気分転換
走りをコーチに完全否定されてから1週間が経つ。
今までの走り方で一発勝負を賭け続けるか、それとも元の走り……いや新しい走りをコーチと共に編み出すか、その選択を迫られているが未だに結論は出ていない。
幸いな事に、今はオフシーズン。
トレーニングに関しては筋トレや体幹トレーニング等地味な内容が主なので今の所問題は無い。
しかし、来年の世界選手権に出場するには、夏の終わりに行われる日本選手権に出場しなければならない。
それまでの目標は参加標準記録10秒00最低でもこれを出さなければならない。
今の走りなら自信はある。
正式タイムではないが10秒を切るタイムを出してもいる。
しかし、今から新しい走り方を一から作り直して、果たしてそのタイムを超えられるだろうか?
いや、超えるだけでは駄目なのだ。
世界選手権で決勝、それが最低目標なのだ。
「大丈夫?」
コーチとの言い争いから遠巻きに見ていた会長と灯ちゃんがようやく俺に話しかけて来る。
会長と言っているが生徒会長は既に引退しているのだけど。
しかし今さら名前で呼ぶのも変な感じがするからと、俺や周囲は未だにそう呼んでいた。
「あ、ああ、まあね」
会長からそう言われ俺は苦笑いをしながらそう返事をする。
「ところで、部長の件は引き受けては貰えないわよね」
「今の俺には誰も付いて来ないだろ?」
「そ、そんな事無いよ!」
「そんな事無いです!」
俺がそう言うと灯ちゃんとその後ろに隠れていた只野さんの二人がそう声を重ねて俺に訴えかけて来る。
「あ、ありがと……」
ただ、正直な事を言うと、今は他人の事を気にしている場合ではなかった。
自分の事で精一杯なのだ。
「んーーじゃあとりあえず、息抜きでもしない?」
会長が俺をに見てそんな提案をしてくる。
「息抜き?」
今そんな暇は無い……と、言おうと思ったが今後の事を決められない現状、基本のトレーニングが終わればやる事はほぼ無い。
フォーム改造、いやあのコーチの言い方だと恐らく走り方を1からやり直すのに等しい。
そんな事が果たして出来るのか? ある意味俺の今までを全部を捨てるって事になるのだ。
「ほらまたそんな顔してる」
「あ、いや……」
「せ、先輩! あ、あのですね、わ、私……スパイクを買わないといけないんですけど!」
只野さんが二人の後ろから前に出てくると俺に向かってそう言った。
「スパイク? 持ってるよね?」
「た、高跳び用のスパイクが欲しいんです!」
「あーー、それなら夏樹に」
「いえ! 先輩に選んで欲しいんです!」
今まで控えめだった彼女は7種競技を始めてからグイグイと意見を言ってくるようになっていた。
「俺にって、高跳びはあまりわかんないんだけどなあ……確か12mm以内で踵にもピンがあって11本以内だっけか?」
「十分詳しいし」
それを聞いて灯ちゃんが俺に突っ込む。
「常識の範囲だろ?」
「わ、私は先輩に選んで欲しい……です」
顔を赤らめ更に俺に近付きそう言って来る只野さん。
「ほら、弟子から言われたら断れないでしょ?」
「いつ俺の弟子に……」
「気分転換には丁度良いでしょ?」
なぜかふくっれ面になっている会長が再び俺にそう言って来る。
「まあ、俺もスパイクはみたい所だけど」
走り方によってスパイクのピンを変えたりするし、今後のヒントが浮かぶかも知れない。
「よし! じゃあ行きましょう!」
灯ちゃんがそう言って俺の腕を引っ張った。
「ちょ、着替えるからちょっと待って」
さすがにトレーニングウエアではちょっと。
「じゃあ待ってますね」
3人が俺にそう言って、決まったかの様にそれぞれが帰り支度を始めた。
いや……まだ今日のメニューが残っているんだけどと思いつつも、買い物ならそれほど時間もかからないだろうし、気分転換にもなるだろうと俺は彼女達に付き合う事にした。
そして、彼女達とスポーツショップにて買い物をし、それだけで帰るのもなんだとお茶を飲む。
4人の共通の会話は勿論陸上の事、3人に俺の知識を聞いてもらう事により新しいコーチにぼこぼこにされた鬱積を少し晴らさせて貰えた。
ああ、久々に高校生らしく楽しく過ごした気がする。
本当に久しぶりに……円と一緒にいた時の様に楽しく……今置かれている状況を暫し忘れてしまう位に。
しかし、一通り楽しんだ後、残りのトレーニングをしに3人と学校に戻って来たその時、その楽しさが吹き飛んでしまう出来事が起こった。
「あんたね! あんた……まじでそんな事してる場合?!」
会長、灯ちゃん、只野さんの前で、1週間程何処かに行って顔を見せていなかったキサラ先生が突然現れるやいなや……俺の胸ぐらを掴み、今まで見た事の無い鬼の様な形相でそう言った。
「ちょっとせ、先生いきなり何を?!」
俺と先生の間に入り会長がそう言って止めようとするも、キサラ先生は更に俺を掴む手に力を込め首を締め付ける。
「くっ……」
そのあまりの力に俺は驚き何も出来ないでいた。
この細い腕の一体何処にこんな力が……と、思った時ふと思い出す。
そう言えばこの人……『P_ミニオン』っていうアイドルグループのリーダだったけ。
そしてP_ミニオンのpとはアイドルグループらしくのprettyと思いきや、PowerのPだと。
いや、元々はそうだったが乱暴、傍若無人、スタンドマイクを振り回し、舞台を駆け回る。
そんなアイドルグループだった為にprettyがPowerになったと妹から聞いた事を思い出す。
やばい……、つまりこの人、腕力では俺に負けていない処か腕の力だけなら俺よりも強いかも……。
こ、殺される……そう思った瞬間「せ、先生なにをしてるんですか!!」と灯ちゃんが叫んだと同時に彼女の手が緩んだ。
「げほ、ゲホゲホ」
俺がうずくまり首を抑えて咳き込む……そして、そのままキサラ先生を見上げると、彼女はポロポロと涙を流し俺を見つめている。
「え?」
「あんたね……わかってるの、今こんな事してる場合じゃないでしょ?!」
「……もしかして、円、円になにか?」
俺がそう聞く気彼女はすっと目を瞑った。
「せ、先生! 円に会ったのか!?」
俺は首を抑えつつ慌てて立ち上がり彼女の肩を掴んだ。
「……私は何も言わない、何も言えない……ただ言えるのは、円は元気って事だけ」
「……」
つまり……円になにかが……そう言う事なのだと俺は知る。
「知りたかったら……来年勝つ事ね、それが条件だって事を忘れない事ね」
キサラ先生は凄く悲しそうな顔で俺を見てそう言う。
その目と表情は、動揺と落胆と期待と不安と様々な要素がが入り混じっていた。




