逆行王子の憂い
「ああ。愛しのアイギス」
僕はとろけるような笑みを浮かべ、アイギスの指先に、恭しく唇を落とす。
何年経っても、新婚のように初々しい関係を続ける僕らを、みな、にこやかに見つめていた。
僕は終生アイギスを愛し抜き、その人生を終えた。
幸せな。とても幸せな一生だった。
アイギスの幸せを守り抜けたことの充足感、アイギスと共にあれたことの充実感。
一片の悔いもなく、僕は一生を終えた。
はずだった。
目が覚めると僕は、幼い。そう、あの忌々しい婚約者を据えられたばかりの頃に戻っていた。
婚約前であれば、どんな事をしてでも、あの女を婚約者になどしなかったのにと忌々しさが募ったが、すでに整った婚約を、僕ごときがどうにか出来るはずがなかった。
しかし、一度生きた人生だ。楽に過ごせるだろうと、僕は高を括っていた。
蓋を開ければ惨敗。幼い頃に習ったことだからと、自分に言い訳したものの、ならば、一番記憶のある頃の勉強はどうだと、学院に通っていた頃のものを見るも、さっぱりとわからない。
恐ろしくなって、僕は必死に、死ぬまでの玉座についていた頃を思い出そうとしたが、アイギス以外、すべてが曖昧だった。
僕は震えそうになる体を必死に抱きしめながら、父との面会を頼んだ。
執務に忙しい父の時間をとるのは少しばかり気が引けたが、背に腹は代えられない。
僕は今にも途切れそうになる意識を必死につなぎ止めながら、父である王に問いかけた。
「王であるのに、民のことを何一つ知らない王などいるのでしょうか?」
突然の問いかけに、父はいぶかしむ表情を浮かべながら、厳かに告げた。
「そう言う王もいるやもしれん。だが、そのような王は愚かとしか言えまいな」
「愚か?」
「そうだ。王とは民を統べ、国を守るものだ。その守るべき地にいる民を知らず、なにを統べ、なにを守るのだ?」
父の言葉に、息が詰まる。玉座にあった僕は、ただ玉座に座っていただけで、王ですらなかったのだ。王とは名ばかりで、むしろハリボテの方がましだったのではなかろうか。
がたがたと震える僕の姿に、父はそっと僕の体に触れてきた。
「何かあったなら、言ってみよ」
柔らかな声に、僕は少しばかりのためらいを見せたあと、堰を切ったように話し出した。
夢を見たのだと言って、愚かしい人生を終わらせた、前でありながら、未来である僕の話を。
父はなにも言わずに、僕の話を聞いていた。最後まで僕が語り終わると、そっと頭をなでられる。
こんなことをして貰ったのは、いつぶりだろうか。
「その夢を恐ろしいと思えるのならば、おまえはきっと、良き王になれる」
僕が恐ろしかったのは、人生ではなかった。なにも覚えていない。あれだけの人生を生きたというのに、アイギス以外、なにひとつないことが恐ろしかった。
だって、それは、アイギスがいなければ、僕など存在していないということなんじゃないかと思って。
「しかし、闇雲に恐れてはいけない。なにが恐ろしいのかをきちんと学ぶのだ。そのためにおまえには教師をつけ、学ばせているのだ。恐ろしいと思うのならば、教師たちに問いかけよ。そして、恐ろしい何かが、漠然としたものでなくなるまで、学ぶのだ」
「はい」
父の言葉に、僕はうなだれながら、そう答えた。
アイギスに会うまでには時間がある。
幸い僕はなにも覚えていない。それならば、一から学んでいこう。
それからの僕は、文武共に必死に学んだ。あまりにも僕はもの知らずで、それなのに、利口なふりをしていたのだと、思い知らされた。
知ろうとすれば、学ぶことは多すぎて、時間が足らない。
気が付けば婚約者とのお茶会などもすっかり忘れていて、とうとう本日、母に呼び出され小言を貰った。
「あなたが学ぶことに目覚めたのはよいことと、放置しておりましたが、さすがにこれ以上は放置できません。あなたは婚約者というものを、そこいらに置いてある置物と同じだと思っているのですか?」
二ヶ月、僕は手紙の一つも出さず、贈り物の一つもせぬまま、婚約者を放置していた。マナーとして、婚約者に対する態度ではないと、今の僕はわかる。
「すみません。本日、文を認めます。いつ頃なら誘うのに妥当でしょう?」
マナーの勉強もやっと基本的なことが終わったばかりで、誘う文は書けるが、妥当な日程などはよくわかっていなかった。
さすがに今日の明日が非常識なのは分かるが、ならば、いつ頃が良いのかと問われるとわからない。
「今まで月一で誘っていましたから、そのくらいが妥当ではないかしら? でも、手紙だけですませるのではないわよ」
母に念を押され、僕は苦笑する。
「二ヶ月放置していたお詫びと、ものよりは、花、でしょうか?」
「近況を知りたいと添えて、ペンなどを贈りなさい」
髪飾りなどの装飾品は、物によってはドレスの新調と言うことにもなる。
文具であれば妥当だし、君のことを蔑ろにしているわけではないというアピールにもなる。
あまり大きくない花束とペンを贈ることにして、母の元を辞した。
正直な話、婚約者との時間は無駄なのではないかとも思った。なぜなら、僕はおそらくアイギスを愛しているから。
アイギスに会えば、僕はアイギスを求めるだろう。
ならば、婚約者と仲良くするなど、意味がないのではと思った。
だから、僕は教師の一人に、婚約を白紙に戻すことは出来るのかと問いかけた。
それに対して、教師は難しい顔をしてから、一つお尋ねしますと前置きをして、こう言った。
「殿下、政略という言葉をご存じでしょうか?」
「政治的な絡みのある事柄、かな?」
「もっとかみ砕けば、利害の一致とでも言いましょうか。殿下がどの婚約を白紙に戻したいのかは存じませんが、殿下の婚約を例に取れば、彼の侯爵家の功績に対しての褒美でもあります。口さがなく言わせていただければ、金銭でまかないきれないため、婚約者とすることで、王家として蔑ろにしているわけではないと、立場を示したわけです」
侯爵ともなれば、おいそれと爵位も上げられず、かと言って、功績に見合う金銭も払えない。だから、王族と婚姻させた。取り立てたとでも言うのだろうか。
「侯爵家からねじ込んできたのではないのか?」
前の僕は、そう思っていた。王妃にさせたい、もしくはなりたいと、侯爵家から言ってきたのだと。
「とんでもございません。侯爵家には殿下の婚約者になられたご令嬢以外のお子はおりませぬ。子煩悩な侯爵様は、ゆくゆくは婿をとらせ、侯爵家を継がせるおつもりだったとか」
「侯爵はもとより、娘も僕との婚約は望んでいなかったのか?」
「少なくとも、私の知る限りでは、殿下の婚約者になるつもりはなかったかと」
王家、父からの言葉がなければ、侯爵という地位にありながら、一人娘と言うことで、候補からも辞退していたのだろうと、教師の言葉から察せられた。
「ならば、僕が、破棄などしたら、どうなるんだろう」
王家からの打診で望まぬ婚約を強いられていたというのに、一方的に破棄などと言われたら、王家としても、打診された侯爵家としても、そう簡単に済ますことは出来ないだろう。
「最悪を申し上げれば、侯爵家が国の簒奪を目論むこともあり得るかと」
そう言われ、僕は、僕のあの頃の様子を思い出す。なにもせず、王とは名ばかりの玉座に座り、アイギスとだけの幸せに浸っていた。あれは、侯爵に全て奪われていたのではなかろうか。
僕に残されていたのは、名ばかりの地位。しかし、アイギスだけがいれば良かった僕は、なにも見ていなかったのではないか。
僕は、僕は本当に幸せだったんだろうか。
はじめて僕は、死に際のあの幸福感に疑問を抱いたのだった。
花束と、ペン、そして、謝罪の手紙を送ってから、早一ヶ月が過ぎた。
今まで交流らしい交流もしていなかったので、手紙の返事が来ても、当たり障りのないことしか返事が出来ず、一通返事を返したところで次の手紙に返事は書けずじまいだった。
そうして無為に時間を過ごし、今日は、あの婚約者が登城してくる日だ。
あれから、父とも話をし、僕が考え違いをしていることを知った。逆に父に、どうしてそんな勘違いをしていたのだと問われ、しばし首を傾げた。切っ掛けはなんだっただろうか。
「確か、侯爵家は酷く傲慢なのだと聞いたのです」
とてもとても傲慢で、なにもかもが自分たちの思い通りにいくと思っているのだと、そんな話しを聞いたのだ。
「それで?」
問いかけに、僕は、それを聞いて、思ったことを口にした。
「この婚約は、侯爵家が傲慢にもねじ込んだ婚約なのだと思ったんです」
金に飽かせたか、何かは分からないが、あくどい手段を使って、王妃の座に娘を着けて、王家と縁続きになりたいと思っているのだろうと思っていた。
「確かにその言葉だけでは、そう思っただろうな。まだお前は幼いと、この婚約の意味を告げていなかったしな」
大切なものだとは聞いていたが、その中の意味合いまでは、聞いたことはなかった。優しくしてやれ、気に掛けてやれとも言われたが、それほどまでに、気を使わねばならないほどに、彼の侯爵家が、幅を利かせているのだとしか思わなかった。
こうして知識を蓄えてきた今となっては、何ともお粗末なことだと思う。
「でも、今思えば、誰でもいいから、問いかければ良かったのだと思いました。僕はなにも知らないに等しいのだから、誰かの一方的な言葉だけを信じ込んではダメなんだと」
「そうだな。知らないことは、聞けば良い。そして、お前は、それを聞いた。正しいことを知って、今は婚約者とどう向き合うべきだと思う?」
静かに問いかける父の言葉に、僕はすぐに答えることは出来ず、考え込むと、一つ一つ、言葉を選びながら、答えを口にした。
「話を、しようと思います。それで、彼女が僕のことを好きになれないなら、この婚約を白紙に戻して上げたいです」
「気の乗らない婚約は、褒美にならないと、お前は言うのだな」
「少なくとも、僕の今の考えはそうです」
「そうだな。一人娘故に、難色を示していたのをなんとか婚約に漕ぎ着けさせたという経緯はあるものの、過ごすことが難しいほどに互いがいがみ合うようであれば、お前の言葉も一考せねばならないだろう。ただし、それは、お前がかの令嬢とよく話をし、それでも互いに受け入れることが出来ないと分かったときだ」
一考はするが、やるべきことをやった後だと言われ、僕は確かにと、一つ頷いた。
彼女のことは、僕は何一つ知らない。どんなことを楽しむのか、なにが好きなのか、僕のことをどう思っているのか。
僕は、前の僕は、僕のことしか考えず、彼女の気持ちなんて、思いつきもしなかった。彼女だって、僕と同じように泣いて笑うはずなのに。
「ちゃんと、彼女を知って、歩み寄れるなら、歩み寄ります」
高慢ちきで、鼻持ちならない令嬢と、勝手に決めつけていた。手紙の返事を見る限り、そんな風には見えない。代筆と言うこともあるので、一概に手紙の雰囲気だけで判断は出来ないけれど。
今日は天気が良いので、庭に準備をしてもらい、椅子に腰掛け、些か緊張しながら彼女が来るのを待った。
「本日は、お招きありがとう存じます。殿下」
ゆったりと優雅に一つ、彼女はお辞儀をした。綺麗な所作は、さすが侯爵の令嬢といったところだろうか。
一瞬呆けそうになったが、椅子を勧めると、彼女は引かれた椅子に座り、じっと僕を見詰めた。
「今日は来てくれてありがとう。僕は、この三ヶ月、勉強をしていたんだ。僕は本当に物知らずで、実は、君のことも誤解していた」
初めは、しらばっくれて、何事もなかったかのように、話そうかと思った。けれど、それをするには些か時間を空けすぎてしまったと思う。
だから、僕は、取り繕うことを止めて、素直に、自分が思っていたことを口にした。
「その、君が強引にこの婚約を望んだと思っていて」
「どうしてそのような?」
何故そんな勘違いをしたのか分からないという顔をしている彼女を見れば、彼女は正しくこの婚約の意味を知っていたのだろう。
知らずとも、問いかければ、簡単に分かることだ。蔑ろにされていれば、さすがに何かがおかしいと、父である侯爵に問いかけたのかも知れない。
「言い訳になるのだけれど、僕は、父に、この婚約の本当の意味を教えられていなかった。だから、周りが、侯爵家を傲慢だと噂しているのを鵜呑みにしてしまっていたんだ」
「けれども今は正しくこの婚約の意味をお知りになったのですよね。それで、どう思われたのです?」
「僕の態度は褒められたものではなかったと思う。傲慢な人間だと思っていてでさえ」
気に入らない相手であれば、何をしても許されるなんて事はない。そんなことをすれば、無法と同じだ。
僕は、そんなことすら気が付いていなかった。
「それで、とても、言い辛いのだけれど、今日この日から、やり直させて貰えないだろうか。僕は、もっと君を知り、君と寄り添えるようにがんばっていこうと思う。それでも、僕とはやっていけないと思うのであれば、僕は父にこの婚約を白紙に戻して貰えるように進言するつもりだ」
そこまで言い切って、恐る恐る彼女を見ると、見たことのない柔らかな表情をして、そして、今まで聞いたことのない、柔らかな口調で、彼女は言った。
「ご自身のこと、私のこと、沢山考えてくださったのですね」
その口元には、淡い笑みが浮かんでいる。
彼女はこんな風に笑う人だったのだと、初めて知った。
「分かりました。今までのことは、無かったことにいたしましょう。今日この日が、私達の初顔合わせの日でございます」
そう言うと、彼女は、椅子から立ち上がり、先ほどよりも、深いお辞儀をした。
「お初にお目に掛かります、殿下」
律儀に彼女は初めての言葉から、はじめてくれる。
僕は、きっとアイギスに心を奪われると思う。あんなに慈しんだのだ。会えばきっと囚われるだろう。
けれども、きっと、今度は違う未来になると思った。
だって、目の前に居る彼女は、少しはにかみながら。そう、少し大仰に仕切り直してしまったことに照れるように、頬をバラ色に染め、僕の返事を待っている。
「初めまして」
僕たちは、この日、はじめて本当の意味で知り合いになった。
アイギスに会うその日まで、どれだけ親しく、互いを知ることが出来るのだろう。
少なくとも、前の僕のようなことにはならないことは、確かだろう。だって、今の僕は、前とは比べものにならないほどに、様々なことを知った。
知った上で同じ結末を迎えたのだとしても、それは、決して同じではないのだから。
婚約破棄して、別のこと結婚した王子が、逆行して、逆に人生やり直したらどうなんのかなーと思って、書いてみました。
なんか、婚約者の座を奪った女の子の名前しか出て来ないという、とんでもないことになっていますが、これは仕様です。
王子の名前と、令嬢の名前や家名を考えるのが面倒だったとか、そういうわけでは。
なんか、妙に優しい世界になっていますが、まあ、ポンコツなので、許してあげてください。