なりそこない
――神さまの御名を呼んではいけないよ。
――山の上の祠の扉を開けてはいけないよ。
――真っ黒な神さまのお姿を、歪めてはいけないよ。
――神さまをうつす鏡だからね。けっして、人の姿を映してはいけないよ。
××県山間、草次村。時代に取り残されたような、山にへばりつくように小さな家々がぽつぽつと点在する、年寄りの多い小さな山村だ。
雑草がのびのびと繁茂する縁側で、日に焼けた少年が一人、膝に絆創膏をはった足をぶらぶらとさせて蝉の声を一つ二つと数えていた。
「あ~あ、暇だなあ。おれにもにいちゃんがいればな~」
これと言って産業に特徴のある村ではないが、草次村は非常に双子の多い村だ。しかし、晶自身は珍しく一人っ子。
晶の父には双子の弟がいるし、近所のおばさんやおじさんもそうだし、都会の街の高校に通う少し年上のお兄さんたちも、まだよちよち歩きの年下の子供たちもそうだ。
兄弟がいれば晶も、この長い夏休みを持て余すことはないと思う。けれど、その退屈ももう少しでオサラバだ。
ウツシ祭。
草次村で数年に一度行われる祭りで、八月の新月の夜に神さまの鏡を新しい祠に遷す儀式だ。晶にとっては記憶にある限り二回目の祭りだ。
この時期には外に出ている人たちが一斉に帰ってくる。晶と仲の良い、少しだけ大人の少年たちも土産話を携えて帰ってくるだろう。
両親の話では、そろそろのはず……、と一人楽しみにしていると、折よく晶を呼ぶ声がした。
「よ、久しぶりだな、晶」
「零介兄ちゃん! あれ? 礼輔兄ちゃんは?」
零介は晶より頭一つ分背の高い、猫のようないたずらっぽい面差しの少年だ。
隣――といっても、数百メートルは家が離れている――に住む二つ年上の幼馴染。彼にはいつも行動を同じにしているおなじ名前の弟がいるが、今日は姿が見えない。
家で休んでいるのだろうか。そう思って零介に尋ねると、彼は不思議そうに首を傾げた。
「ん? ……、いや俺だろ?」
「いや、ほら。零介兄ちゃんに弟いたじゃん、同じ名前の」
「なに言ってんだ? 俺には兄弟なんていないぜ。暑くて頭がやられたのか?」
「そう、だっけ」
零介が心底不思議そうにするので、晶にも『礼輔』という人物がいないような気がしてきた。思い出そうとしても、靄がかかったように顔も思い出せないし、声も思い出せない。
些細な違和感は零介に話を変えられてたちまちに消えてしまった。
「にしても、暇そうだな」
「そりゃあ暇だよ。やることなんて草むしりくらいしかないしさ。ね、ね、町の話をしてよ」
晶の横に腰を下ろした零介に話をせがむ。指摘された通り、暇でしかたがなかったし、村にいてはわからない話を待ち焦がれていたのは事実なのだ。
「そうだなあ。あ! 高校でよくつるむやつらがいるんだけど、夏休み前に肝試しに行ったんだ」
「肝試し?」
「学校のそばに曰くつきの霊園があってさ。そこの一番奥の墓にまんじゅうを供えるんだよ。交代でお化け役やってさ、みんなビビっちゃって!」
身振り手振りを交えて語る零介は実に楽し気で、晶も自然と前のめりになる。
「がさがさってほんの少し茂み揺らして、身構えたところを後ろから触ったときが一番反応よかったな。どっから出てんのかわかんない声をあげるんだぜ。……キャーーーーーッ!」
いきなり耳元で甲高い悲鳴をあげられて、晶はびくっと肩を揺らした。それを見て零介はカラカラと笑う。
意地の悪いのは昔からだが、晶はムッとしてしまう。悪い悪い、とまったくいい加減に謝って、彼は懐かし気に目を細めた。
「ははは、びっくりしたか。ま、ガキのころやった祠参りのほうが怖かったけど」
「祠参りって、まさか」
ニッ、と笑う零介に晶は慄いた。
祭りの夜にしか開けてはいけないと、村人たちに散々に言い含められている祠が山の中腹にあるのだ。
――神さまの御名を呼んではいけないよ。
――山の上の祠の扉を開けてはいけないよ。
――真っ黒な神さまのお姿を、歪めてはいけないよ。
――神さまをうつす鏡だからね。けっして、人の姿を映してはいけないよ。
それを零介は鼻で笑ったのだ。
「想像通りだと思うぜ。山の上の祠の中には鏡があるんだけど、それを覗いてくるんだよ。みんなやってるぜ?」
「ええ。でも、祭りのとき以外は覗いたらダメだって父さんたちが言ってたよ?」
「へーきへーき! オレも見たけど、この通りなんもなかったぜ! ……まさか、晶、怖いのか?」
「べ、別に怖くなんかないやい!」
「へえー?」
「い、今から行く!」
晶には村のしきたりをものともしない零介がひどくかっこよく見えたし、にたにたと「どうせできないだろう」と高を括っている零介を見返したかった。
晶は零介に啖呵を切って、サンダルのまま祠へと続くあぜ道を走り出した。
草が両脇に生い茂る、急こう配の斜面に一人通るのがやっとの細い参道。
汗で滑るサンダルで、長い影を作る鳥居をいくつもくぐる。
鳥居は赤から黒へと色が変わりゆき、黒く蒸す杉の木々に埋もれそうな小さな祠がある。
上がっていた息をごくりと飲みこんで、真新しい祠の前に膝をつく。
――神さまの御名を呼んではいけないよ。
――山の上の祠の扉を開けてはいけないよ。
――真っ黒な神さまのお姿を、歪めてはいけないよ。
――神さまをうつす鏡だからね。けっして、人の姿を映してはいけないよ。
その扉は、滑らかに開いた。
中を黒く塗りつぶされていた白木の祠には、黒いクッションとそこに鎮座した銅の鏡があった。錆一つないその表面を覗きこめば、よく見慣れている自分の顔が見えた。
これで零介に馬鹿にされることもないと、ホッとしたのも束の間。
「ヒッッッ!?」
鏡の中の自分の顔は上機嫌に笑っていた。音もなく笑っていた。
ひきつった口元を手で覆い隠し、一歩後ろに後ずさるのに合わせて、それは鏡の方へ身を乗り出した。
伸びた指先が境界を越えて輪郭を失いぼたぼたと地面に黒く垂れた。
ひどい匂いだ。腐った沼の匂いが足元に転がった。
『yあh%』
もぬけの鏡の前で、へその緒のような、生臭さを伴った何本もの黒い紐状になったそれは、絡まり縒り合わさりながら晶の身の丈とさほど変わらぬ高さまで伸びあがり、声のなりそこないが斜めに開いた口からこぼれだす。
しわくちゃの頭部が、もごもごと蠢いて今度ははっきりと音を並べた。
『a――a――a、yヨ、ロ、シ、kク』
「――――ッ!!!」
晶の視界と思考は、ぶつりと黒く途切れた。
なんだか眩しい。
何度か瞬いて、やがて黄ばんだ天井に白い輪っかが像を結んだ。
「ハッ」
蛍光灯を認めて晶は身を起こした。ブランケットが膝に落ちる。
居間だ。あの恐ろしいものは夢だったのだろうか。
ちゃぶ台をはさんだ向こうで、母はバラエティー番組を見ていた。無遠慮な笑い声の効果音が、夏の静けさに虚ろに響く。
「あ、目が覚めた。ずいぶん魘されていたわよ」
特に晶を心配した様子もなく、煎餅を手ごろな大きさに割ってつまんでいる。
いつも通りの光景に、ホッと胸をなでおろし、晶も茶請けに入っている煎餅に手を伸ばした。が、続く母の言葉でその手はぴたりと止まる。
「もう、祠の前で倒れてたって鏡から聞いてびっくりしたのよ」
「あきら?」
この村に「あきら」は晶しかいないはずなのに、母は明らかに同じ名前の別人が倒れていた晶を見つけたと言うのだ。
「晶のお兄ちゃんでしょ。忘れたの? 頭でも打ったのかしら……」
「え……」
晶は絶句した。晶には兄はいない。昨日まで、零介と話していたときまで、晶は確実に一人っ子だった。
晶に向けられた心配そうな母の顔が、有りもしないはずの記憶が、晶には同じ名前の兄がいたと訴えかけ、存在を上書きをされる恐怖に吐き気を催した。
「顔色が悪いわ。お風呂入ったらもう寝なさい。遅いから。一応、明日はふもとの診療所に行きましょう」
「ウン」
口を押さえて、晶は居間を出て自室のあるほうへ向かった。
風呂には到底入る気分ではなかった。たしかに酷い寝汗で体はべとついていた。しかし、裸になりたくなかったのだ。
廊下に細く伸びる光に、ふと足を止める。
晶の自室の一つ奥から漏れているようだった。
「……部屋が増えてる」
自分の部屋は廊下のつきあたりにあったはずだ。
せりあがる違和感に、晶は裸足のまま、窓を開け放って夜へと飛び出した。
カサカサと背の高い草がやみくもに走るすねを切った。もつれる足の裏に小石がささって痛かった。慣れた隣の家までがいやに遠い。自分が息を吸っているのか吐いているのかよくわからないまま、転ぶように零介の庭に転がり込む。
『どうした、晶。ずいぶん慌てて』
「ひ」
昼間も聞いたその声に安堵して、晶は顔をあげた。その瞬間、あがりかけた悲鳴は両手でかろうじて封じた。
零介の声をしたものは、体のほとんどが黒い蠢く蟲の集合体のそれだった。ぼたぼたと一部が落ち続けているのに、一向に大きさはかわらず、零介を保っていた。
晶は四つん這いで逃げ出した。
安全な場所を探して村中を駆け抜けた。
何組もの人間と化け物が語らっていた。
今日の夕飯の話だとか、家族の帰省の予定だとか、今年の山の実りの話だとか、つまらなくて平凡な話をしていた。
幼いころから晶をいつくしみ、晶もまた慕っていた村人の声をして、口々に晶に話しかけるのだ。『そんなに急いでどうしたんだい。靴も履いていないし、傷だらけじゃないか』と。まるでいつも通りに。
晶の目は明らかな異常を訴えるのに、人間に見える数人の村人たちは平気な顔をして過ごしている。人間に見える彼らも化け物なのではないか。自分がおかしいのか、周りがおかしいのか。
隠れるように村の端の茂みのなかに膝をついて倒れこんだ。足元がぐらぐらとして立っていられないのだ。
「オ、エェェ……」
悲鳴は飲みこめても、内臓は裏返らんとせりあがり、酸がびちゃびちゃと覆った手から零れおちる。
息も整ってないのに、澄ましてもない耳は、さく、さく、と大きくなる草を踏む音を拾う。
『アキィ、ラ?』
耳を舐めるいびつな猫なで声。
振りかえってはいけない。
そう思うのに、晶は振り返ってしまった。
「く、くるなよ……」
『ひどイ』
大きさは確かに晶と変わらないだろう。形も、同じように見える。だが全身が真っ黒だった。
晶の影が黒々と渦を巻きながら、のっぺりと立ちあがって、高いところから見下ろされているような錯覚に陥る。
じりじりと後退り、その分だけ近づかれる。どん、と背中が木の幹を打った。
「くるなって言ってるだろ! バケモノ……!」
『自分の兄に対して何を言っているんだ!』
必死に追い払おうと声を張る。そこへ父の声が近づいてきた。
助けが来たと思ったのは一瞬だった。
「父、さん……?」
『母さんに聞いたが、本当に頭を打ったんじゃないだろうな。明日はふもとの町の病院に行こう』
「ヒッ」
言葉は耳慣れた、晶を心配する父の声。晶に向かって伸ばされた大きな腕は、びっしりと黒光りする針に覆われ、胴ほどもありそうな、大きすぎる腕であった。
鋭利な爪が生えた六本の指が、晶の心臓に向かって差し出された。
喉がとうとうか細く引き攣れた。その様子をみて、兄だという異形も腕を差し伸べた。
『カエろうよ』
いつまでも手を取らない晶に怒ったのか、化け物はむんずと晶の腕をとって引っ張った。
『おなかがすいたんだ』
どんどん滑らかになる言葉に見合うように、一部の影がぱりぱりと剥がれ落ちてすべらかな口元が現れた。
――食われる。晶は瞬間的にそう悟った。
◆
晶はその夜から、生来の明るさを失った。
注意深く観察して、村の誰も、晶と同じものが見えていないのだと確信してしまった。
得体のしれないものが常にそばにある恐怖に、それに気づかずに過ごしている人間たちを信じられない不安に、常に晒されればそれも仕方がないだろう。
晶は自分がおかしくないという証拠を探して、ふもとの町の資料館で草次村に関わるような言い伝えを調べつくした。
何も見つからなかった。
双子が多いなんて統計も、もちろんなかった。
鏡にまつわる古今東西の逸話も漁った。
化け物がこちらにいる条件は鏡ではないか、そうあたりをつけて割ろうとしたことはある。
祠に戻って金槌を振りかぶっても割れなかった。化け物はそれを止めるでもなく、晶の背後に立ってその様子を見ていただけだった。
◆
高校は東京の、草次村なんて誰も知らない学校に進学した。晶はとにかく化け物だらけのあの村から遠ざかりたかった。
今まで放置していた勉強を必死にして、バイトをしてお金を貯めて、ようやく離れられたと思った。
けれど、化け物は晶についてきた。両耳と口元以外が黒く塗りつぶされた自分のなりそこないが、何食わぬ顔をしてありふれた教室に混ざっていた。周りの生徒たちは、なんでもそつなくこなすソレをもてはやしさえした。
晶は内心荒れていたけれど、解決策を求めて図書室に入り浸って伝承を浚うことは続けていた。いつも窓際で静かに本を読んでいる図書委員の女子生徒だけが、晶にとっては癒しだった。
兎の栞をそばに置いて本の世界に浸っていて、兄を装ったモノに左右されるような人には見えなかったのである。
会釈を交わすだけの同級生だったが、晶にとってはかけがえのない希望だった。
じゅる、ごきゅ、ごきゅ。
高校二年目の春、晶が借りている狭いアパートメントに帰ると、化け物は音のないテレビを見ていた。
晶は今日はついていないと嘆いた。化け物はふらふらとどこかを彷徨っては土産という名のガラクタを持って帰ってくる。晶が借りているこの部屋にいることは、そう多くはない。
今日のようにまれに部屋にいるときは、晶がいようがいまいが、起きていようが寝ていようが、膝を抱えてじっと中古のテレビを見ている。
「お前、なに見てるんだ?」
『踊り食いだってえ』
たしかに、画面にはびちびちと跳ねる小魚がアップで映っていた。祭りだろうか、老若男女がひしめき、液面が跳ねる小さなカップを買っている。小魚とはいえ、生きながら箸に挟まれて啜り食べられる姿が、かわるがわる映る。
『ぼくも最近やったんだ。おなかの中でもがくの。笑っちゃったあ。あれがくすぐったいってことなのかな』
「さあ、知らね」
旅行にでもいって実際に食べたのだろう。
特に興味をおぼえなかった晶は何かから隠れるように、丸くなってベッドに潜りこんだ。
週が明けた月曜日、いつものように図書室へ赴くと、窓際の席に静かに座っている女子生徒がいなかった。最初は体調でも崩したのだろうと思った。去年もそのようなことがあったからだ。
けれど彼女がいない日が半月も続けば、さすがにおかしいと晶も気づいた。今年の彼女のクラスはどこだったか。他のクラスの図書委員を尋ねればいいだろう、と晶は尋ねて回ることにする。
「図書委員はいるか?」
「あー、誰だっけ」
「そもそもいたっけ?」
しかし、二つ隣のクラスには図書委員がいなかった。出入り口のすぐそばの席に、ポツンとある空席がたまたま目に入った。
机の中に入っている栞は、見知った兎の形をしたもの。
「なあ、この席、誰の?」
「んー? 誰のものでもないぜ。たぶん先輩の荷物がそのまま入っているんだと思う。学期末の大掃除の時に始末するって担任が言ってた」
「……そう。ありがとう」
思い出すようにあごに指をそえる男子生徒にお礼を言い、晶は足早にその場を去った。
その放課後、晶は化け物を問いただした。無垢に見返す目が、晶には不愉快だった。
「別のクラスの女子が、いなくなった」
『ふーん』
「食った?」
『最近一匹、食べたかなあ。あんまりおいしくなかったや』
「お前……!!」
怒りに任せて胸倉をつかんでも、相手はきょとんとするばかり。言いようのない悔しさに、晶は歯噛みした。
何を言っても無駄だと、内心で悟るのは早かった。そのまま突き飛ばして、誰もいない校舎で彼女の机の中を見る。
「――――さん、――――さん、――――さん。ごめん、ごめんね」
教科書に書かれていた彼女の名前を、忘れないように刻みつけるように何度も唱える。昼間の彼女のクラスメイトの様子を考えると、教師や彼女の親も彼女を覚えていないだろう。
晶が偲ぶことができる彼女が存在した証拠は、きっともう、机に置き去りにされてゴミ扱いされている私物だけなのだ。
『たのしい?』
「そうだな」
晶は覗きこむ化け物を適当にあしらって、図書室の窓から見える校庭の一角の桃の木の根元で、抜き取った兎の栞を灰にした。明日は花を供えて線香を焚こう。
後日、生徒名簿を確認してそれを教師に指摘したけれど、首を捻られて彼女の名前が削除されただけだった。
人が一人いなくなっても、晶は変わりなく生きている。
◆
化け物はだんだんと人間に擬態するのが上手くなった。身体の表面を覆う黒が剥がれ、顔には鼻ができ額が現れていた。しかも、人間たちを模倣して同じ行動をとりはじめたのだ。
このままいけば、化け物は人間を学習して完全に社会に溶け込み、人知れず人を食べ続けるだろうというのは想像に難くなかった。
晶が恋になる前の淡い憧れのようなものを抱いた相手が、あるいは晶に好意を寄せた相手が次々と消えていき、存在を忘れられているのだ。
大学が夏の長期休暇に入って、晶は化け物の殺害を試みた。
一日目、部屋で練炭を焚いた。
二日目、寝込みを襲って異形全集で側頭部を思いきり殴った。
三日目、腹に包丁を刺したら折れた。
四日目、化け物の首にまわしたロープはすり抜けた。
五日目、首を押さえつけて風呂に沈めた。晶の指がふやけただけだった。
六日目、構内の一番高い建物の屋上から突き落した。べしゃりと波打って広がったかと思ったらすぐに収束して元に戻ってしまった。
七日目、タバコを煮詰めて料理をつくってやった。『悪くない味だねえ』というコメントをもらった。
それだけやっても、化け物の表面の黒の面積が多少増えて鼻が半分ほど隠れただけだった。
『僕はまだ、君じゃないから死なないよ』
何をどうやっても殺せなかったので、晶は次に自殺を試みた。
鏡を媒体とする存在であることはわかっているので、おそらく自分の存在が化け物がこちらに存在するための条件の一つなのだろうとは前々から考えてはいたのだ。
だが、死のうとすると化け物は側に現れて邪魔をしてくる。新品の包丁をなまくらに変え、ロープをずたずたにし、煮かけのタバコは取り上げられてしまった。
夏バテで食欲がないことを幸いに餓死を図ろうとしたときは、さすがに手立てがわからなかったようで、化け物はさも困ったようにつぶやいた。
『僕が君を食べそこねたら、僕、ずっとコッチに残るよ』
晶が食われずに死ねば野放し。つまり、晶のせいで化け物は人間を殺し続けると言っているのだ。
そう脅されてしまえば、晶は死ぬに死ねなくなってしまった。そして、意外と人間を理解していることに驚いた。
『ご馳走、食いっぱぐれたくないの。待てができる僕、エラいでしょ』
「……僕の食べごろはいつなんだ?」
『まだまだ先だと思うな』
化け物は「褒めろ」とばかりに胸を張った。晶は舌打ちをした。
◆
ぴこん。
『今日さ、映画館行こうよ! 『スター・ナイツ』だって、行ってみたい!』
メッセージアプリにあいつからのメッセージが表示された。
「研究室の先輩がいなくなったから、行かない……、と」
返信をして、マナーモードに切り替えた端末をジャケットの内ポケットにしまう。
いつの間にか、晶は礼服を着ることが多くなった。目の前には持ち主を失った机がある。
勉強熱心な、瞳の穏やかな先輩だった。彼女が集めた貴重な資料は研究室の書棚に戻し――、否、寄贈して、いくらかあった私物はまとめて焼却場へともっていく。晶はさいごに華奢な花瓶に活けてあった紅葉を抜き取った。
とん、とん、とん、と外付きの非常階段を降りて、そばの大きな紅葉の木の下で、我ながら学習能力がないとため息をつく。
マッチを擦って彼女が最後に活けた紅葉に火をつけ、燃え尽きる直前に手を離す。細く白い煙にそっと手を合わせた。
ヴーヴー。
端末が震える。
『またあ?』
「またあ? ってお前が食ったんだろ」
『確かに最近も食べた気はする。なんかピンと来ない味なんだよね。僕が君じゃないからかな』
「僕の食べごろはいつ?」
『まだだよ~』
何度も繰り返した会話。
声にして文字にして交わした会話。
僕が食われれば、彼は鏡の向こうに帰るはずなのだ。
「食べごろって、どんな時なんだ」
『生まれた幸せを知ったとき』
『君は結婚しないの?』
「どの口がそういうんだ?」
その日は答えがあった。
幸せ。
晶はその言葉を反芻した。自分とは程遠いものだとひとりごちた。
『別に種を残すのに感情なんていらないじゃん』
「……しないよ。そのうちお前に寝取られるようなモンだろ。そんな趣味はない」
だんだん、アレと人間の見分けがつかなくなってきている。左目を残して、もうほとんど自分に見えるのだ。
自分ではないとしかわからない。何もできないまま、それに慣れてしまう。
時間がない。
「まだなのか?」
『まだまだ遠そうだなって思ってるんだ。だから映画行こうよ』
「はあ……、明日なら付き合うよ。今日はそんな気分じゃない」
『やった!』
何度も繰り返してしまった問いかけ。
それが是となるのは、いつなのか。
◆
しんしんと雪が降る夜だった。
居酒屋で二人酒を飲んだ帰り道。
晶はスリップしたバイクに轢かれた。おびただしい量の血が白い道路に広がってゆく。
少し先を機嫌よくスキップしていた同居人は慌てて駆けよって血だまりにしゃがみこんだ。わなわなと手を震わせて、赤い雪を晶のそばに掻きよせる。晶の礼服がさらに濡れるだけで、雪はいつまでも白くならず、晶は熱を失っていく。
なおグイグイと赤い雪を寄せる自分と瓜二つの相手に、最期を悟った晶はほほ笑みかけた。
「悪い、な。鏡、じゃあ、な」
初めて親から鏡と呼ばれたのだ。
その日、鏡は名前を呼ばれる幸せを知った。
その日、鏡は世界に独り立つ哀しみを知った。
『ああ。ああ……。アアアアアアア!!!」
その日、鏡は無力に怒りを覚えた。
両の目からはとめどなく液体が伝い落ちる。
鏡はついぞ楽しみを覚えることはなかった。
鏡は晶の骸をちぎって食べる。内臓をすすり、骨を噛み砕き、脊髄を吸い、髪の毛一つ残さず、その口に運んだ。
そうして立ちあがると、胃のあたりを押さえてふらふらと夜の町へと彷徨い出た。
――神さまの御名を呼んではいけないよ。
――山の上の祠の扉を開けてはいけないよ。
――真っ黒な神さまのお姿を、歪めてはいけないよ。
――神さまをうつす鏡だからね。けっして、人の姿を映してはいけないよ。
――人になってしまうからね。