腐らない死体 5
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ローデル男爵は、今年三十五歳になるらしい。
根っからのギャンブル好きで、賭博場に頻繁に出入りしているとか。
安い酒を出す破落戸の多い酒場や娼館などが立ち並ぶ、俗に貧民街と呼ばれる一角をシオンは進んでいく。
さらに西の奥――ロゼインブルク国の首都であるリュディアスの街の西を流れるルドン川の下流あたりに広がる極貧街よりは治安がいいが、それでも街の中で起こる喧嘩は日常茶飯事で、特にシオンのように身なりのいい貴族は格好の餌食になることから、正直あまりうろうろしたくない区画である。
シオンはいったんリュディアスの公爵邸に帰り、屋敷の従僕に服を借りると、貧民街で目立たない格好に着替えていた。そうしなければ、この区域に入った途端に絡まれていただろう。
馬車が通れるほどの広さの、まあまあ広い通りから脇の細い道に入ると、扇情的な格好をした娼婦たちが道行く男たちに声をかけていた。
シオンは彼女たちの視線や伸ばされる手を交わしながら、はあ、と小さく息を吐く。
(シュゼットめ……。いつか覚えてろよ)
本当なら近寄りたくないこの区域にシオンが来ているのは、すべてシュゼットのせいだった。
どこからかローデル男爵がこのあたりの賭博場に出入りしていると聞きつけたシュゼットが、ローデル男爵とのつながりを作るために行って来いと命令したのだ。
最初は断ったシオンだったが、「じゃあわたしが行くわ」とシュゼットが言い出した瞬間に折れた。こんなところにシュゼットを行かせたとわかれば、オルフェリウスが激怒するに決まっている。いや、「行きたい」という言葉を聞いただけで、その怒りがシオンに向くだろう。
オルフェリウスにねちねちねちねちと厭味を言われるのは勘弁してほしいし、何かにつけて過去の「貸し」をちらつかせるオルフェリウスに何をさせられるかわかったものではない。
ただ砂利を敷き詰めただけの細道をひたすら進んでいけば、木の板に墨で文字が書かれただけの看板が見えた。老朽化して傾いているその小さな看板には「B」というアルファベットと二つのジョッキの絵が書かれている。
シオンは看板の前で足を止めると、もう一度小さく嘆息して、日々の入ったガラス窓を尻目にギィと立てつけの悪そうな音を立てる木戸をくぐった。
そこはカウンターと三つほどのテーブル席がある、小さな酒場だった。
「いらっしゃい」
店主と思しき目つきの悪い男が、まったく歓迎していなさそうな鋭い視線をシオンに投げる。
シオンは船乗りのように筋肉質な男が三人、角のテーブル席でビールを飲んでいるのを見ながら、カウンターの内側にいる店主に近づいた。
「『今夜の月は沈まないのか』」
シオンが小さな声でそう告げると、店主は鋭い三白眼を丸くした。
「なんだい、あんた、見ない顔だが、下の客かい」
「ああ。知り合いに紹介されたんだが、大丈夫か?」
「かまわないぜ」
店主はニヤリと口端を持ち上げると、カウンターの中にシオンを招き入れた。
「奥の部屋の階段から下に降りな」
「サンキュ」
シオンはわざと少しなまった口調で礼を言うと、カウンターの奥の戸をくぐった。
カウンターの奥は小さな部屋だった。
二人掛けの丸いテーブルと、その奥に地下に続く階段があるだけの、人一人が寝そべるのがやっとだろうというほどの小さな部屋。
シオンは地下に続く階段を見下ろして、深く息を吐きだした。
シオンが先ほど店主に告げた『今夜の月は沈まないのか』という言葉は、この階段の下に広がる賭博場に出入りするための合言葉だった。
オルフェリウスは首都リュディアスの治安の悪化を気にしており、昨今、許可のない賭博場を片っ端から取り締まっているのである。そんな中、取り締まられずに経営を続けようとする賭博場は、こうして普段目につかないようにひっそりとその存在を隠しているのだ。
(アークもよく知っているよな……)
ローデル男爵が出入りするこの賭博場も合言葉も、情報源はアークだった。人付き合いが苦手そうな無表情からは想像できないが、もと近衛隊に所属していただけあって意外と顔が広い。アークの兄が近衛隊の大尉であるので、いまだにたまに近衛隊に顔を出しているアークは、隊員たちからいろいろな情報を仕入れてくるのだ。
そして、若い隊員たちが多く集う近衛隊ともなれば、こうして貧民街まで出向いて憂さ晴らしすることも少なくなく、必然的にこのあたりの情報に詳しくなる。
シオンがぎしぎしと音を立てる木製の階段を下っていくと、天井が低く薄暗い部屋に出た。ランプで照らされた薄暗い部屋は、葉巻の煙がそこら中でくゆっており、葉巻の独特の匂いが広がっていて、シオンは早くも呼吸するのが嫌になった。
シオンが狭い部屋の奥の小さなカウンターでウイスキーを頼めば、近くで葉巻をくわえていた男たちの視線が集まる。
「にいちゃん、見ない顔だな」
「知り合いに紹介されて今日がはじめてなんだ」
近くにいた中年の男に声をかけられて、シオンは小さく笑って見せる。
「知り合いって、誰だい?」
「おっと、それは言わないでくれって言われていてね」
「ああ、もしかしてお貴族様かい。いるんだよなぁ、こんなところに出入りしているのがばれたら面倒だろうにこそこそ来るお貴族様たちが。兄ちゃんもかい?」
「お貴族様なんて呼ばれるほどいい身分じゃないけどね」
シオンは男のためにウイスキーのダブルを一つ頼む。
「お、気前いいねぇ」
「酒のかわりに、ここでのルールを教えてくれよ。実はあまり詳しいことは聞いてなくてね」
「お安い御用さ。つっても、たいしたルールなんてねーけどな」
男はグラスの中の氷をカラカラと揺らし、一口舐めてから、
「ここじゃあ、カードがほとんどさ。あとはたまにサイコロかな。それぞれ好きなテーブルについて好きな奴と賭ける。あまり大きく勝ちすぎちゃいけねえ。ま、そんな大金持ってるやつなんて、来やしねぇがね。ざっとこんなとこかね」
「ふぅん。あんたは賭けにはいかないのか?」
「俺は賭けるより、ここで酒を飲みながら賭けてるやつらを見る方が好きでねぇ。そうそう、そういやぁ、兄ちゃんのほかにこっそり来てる常連のお貴族様が一人いるぜ。ほら、奥のテーブルの蜂蜜色の髪をした男だ。噂じゃあ男爵様だとよ。本人はただの『ジャン』と名乗ってるがね。偽名だろうさ」
シオンは奥のテーブルに視線をやった。彼の言う蜂蜜色の髪の男は一人しかいないのですぐにわかる。中肉中背の三十代半ばほどの男だった。おそらく彼がローデル男爵で間違いなさそうだ。事前に調べた外見と一致する。
「男爵様か。そりゃ、金持ってそうだな」
シオンがローデル男爵に興味を持ったふりをすると、男がケラケラと笑った。
「だったらいいがねぇ。いつだったか、金を貸してくれって賭け仲間に頼んでるところを見たことがある。目をつけたところで、たいしたカモにはなんねぇよ」
「弱いのか?」
「中の下ってとこかね」
「肩慣らしにはちょうどいいか」
「おいおい兄ちゃんも人が悪いねぇ」
シオンは口端を持ち上げて、男に小さく手を振ると、ローデル男爵のいるテーブルへと近づいた。
そのテーブルには、ローデル男爵のほかに三人の男がいた。年齢はバラバラで二十代前半から五十手前ほどだろうと思われる男までいる。
「仲間に入れてくれよ」
勝負がついたタイミングでウイスキーを片手にシオンが話しかければ、先ほどの勝負で負けたらしい二十代前半のひょろりとした男がじろりと睨んだ。
「はじめて見る顔だな」
「はじめてだからな」
シオンが答えれば、言葉の発音の中に上流階級の匂いを感じ取ったのか、ローデル男爵が視線を向けてきた。じろじろと不躾にシオンを見つめたあと、薄い唇をニヤリとゆがめる。
「賭ける金は持ってるのかい」
「多少は」
シオンがそう言いながら、懐から銀貨を数枚取り出した。
ヒューっと五十手前くらいの男が口笛を吹く。シオンにはたいしたことない金額でも、彼らにとってはなかなかの大金なのだ。
「全財産なんだ。全て賭けるつもりはないが、そうだな……、二枚。これでどうだ」
「いいねぇ。ああ、自己紹介がまだだったな、俺はベンだ」
五十代手前ほどの男が名乗れば、二十代前半の男が「アレン」、三十代前半程度に見える男が「グレイ」と名乗る。
「俺はジャンだ」
カウンターにいた男が言った通りジャンと名乗ったローデル男爵と軽い握手を交わしながら、シオンは「ロッシュ」と答える。考えてきた偽名だった。
「手加減はしねぇぜ、ロッシュ」
先ほど負けて悔しかったのか、アレンがそう言って、カードを切った。