭をはたかれてた。
「お前と違うんだよ。エル坊は。どれどれ、なに書いてんだ?」
ボールドヘッドで窓から差し込む夕日を反射させながら、覗き込んでくる。団長パパより一回り縦にも横にも厚みも大きい、でっかいおじさんだ。
「んとね、『トマト』! あとね~、『ピーマン』と『にんじん』もれんしゅうしたの!」
「そうかそうか。おお、きれいに書いてるな。ちゃんと読めるじゃないか」
その石板を、他の面々も覗き込み、「ちゃんと字になってる」とか、「俺のガキの時よりうまいかも」とか言いながら、頭をガシガシ撫でて、汗を流しに裏の井戸へと移動して。
……髪がぼさぼさである。
いくらなんでも、文字を練習し始めたばかりの五歳児が、石板一面埋めるぐらいに文字書いてたら変だろう。なので、ちょっと賢い五歳児ぶりっ子をすることにした。
この世界のあたりまえがわからないんだもん。何事も、やりすぎは良くない。うん。
秀でることが、全てにおいて、いいことではないのだよ。
能ある鷹は爪を隠す。
隠しながら研ぐのである。
結果。
文法も単純だったのも幸いして、十日で幼児ものすっ飛ばして子ども向けの本ぐらいは読めるようになりました。
集中したらこんなもんよ。わっはっは。
”せやけど、最後の三日、まるまる徹夜しとったやん? よう平気やな”って、ヤオが言ってたけど、切りよく十日でケリつけたかったんだもん、それぐらいやるでしょ?
え? やらないの?




