冷たい風
沖縄勉強合宿4日目。
勉強合宿という名の通り、毎日みっちりと時間を割き課題をこなしていた。
ただし昼だけは休憩と昼食を兼ねて、海や部屋でのんびりと過ごす。
僕と妹はそれぞれ別室で勉強している。
僕は円に、妹はキサラさんに勉強を見て貰っている。
キサラさんと妹が密室で本当に勉強しているのかと心配になるが、フラフラの状態で昼食や夕食を取っている所を見る限り、その心配は無さそうだった。
城ヶ崎、特に高等部からの入学はやっぱり甘くない。
「ねえ、ちょっと散歩しよ?」
その甘くないことを今年クリアしている円が笑顔でそう言って俺を見つめる。
「あ、うん」
昼休み、海に入って遊ぶのも飽きてきたのでここの所は海岸でボーッとして頭を休めたり、部屋で寝ていたりしていた。
正直妹程ではないが、僕も結構厳しいのだ。
体力的には問題ないのだが、勉強となるとやはり厳しい。
運動の体力と勉強の体力は違うとこの合宿で嫌って程味わっていた。
その為、いつもの通り今日も昼食後は部屋で寝ようかと思っていたが、円に誘われては断れないと二人で海岸に行く。
ちなみに妹はリビングのソファーに寝転んでいた。
キサラさんの膝枕で……キサラさんは慈愛のような目で……いや、目はそうなんだけどなんか呼吸は「はあはあ」言ってる。
やはり本当に勉強しているのかは若干疑わしいと言っておく。
それでもあんな所で寝転ぶなんて、すっかり自宅の様に、いや、自宅以上に寛いでいる妹を見るに、食事の準備もしなくていい、僕の世話から完全に解放されああなっているのかもって思ってしまい、少し不安になる。
多分今でも無理しているのだろう……。
いまだ妹の庇護下にいる、いなければいけない自分に相変わらず情けなくなってしまう。
円は泳ぐつもりなのか? 水着を着ていた。
ただ上にはパーカーを羽織っている。
パーカーかれ見え隠れする胸……そして長く細い綺麗な足。
相変わらず美しいスタイルに思わず見惚れてしまう。
サクサクと誰も踏んでいないまっさらな白い砂浜に5つずつ跡を残し、ゆっくりと歩く。
そう……僕の足は相変わらずの三本だ。
砂浜に杖をつくのは意外と難しかったが、バランスを取るだけなので慣れてきてはいる。
人目も気にする必要もないのが良い。
ここは周囲を岩場に囲まれたプライベートビーチなので、他人が入り込む事は一切ない。
僕に気を遣いながら少し前を歩く円。
そんな後ろ姿を見て思い出す。
僕は昨年までテレビに映る円の姿、雑誌に載っている姿の円、それらをずっと見てきた。
しかしそのいづれも今の様な、水着姿の円は存在しなかった。
勿論ネットで検索しても出て来る事は無かったのは内緒の話だ。
円と再開してからの約4ヶ月間、彼女はいつも人目を気にして、うつ向き加減で歩いていた。
外に出るときはお決まりの変装をして、出来るだけ隠れる様に……歩いていた。
でもここでの円は違った。常に前を向き胸を張り常に笑顔で何を気にする事なく素顔で過ごしている。
その円の素顔に、水着姿に、僕の心は激しく動揺する。
だって誰も目にする事がない円を、円の水着姿をこんなにも間近で見られ、さらにはあの美しい肌にも直接この手で触れているのに……。
綺麗な海を目の前に大好きな夏の日差しの中、円と一緒に居られるなんて、想像しただけで、どうにかなってしまいそうになっていた。
でも……でも……こんなにもドキドキしているのに、僕の心の一部が、ほんの僅かな一部分だけが冷めてる。
その冷えきった部分がじわじわと侵食する。
熱くなった心をじわじわと……。
「ここ座ろっか」
「……うん」
プライベートビーチの一番端、岩場の手前まで歩いて来る。
しかし端と言っても何キロもあるわけではない。
家の前ではメイドさんが僕達の為にパラソルの設置をしているのが見てとれる。
もっと遠くに行こうと思っても、僕の足ではこの岩場を登る事は出来ない。
岩場の向こうで、二人きり……なんてシチュエーションにはなれない。
なので僕と円は岩場の手前の砂浜に腰をおろす。
綺麗に整備されているビーチだが、ここまでは手が及んでいないのか? 砂利や貝、石灰化した珊瑚の欠片なんかが落ちていた。
円は大きめなそれらを軽くどかして、僕の座る場所を作ってくれる。
「ありがとう」
僕がそういうと円は軽く首を降った。
いつもならビーチに出ると庭に設置されているスピーカーから軽快な音楽が流される。
しかし今日は天がリビングで寝ているからか? それとも僕達が人目を、聞き耳を避ける様にビーチの端に来たからか? 音楽は鳴らされていなかった。
聞こえるのは波の音だけだ。
水平線の彼方に見える雲が少しずつ形を変えゆっくりと動いていく。
時計のないこの場では、その雲の動きと日差しの向きだけが時の流れを教えてくれる。
円は暫くなにも言わずに真っ直ぐに海を眺めている。
海からの風で彼女の黒い髪がたなびく、彼女は横顔でさえもその美貌を魅力を損なう事はない
でも……何故だろうか……いつもならずっと見てられる円の顔が何故か見続けられない。
そしてどれ程の時間が経ったのだろうか? 円は前を向いたまま、海を見たまま僕の手の甲に自分の手を添えた。
円は時々こうやって僕の手や顔を触る。
スキンシップなのだろうか? 特に理由もなく触ってくる。
最初は戸惑った、でも最近はだいぶ慣れてきた。
そして最近こうする理由が僕にも少しだけわかってきた。
こうやって触れる事で何かが伝わる気がする。
言葉では伝わらない物が、自分でさえも気付かない心の底にある物が伝わって来る、伝えられる気がする。
しかしそれはある意味、怖い事なのかも知れない
そして円は僕の手に自分の手を添え、海を見つめたまま問いかけて来る。
「翔くん……楽しい?」
「え? あ、うん」
僕は横に座る円を見る、円も海からゆっくりと僕に視線を移した。
円は不安そうな顔で僕を見つめている。
僕がそう言ってもその表情は変わらない。
「私、役に立ってるかな?」
「当たり前でしょ」
円を見つめながら間髪を入れずにそう答える。
そんな当たり前な事をあえて聞いてくるなんて、僕はそんなつまらさそうな顔でもしていたのか不安になった。
彼女は一体何故そんな事を聞いてくるのだろうか? 百歩譲って僕がつまらさそうな顔をしていたとして面白い? と聞くのはわかる。しかし役に立っていると聞いてくる意味がわからない。
一体何を言いたいんだろうか?
僕がそう疑問に思ったその時、円はすがる様にして僕に向かって言った。
「私と一緒に居て辛くない?」
「え? ……な、何故?」
「だって……北海道から帰ってきて、翔君はリセットする為に走った……でも、私が側にいたらリセット出来ないんじゃないかって、あの事を忘れられないんじゃないかって……そう思ったの」
悲しそうに円はそう言った。すがるように、そして懇願するように。
悲しみ、哀しみ、哀れみ、憐れみ……憐憫という文字が僕の頭を過った。
「……そ、そんなわけないじゃないか、そもそも忘れる事なんて出来ないんだから」
僕は円から自分の足に目線を移す。じっと自分の足を見ながら……そう答えた。
「私は……まだ側にいても、貴方の側にいて良いのかな?」
「……当たり前だろ」
「……そか」
円はそう返事をした。
でも、その返事はどこか不安が隠しきれない様に感じた。
それはそうだ……僕は即答出来なかったのだから、円の「私と一緒にいて辛くない?」って言葉から。
辛い筈がない、円と一緒にいて辛い筈がない。でも僕は即答出来なかった。
その理由に心当たりが無いわけじゃない、でも僕はそれを認めたくなかった。
「戻ろっか」
円はそう言うと立ち上がり僕に手を差し伸べる。
本来ならば逆じゃなくてはならない……男の僕が先に立ち上がり、円に手を差し伸べなくてはならない。
でも……僕にはそんな簡単な事さえ出来ないのだ。
情けなく、悲しい気持ちが込み上げる……でも円にはそんな気持ちを悟られない様に僕は精一杯強がる。
何事なかった様に受け止める。
彼女をこれ以上不安にさせない様に……。
◈◈◈
その夜、何か眠れなかった僕は隣でグーグーと眠る妹を起こさない様に静かに部屋を出るとキッチン向かった。
そういえば……妹は毎日普通に寝ているな?
こっそりキサラさんの部屋に行くと思っていたのに。
そんな疑問を抱きつつキッチンの扉を開ける。
ひっそりと静まりかえるキッチン、僕は電気も点けずに冷蔵庫を開け中から牛乳を取り出す。
残り少なかったので、パックの牛乳をコップに注ぐ事なくそのまま飲む。
キッチンのエアコンは切れている為か、冷蔵庫の扉から流れる冷たい冷気が心地よく感じられた。
牛乳を一気に飲み干し、パックをシンクに入れるかゴミ箱に捨てるか悩んでいたその時、キッチンの扉が開く。
「……君か」
「キサラさん」
開けっ放しの冷蔵庫の明かりがキッチンをうっすらと照らしている。
彼女はピンクのハート柄のパジャマ姿で驚く様子もなくキッチンに入ってくる。
「……ああ、残念天ちゃんじゃなかった~~か」
忘れていたキャラを思い出したかの様にわざとらしくそう言うと、彼女はシンクの蛇口を捻り流れる水にそのまま顔を突っ込み豪快に水を飲み始める。
僕はそんな彼女を横目に冷蔵庫を締めゆっくりと扉に向かった。
そして彼女に挨拶をしてから立ち去ろうと扉の前で一度振り返り彼女を見た。
彼女は喉を鳴らし水を何度か飲むと、パジャマの袖で顔を拭いながら僕の方に振り向く。
そして、そのままシンクの縁に腰を当て寄りかかる様にしながら、僕をじっと見つめた。
また天の事でも聞くのかと身構えていると、彼女はまたもやキャラを忘れたかの様に、真剣な顔つきで僕に言った。
「いつになったら彼女を許すの?」
「え?」
「マドカを許す気があるのかって聞いてるの? 円を利用して、使うだけ使って最後は捨てる気? ……それが貴方の復讐?」
暗闇の中、キッチンの窓から差し込む僅かな月明かりに照らされ、キサラさんは真剣な顔のまま、しかし悲しそうな目で僕をじっと……見つめていた。
そしてその言葉を聞いて、さっきの冷蔵庫の冷気の様な風が、ひとすじの冷たい風が僕の心の中に吹いた。
冷めていた心の一部分が……僕が隠しているあの場所が、あの思いが凍りつく様に……。




