都合と理想。
(ヴーヴー‥)誰だろ…今原拓也のスマホは誰かからの合図で震えていた。スマホには【花川 彩音】と表示されていた。「‥もしもし?」
まただ。不意に来るあの人からの電話を僕は切れずにいる。昔好きだった。恋人同士だったあの人は意地悪く僕のスマホを鳴らし続ける。何回目だろう…。断り切れず僕はあの人からもらったスニーカーを履いて外に出た。いつもの店で、いつもの景色で、あの時のままの君の笑顔、声、瞳、見つめれば見つめるほどそれは僕を狂わせた。あの時に戻ったんじゃないかってね。今も昨日のことのように覚えてる。
耳を撫でるような波の音、街の光から少し離れた海辺。そんな中君から言われた言葉は『別れよう…』そんな言葉だった。あまりに現実的で、冷たい言葉だった。正直その後のことは覚えていない。「…くん?」…「拓也くん?」名前を呼ぶ声に我に返る。「…話聞いてる?」そう言って頬を膨らます。「あーうん。聞いてるよ。」「本当に?ならいいけど」危なかった…聞いてなかったら何をされることやら…想像しただけで背筋が凍る。ホッとして視線を上げると、時計の針は午後9時の針を過ぎていることに気がついた。「もうこんな時間か。明日も仕事あるしそろそろお開きにしよっか。」そう言って彩音は財布を取り出し席を立つ。どうせ出す気ないだろ…そんなことを思いながらも「俺が出すよ。」お金に余裕はないがそうすることにした。「あーそう。じゃあお言葉に甘えて。」絶対悩んでないだろ…
いつも通りの値段だがこの出費は大きい。「はぁ…」少し大きなため息をついた。「今日はありがとうね。楽しかった。」並んで歩きながら彩音は言った。「俺も楽しかったよ。じゃあ俺はここで。」そう言って十字路を右に曲がる。「うん。じゃあね。」彩音は手を振った。寂しそうな瞳で。帰宅してすぐにベッドへ飛び込んだ。「忘れられる訳ないだろ…。」ポツリとこぼしていつに間にか眠ってしまっていた。
『ピピピ…』早く起きろと言わんばかりのアラームに私、花川彩音はあくびをしながら身体を起こした。仕事仕事の毎日は飽き性の私にとって苦以外の何物でもなかった。見飽きた制服を身にまとい、重い足取りで家を後にした。
「おっはよ〜彩音ちゃ〜ん」そう言ってこちらに寄ってきた高い背丈に茶髪が特徴のこの男、小口蓮はいつもこうして私に言い寄ってくる。正直めんどくさい男だ。いいと思ったのは最初だけ。ちょっと優しくしただけですぐこうだ。呆れる。「わ〜お、今日はいつもより冷たいねぇ。男にでも振られちゃったのかなぁ?」何言ってんのこいつとか思いながらも「そんなことないですよ〜。好きな男なんていないですよ〜。」これでなんとかなるだろう。早くどっか言ってくれとか思いながらなんとかこの掛け合いを終わらせることができた。この男のせいでどっと疲れ果ててしまった。今日は早く帰って寝よう。その為に残りの仕事を完璧にこなすことに決めた。「彩音ちゃんお疲れ〜。この後ご飯でもどうかな??」「あ〜ごめんなさ〜い。今日は先約が入っちゃってて。また今度行きましょ?」「え〜そっか〜残念だなぁ。わかったよーまた今度ね!」そんな感じでなんとかあしらって彩音は帰宅した。最低限の食事、入浴、家事を済ませ、スマホを手に適当に時間を潰した。いつもいつもある1人の男とトーク画面ばかり開いてしまう。確かに恋人同士ではあったが、それも昔の話だ。何もかもがつまらない彼を私は捨てたのだ。なのに…彼だけは食事に誘ってしまうし、彼にしかしてないことは少なからず他にもあるだろう。俗に言う都合の良い男なんだろう。「お疲れ様。」とだけメッセージを送り、スマホの合図があるまで風に吹かれるとしよう。
「すみません。」今日は何回こうして頭を下げただろうか。上司の怒号が飛び交う中、相変わらずの自分の仕事の出来の悪さに嫌気がさした。どうしてこうなってしまったのだろうか、考えてもキリがない。全て自分のせいだと言うことだけは嫌でもわかる。「はぁ…どうしたもんかなぁ…」ため息を一つ。それを掬い上げるかのように、「また部長に怒られたの?」先輩の佐々木咲良さんだ。特徴的なショートカットに意地悪な顔がこちらに寄ってくる。「そのまたですよ…。ほんとにダメダメですよ僕は…。」僕の肩を叩きながら「まぁまぁそんなネガティブになるなって〜。私も最初の頃はそんなだったから〜少なくとも君を認めてる人はここに1人はいるよ?」ニヤリとした表情でいう言葉に「うさんくさいなぁ」「おいおい認めてやってんのにさ〜」どこかの魚みたいに頬をプクッと張った。(フグと言ったら間違いなく命は無いだろう。)「じゃあ終わったらご飯行こーよ!もちろん拓也くんの奢りね?」いつもの意地悪な顔でそう言う。「え、僕ですか?…まぁ…財布と相談ってことで…」そんなこんなでそれぞれ持ち場へ戻った。後数時間は集中すると脳に言い聞かせた。
空いた缶コーヒーのゴミを眺めてやりきった達成感がどっと押し寄せてくる。度重なるミスで予定よりも時間がかかってしまった。全てを吐き出すようなため息とともに荷物の整理をしていると、「やーっと終わったか、想像以上に長かったなー」「やっと終わりましたよ。もう立ち上がる元気もないです…」気力のない声でそう言うと「シャキッとしろや!」笑いながら背中をバンバンと叩かれる。少しだけ痛いなと思いながら笑みをこぼした。
「この後どうします?」「焼肉でも行くかー」雑すぎる会話で夕飯の舞台を決めてしまった。でもこの肉が最高に美味いのは知っている。ほぼ常連と認知されている焼肉屋に行き、狭いんだか広いんだかわからない個室へと足を運ぶ。他愛もない話でも楽しくなってしまうほどに心は踊っていた。「君はいつになったら仕事ができるようになるのかねぇ。」顔を真っ赤にした咲良は言う「これでも自分なりにやってるんですよ…逆にどうしたらそんなに仕事できるんですか?!」咲良は女性ながらに仕事をバリバリこなすキャリアウーマンだ。それに比べて僕はポンコツ以下であることを考えると心が痛かった。「私だって最初の最初は全然できなかったけどさー、女だからって言われるのが嫌だったから死ぬ気で仕事してたわけ、わかる??あーのクソ上司ほんとに色目使ってくるし最悪だからさ仕事で分からせたろって思ってね」「なんか先輩も大変だったんですね…あと、すごい酔ってますけど大丈夫ですか?」口も悪くなってるし完全に悪酔いだなこれ。「酔ってねぇから!!私酒強いもん!!」「いやいや…とりあえず行きましょう。このままじゃやばい気がするんで」そう言って突っ伏した咲良を置いて先に会計を済ませる。結局俺の奢りかよ。今度お金はきっちり返してもらうとしよう。
ベロベロになった咲良に肩を貸しながら「本当に大丈夫ですか??家まで送りますよ。」「大丈夫らってぇ〜、1人で帰れるっれ〜」ここまで説得力のない言葉この世にないだろう。「家どこですか?やっぱり送ります」「駅前のとこぉ」大雑把すぎるが過去に誰かがここだと指を指していた場所を思い出しそこに向かう。数十分の時を経てようやく咲良の自宅へ到着した。首元に咲良の吐息がほんの少しかかるのを感じる。うわ、この人寝てる。「とりあえずベッドに寝かせよう」咲良の体をベッドにそっと倒し、体を起こそうとした瞬間目の前の視界が歪んだ。咲良の紅潮した顔が目の前に見える。咲良に押し倒されたのだとそこで自覚した。「…しないの?」色気をいっぱいに纏った咲良が言う。「え…」酔っているせいか思考が鈍る。「私…もう我慢できないや…。」その言葉を聞いた瞬間、僕の中にある何かがブチッと鈍い音を立てて切れてしまった。そのまま拓也は時に体を委ねた。
夜景を目に焼き付けながらため息混じりの煙を吹かした。一人の時間は嫌いだ。自分は1人では何も出来ないだの他人の影に乗って生きているだの、そんなことを次々と押し付けられる感覚がするから。だからこうして『都合のいい』ものばかり集める。要らなくなったら捨てる。そうして生きてきた。そんな私を否定した気分にさせる男。一人の時間を大事に思う男。それがあの男なのだ。「拓也くんに会いたい…。」初めて心からそう思った。今までまともに好きになった男なんていなかった。全員体か顔、自分のステータスのために言い寄ってきた。でも拓也は違かった。あの時の一言「僕は彩音さん全部を知りたい。そして今原拓也をもっと知って欲しい。」これがどうしても忘れられなかった。初めて真正面で向き合ってくれる人が現れて嬉しかった。でも私は捨てた。『つまらない』たった一つの、どうしようもなく小さい理由で。「やっぱり私、拓也くんにちゃんと恋してたんだなぁ。」そう自覚した瞬間涙が溢れてきた。届かない過去への懺悔、積もり続けるだけの恋心。全部全部初めてだった。「叶うはずのない恋」この言葉が私の中で木霊した。聞きたくない。そう叫んだ。欲しいものを手にする人生にいるのなら、意地でも手に入れるまでだ。
未読のままのメッセージに押しつぶされそうな悲しみと何をしてるのか、どこにいるのかという疑問が次々と押し寄せてくる。尽きることの無いため息にまた1本とタバコが減っていく。ピコンッ。軽快な音と共にスマホが震えた。『ごめん。気づかなかった。職場の先輩と飲みいってた。』と表示された画面に目が吸い寄せられる。「職場の先輩…か。」妙な引っ掛かりを覚えるその響きに焦りに似た情がふつふつと湧いて出てきた。「女の人なのかな…。」男にしては長すぎるし、女ならば万が一がありえる。「はぁ…取られちゃうのかな…」映し出されたままの入力画面に手をつけられずにいる。『急にどうした?なんかあった?』と嫌味と思わせるほどの軽い返信に少し腹が立った。「ううん。なんでもないよ。」これしか言うことができなかった。『そっか。今日はもう遅いし、早く寝なよ。じゃあ、おやすみ。』そっか。もうこんな時間か気づけば深夜の1時を回っていた。明日もまたやらなければいけないことがある。少ない時間だが、しっかり明日に備えるとしよう。彩音は布団とベッドの間に体を挟み込んだ。
「あ〜や〜ね〜ちゃん!!」ドンッと鈍い音と共に肩を叩かれた。またこの男か。いつも通り奴は目の前に現れた。「やっと来てくれたね〜!彩音ちゃんいなくて寂しかったよぉ。」「そうだったんですか〜。別に私がいなくても変わらないですよ〜。」本当にしつこくて嫌になる。出来れば顔を見たくない。「そんなことないって〜!彩音ちゃんはみんなの、俺のアイドルだよ??」キモい。純粋にキモい。どうしようこの男。「そ、そうなんですねぇ…。よ、よ、よかったです(?)」「そうだ!前から約束してたし、今日ご飯行こうよ!俺の奢りでいいからさ!」奢りという言葉についつい反応してしまった。「え、あぁ、じゃあ予定が入らなかったらでいいですか?」「うん!!楽しみにしてるね!それまで仕事がんばろーね!」とんでもない約束してしまったと内心とても後悔した。今すぐにでも帰りたい。とりあえず自分の仕事はこなすとしよう。考えるのはそれからだ。水滴が滴るエナジードリンクをグイッと飲み干し、彩音はパソコンとにらめっこを始めた。「やっと終わったああああ!」疲弊しきった体でそう叫ぶ。達成感に浸っているとすかさず「あやねちゃん!お疲れ様!!」そう声をかけられる。やはり来たか……この男。「ありがとうございます。」表面上の言葉を並べた。「この後ご飯行くよね!」「あぁ……はい…。」「やったぁ!!じゃあ駅の近くのレストランあるんだけどさ、そこ行こうよ!!もう予約してあるんだ!」なるほどね。何がなんでも帰さないってわけか。まんまと口車に乗せられた自分を恨みつつ会社を後にした。
高そうな雰囲気の店内で少し緊張しながら体が欲している水分で喉を潤す。「なに?あやねちゃん緊張してるの??」いじるな笑顔でこちらに問いかける「まぁ…そうですね。こういうとこ初めてなので」
これだけは嘘ではない。自腹で払う予定だったら絶対に来ないだろうと心の中で何度も思った。それでもせめて緊張はしないでいいんだよ。という気遣いに少しだけほぐれた気がした。他愛もない話をしているうちに意外と悪い男ではないということがわかった。いつもだったら見られない緩んだ顔。時折見せる真剣な表情。少しばかりドキッとしてしまう自分がいる。ダメだダメだ。私は拓也が好きなのに。話の流れで私の心の内を話すことになってしまった。最近元カレ(拓也)と頻繁に食事に行っていたこと。返信が時々遅いこと。先日連絡がなかったこと。拓也が何よりも好きなこと。全て話した。途中で涙も流した。それでも黙って蓮は話を聞いてくれた。それだけで嬉しかった。「……そっか。そんなことがあったんだね……。」「でもきっと彼は君を選んでくれると思う。」「え?」「君は可愛いし、性格もいいし。きっと思い続けていれば叶うはず。俺はそう信じてる。」「俺は誰よりもあやねちゃんの恋を応援するよ。君が悪役になったとしても。」
だから諦めないで。
その言葉が何よりも心に染みた。そのまま蓮とはそれぞれの帰路に着いた。あんな真剣に話を聞いてくれたこと。何もされなかったことに驚いた。ちょっとっていうか結構見直したかも。蓮の言葉を信じて彩音は拓也を愛し続けることを心に決めた。
街灯に照らされながら一人道を歩いていた。無理して奢ったおかげでこれからの生活は少し厳しいかも。まぁそれでも君の支えになれたなら良かった。本当はあんなこと言いたくなかったよ。本当は俺のものにするために誘ったのに、あんなに嬉しそうに、辛そうにその男の話されちゃったら奪うもんも奪えないじゃん。「俺の方が彩音のこと幸せになれるのになぁ。」食いしばる歯、頬を伝う雫。ずっと堪えていた感情が溢れ出してしまった。クソ、こんなはずじゃなかったのに。でも君が幸せになるのなら、その辛さがいつか報われるのなら、いくらでも涙を流そう。それが僕の使命だから。ただ、一つだけお願いがあるんだ。 幸せになってね。
いつも通り眩しい光に目が覚めた。摂りすぎたアルコールのせいか頭が痛む。隣を見ると艶やかな肌をさらけ出した咲良が気持ちよさそうに寝息を立てていた。その瞬間昨夜起こった出来事がフラッシュバックしてくる。僕はなんてことをしてしまったんだ。そんな念が拓也の胸を覆い尽くした。「…ん?拓也くん。おはよ。」「あ…おはようございます…」「やっぱり二日酔いきついねぇ。頭痛すぎるよ。」え、なんでこの人こんな冷静なの。おかしいって。「今何時?ああ、まだこんな時間か。まだもう少し時間あるね。」「あ、、そうですね。」「とりあえず昨日のことは会社では内緒にしてね?バレちゃうと気まずいしさ」だからなんでこの人はこんなに冷静なのよ。咲良の切り替わりように驚いていると咲良は朝食を作り始めた。久々に人に作ってもらう朝食に少し心が踊った。会社に行く準備をしているうちに何やら焦げ臭いような、感じてはいけない匂いを感じ恐る恐るキッチンへ向かうとそこには何やら真っ黒い、いかにも食べてはならない物質が皿の上に乗っかっていた。「ご飯できたよ!」嬉しそうに咲良は言う。ん?え?これが食い物??嘘でしょ?夢でも見てるこれ?「な、何作ったんですか?」「卵焼き!!」「おぉ、まじか。」とりあえず食べますかと時間もあまりないため口の中に放り込んだ。というか胃に転がり落とした。味のことは絶対に言えない。
二日酔いでまともに働かない頭でいつも通り苦手な仕事に打ち込む。相変わらず咲良さんはキャリアウーマンしている。なんて人だあの人は。あんな感じの雰囲気だから恋人がいなかったり言い寄ったりする男性も少ないが昨夜の咲良を見て正直驚いた。考えられないほど積極的でなんとも言えない。ただ体を交わして、思ったことは。きっと僕だけにしたことではないということ。あれは、完全に慣れてる目だった。昼休憩の途中昨夜からLINEが一通届いていることに気がついた。慌てて「ごめん。昨日は用事で返せなかった。何かあった?」と送り返す。多分彩音も仕事だろうとぼーっと食事を取りながら思っていると案外直ぐに返信が返ってきた。「今日会いたい。」とても直球だった。いつものように遠回しに言わずに珍しい光景だった。「わかった。いつものとこでいいね。」そう送り返し二日酔いでキツいがこの後の予定が決まった。とにかく午後の仕事を片付けなければ。バシッと頬を2回ほど叩きカタカタとタイピングを始めた。
午後7時半頃。仕事を何とか終わらせいつもの待ち合わせ場所へ向かった。この時間にこの場所思い出深い。そしていつになっても忘れられないあの日のことが蘇る。5分もしないうちに頭の中にいた君が目の前へとやってくる。その顔はいつになく真剣で何か大きな感情を孕んでいた。そして似ていた。あの日の君に。「急に会いたいなんてどうしたの?」「今日は…その、言いたいことがあるんだよね。」
なんだろう。その感情でいっぱいだが、とりあえず場所を移したい。「じゃあとりあえずあの店行こうよ」「行かない。」「今日は行きたくないの。」今日はここにいたい。そう訴える目に了承せざるを得なかった。「じゃあ、言いたいことって何?」「半年前のこの日、ここでこの時間に私はここであなたを振ったよね。」覚えてるさ。昨日の事のように。忘れられるわけない。「多分忘れることなんてできないと思う。私も忘れられないから。」「ならどうして」「今から言うことは半年前の私に嘘をつく事になる。それでもあなたに言うって決めてるんだ。」「私は拓也が好き。今でもあなたじゃないとダメなの。」思いもしなかった言葉に驚く。嬉しくないはずがない。だっていつでも心にいたのは君だったんだから。「私の気持ちに嘘はない。だから君も嘘をつかないで欲しい。」「わかった。約束するよ。」「俺も彩音が好きだ。」ようやく言えた。心が満たされていく音がする。また君と時間を共有できるなんて夢にも思ってなかったから。前みたいなことにはならないように、君に辛い思いをさせないように。僕は君をちゃんと幸せにしていくよ。
それから1ヶ月余り彼女から連絡はなかった。理由はわからない。聞きたくても電話は繋がらないし。何をしようが無駄だと感じた。忘れることができない辛さを身をもって痛感した。今どこにいるんだろう。何をしているんだろう。そんなことばかり考えてて仕事が手につかなくなってしまう。もう無理かな。そう思った。1週間の1日しかない休日の中でニュースの中に知りすぎている人物の名前が流れた。
『先日○○市で起こった交通事故により、市内在住の花川彩音さん24歳が搬送先の病院で亡くなりました。』彩音が死んだ。そこから僕の中の時が止まった。何もやる気が無くなった。生きる気力でさえも失った。何度も死のうと思った。彩音の元へ行こうと。それでも時間は止まらない。彩音の分まで生き続ければならないとわかっていても。たったそれだけが難しかった。
今にも死にそうな様子で会社に向かっている途中に久しく聞いた声がした。「久しぶりだな。拓也。」目を向けると大学時代1番時間を共にした蓮が立っていた。「…なにしてんだよ。こんなとこで。」「お前さ、花川彩音って子知ってるか?」その名前を聞いた瞬間どうしようもない痛みが胸を襲った。「……事故で亡くなった人だろ。」「その子さ、俺の職場で一緒でさ、俺、好きだったんだ……。でも叶わなかった。思いを伝えられないまま死んじまったんだ。」「彩音ちゃんは死んじまったんだぞ。」「拓也、お前があの子の分までしっかりしねぇと笑ってくれねぇぞ。」蓮は涙を流しながら語った。その姿は誰よりも辛そうだった。そう。俺よりも。「お前が彩音ちゃんの元カレで好きだった人なんてのは聞いててわかった。俺は親友だからな。でも無くなっちまったもんばっか気にして前に進めないやつなんて俺の親友とは呼べない。」次々に来る言葉が心臓に刺さるのがわかる。「いいか拓也。失っても戻ってこないんだ。だから今あるもので今は無いものへ残せるものを残すんだ。お前にはできるってわかる。だって親友じゃねぇか。」ああ、なんて弱いんだろう。俺は蓮に言われなければ気づくことはできなかった。「ありがとう。蓮。辛いのは皆同じだよな。彩音のことしっかり忘れないように生きていくよ。」遅刻してしまうがこの後の仕事も生きていることが価値になるように精一杯生きていくと拓也は決めた。
全てが変わったあの日から3年。またこの場所へ来た。君と1度離れ離れになり、また一緒になれたこの場所へ。ずっと思っている。君の事。僕の恋人は君だけだと。君がいないのは悲しいけれど。寂しいけれど。ずっとそばに居てくれるはず。だって君が大好きなんだもん。ずっとずっと忘れない。君と過ごした時間も何もかも。
久しぶりに見る電話番号から3年前の留守番電話を見つけた。開いてみると懐かしい声で「大好き」そう残されていた。