白き魔女エイバスエンディアの仕返し
凍てつく冬の朝。
ミガスの冬はすべてを眠らせるように雪を降らせる。大地と木々を白い真綿で包み込み、静かに未来を約束するのだ。それがその者の死を意味しようとも、ただ優しく彼の者の上に積もり続ける。辺り一面の銀世界。それでも木々はその枝に氷を纏い美しく立ち続け、冬に咲く赤い花の蕾は朝の光を心待ちにして待っている。そんなしたたかな命を称えるように太陽が冷たい空気を溶かしながら舞い散る氷の破片をきらめかせていた。
そんな白く静かな世界。
「エイバスエンディア様」
重い声に振り向くと、黒いひげをもしゃもしゃ生やした臣下がいた。国王に近い大臣の一人だ。彼は緑の綿つめを着込んでおり、同じ緑のフェルト帽を被っていた。それに違い、エイバスエンディアは薄いドレス一枚である。
「せっかくお戻りになられたのに体を壊してしまいます」
人間とは柔い物。エイバスは思い彼に優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
そう、弱くて儚い。だから、私はこちらにいる。今もにっくき友人を思いながらエイバスは彼に答えた。
「王様はいかがお過ごしです?」
「はい、エイバスエンディア様がお戻りになられたとお聞きになられたところ、顔色がよくなられたようです」
でも長くない。
ミサに与えられた制裁が元でこの国を統べる王はもう長くない。命消えるその時までに戻ることが出来、良かったとは思う。ただ、死別というそれも別に特別なことではないのだ。人間の命は短く、彼の父もその父もエイバスは看取っていたのだから。
ミサに勝つということは出来ない。エイバスは悔しかった。だけど、黒虫になって戻ってきた時、国王の状態を知った時、魔術の解除を正確に行った時に悔しい気持ちはなくなっていた。
私はこちら側にいる。ミサのようになりたいわけでもない。
エイバスは遠い過去を思い浮かべていた。
魔術学園の学級委員長だったエイバスが問題児のミサに出会ったのは今朝と同じ朝だった。目が覚めて、のぞき込んだ窓の外は一面の白だった。その新雪降り積もる中、あしあとが一人分、森の奥へと続いていた。誰がこんな真冬の朝にあしあとをつけているのだろう。普段なら気にすることもないようなことに興味をそそられたのは、運命だったのかもしれない。いや、あの頃のエイバスならば、新雪に一番のあしあとをつけた自分ではない誰かを見つけたかっただけなのかもしれない。
エイバスの追うあしあとは森の奥に続いている。森はすべての音を雪に呑まれたかのように静かだったが、やはり今日と同じように、太陽が命を輝かせるようにして、空気中の氷を溶かして煌めかせていた。そんな中ミサは一人、凍てつく大木を見上げて突っ立っていた。耳当てのついた温かい帽子に手袋、鹿の皮の丈夫なマントを着るエイバスとは大違いの格好。ミサは毛糸の手袋と解れたセーター、彼女には大きすぎるブーツを履いていた。
「あなたが遅刻無断欠席ばかりのミサ・アンバーね」
たっぷりとした黒髪を大雑把に二つに分けて結わえている少女に向かい、エイバスは問いただした。学園にいるすべての魔女はこの私を見れば、背筋を伸ばし、言うことを聞く。
それなのに、ミサはその黒髪と同じ黒い瞳をつまらなそうに光らせると、エイバスの存在なんて忘れてしまったかのように空を見上げたのだ。
「ちょっと、無視する気?」
エイバスが詰め寄ってもミサは気にしない。無視だ。無視だ。無視。これは無視決定。ということは、制裁が必要ね。エイバスの辞書には相手を思いやるなんてことは載っていない。
「調子に乗ってると痛い目見るわよ」
警告を入れたのは、エイバスにとって珍しいことだった。もしかしたら、本能的にミサの危険を察知していたのかもしれない。
「あぁ、小五月蠅い小娘だね」
ため息をつきながらミサが動いた。まっすぐエイバスをにらみ返してきたミサの手にはエイバスが作り出した氷結の玉が握られていたのだ。
「あんたに返す」
声を掛けられていなければ、額に直撃していたかもしれない。エイバスは投げ返された氷結玉をただ呆然と受け止めたまま、去って行くミサの背中を見つめるしか出来なかった。
あの時も悔しかった。だけど、敵わなかった。
だけど、あの時ミサは何を見ていたのだろう。エイバスには今でも分からない。
凍った木々にまとわりつく氷だったのだろうか。それとも寒空を飛ぶ鳥だったのだろうか。
「エイバスエンディア様。凍えられては本当にお体に触ります」
何という名前だっただろう。白い息を吐きながら、短いまつげを凍らせて、それでも寒さに耐えるようにして立つ大臣を見て、エイバスは微笑みながらそんなことを考えていた。
「本当に私は大丈夫ですから。私よりもあなたの方が心配です。王にはまもなく会いに行くとお伝えください」
ミサなら、名前を大切にしているのかもしれない。人の名前を勝手にいじり倒すから。エイバスは凍えてしまいそうな大臣を帰らせて、あの時と同じようにその背を見送った。
二度目に出会ったミサはエイバスのことを「おい、ソバカス」と呼びつけたのだ。エイバスは真っ赤になりながらその鼻を慌てて左手で覆い隠した。
「おや、ソバカスじゃなくて、カスなのかい?」
にたりと笑うミサを見つめて、溜まらなくなったエイバスは叫んだ。
「何よ。黒髪ぼさぼさ頭のくせに。この、くそ魔女め」
エイバスは今まで使ったことのないような、野蛮な言葉を思わず吐き出してしまった。その時、ミサは『そこをどけ』と言ってきた。
もちろん、理由は言わない。
その後エイバスは華々しい成績を持って学園を卒業した。ミサはというといつの間にか、退学したのかさせられたのかという状態で、学園を去った。
風の噂でミサのことをよく聞くようになったのは、その百年後。森に住む黒き魔女の異名を持ち、人間に悪さをするのだ。しかし、その頃のエイバスはソバカスも綺麗に消し去って、若き天才、白い魔女ともてはやされていたので、さほど気にする暇もなく、気にする気もなく過ごしていた。
なんと言っても、人間の国王様の舞踏会に呼ばれたり、御子誕生の祝福を与えたり、お祓いをしたり、まじないをしたりして忙しかったのだ。
人間はエイバスが病を癒やし、戦を勝利に導く度に喜び、才能に満ち溢れるエイバスを褒め称えた。
魔女はそうやって未来を託す人間に寄り添って生きていく。魔女が導いた先にあるものが栄光であろうと滅びがあろうと。星の決めた歯車を動かすだけなのだ。
エイバスはあの時のミサと同じように空を遠く眺めた。青く蒼く遠く。宇宙へと続く道。歯車はそのためだけに動き続ける。その時エイバスはそんな魔女の道から外れたミサとはもう会うことはないだろうと思った。
しかし、歯車は道から外れたものを見逃さなかった。
「エイバスエンディア様。黒き魔女の討伐をお赦しください。そして、御助力頂きたいのです」
ミサがミガスの隣国ルードリアにいる魔女を殺したのだ。理由はよく分からなかった。少し驚きもした。しかし、すでに陰りを見せ始めていたルードリアにとって、魔女を失うことは滅びを意味したのだろう。他国に助けを求めたルードリアに応えたのが今のミガス国王だった。もう既に悪評の高かった彼女に、エイバスも全く躊躇しなかった。
なんと言っても、魔女が魔女を殺すことは魔女界でもタブー視されていることだったのだから、戸惑うこともなくドラゴンを使役した。
ミサ相手に手を抜くつもりはなかった。だからドラゴンの中でも一番気の荒いもの。火龍を用意した。しかし、彼女はエイバスが思うよりもずっと簡単にドラゴンを始末し、瞬く間に城の中央に位置する星読みの間にいたエイバスの元に現れたのだ。ここに来るまでには火龍とここの結界があったはずだ。それをいとも簡単に破ったミサ。あまりのことに驚いたエイバスは強敵を前に腰を抜かして動けなくなってしまったのだ。
「あんたは何にしてやろうかね」
その時のエイバスはまだ知らなかった。ドラゴンの後ろから自ら指揮を執り、騎士団を率いていた勇敢な国王がすでに騎士団もろともネズミにされてしまっていたということを。
そんなことに気づく時間すらなかったのだ。
睨みをきかしたエイバスの目にはこれから起きることがさも楽しいという嫌らしい魔女の顔が映っていた。ミサは偉大なる魔女だ。おそらく、直接の対決でエイバスが勝てるわけがない。だから、次にミサが言葉を紡ぐ前に口を開いた。しかし、それは、呪文でも何でもない言葉だ。
「きっとあなたは他人を幸せにすることの出来る呪文も知らないのね。かわいそうな魔女。だから、偉大な魔女だなんて認めない」
きっとミサは分かりたくないだろうし、分かろうともしないだろう。だから、彼女は否定しない。そう思った。
「あんたの嫌いなゴキブリなんてどうだい?」
複雑な術式のくせに、簡単な言葉で術を繰り出す。それがミサだ。エイバスがそれに追いつけるはずがない。
その時はすでに悔しいなんて気持ちはなくなってしまっていた。それは生き物が生まれて最初から存在し続けるしぶとい生き物に姿を変えられたから、という理由も考えられた。しかし、ミサはエイバスから魔力を抜いていなかったのだから、悔しい気持ちが湧き起こらなかったのは、エイバス自身の感情だったのかもしれない。
それでも、魔力を失っていないのだから、魔女として国に仕える勤めも果たさなければならないと、まず国王を探すことにした。もちろん、この姿では相手が人間であるという危険はあった。この姿で意思を疎通させることの難しさもあるだろう。そんなことを考えていたが、それは杞憂に終わった。すでに国王含め、騎士団もネズミの群れになっていて、即座に仕留められるという事態は避けられたのだ。
ネズミに変えられた国王の術式は比較的簡単だった。人間の寿命を考えてくれたとは考えにくいが、エイバスの術解除に掛かった五十年に比べれば、十年は本当に大したことない。
いや、人の寿命の十年と魔女の五十年を比較するならば、人間に与えられた制裁の方が小さくなかったのかもしれない。人に戻った国王はエイバスと違いずいぶんと老いさらばえていた。しかし、彼はエイバスに部屋を一つ用意してくれ、人の手から護ってくれた。食べ物もおそらく残飯ではなかったはずだ。何にしても、ゴキブリを愛でる国王の図というものはあまり好ましいものではなかっただろう。
そんな五十年の日々。
術式の解除のために一日の時間のほとんどが費やされたわけだが、それ以外の時間に思っていたことが本当につまらないことだった。
あぁ、真っ白なドレスに真っ白な帽子、真っ白なマントに、真っ白な肌に戻りたい。そればかり望み、ガラスに映る自分の姿を見る度に嘆く。エイバスは幾度も己の姿に寒気をもよおし、その己が姿を呪いもした。
魔力を抜かなかったのは、もしかしたらそんな風につまらないことに苦しむエイバスを馬鹿にしたかったのかもしれない。苦しめたかったからなのかもしれない。
つまらないこと。私にはそれが大切なのだろう。星の定めに縛られないようなものが。ミサには分からない、つまらなくてしょうもないものが。
そして、今エイバスはそのつまらなくて、しょうもないことをしようとしている。
雪の下。放っておけばいいかもしれない生き物の声がするのだ。
『まじょさま……どうかおねがいします』
僕を人間の子どもにしてください。
しゃがんだエイバスの手にかざされた雪がその温かさに溶けていく。ぬくもりを放つのは、その生き物の命の可能性だった。
「まだ生きているのね」
エイバスは光彩の中にある黒い塊に語りかけた。
『あぁ、いだいなまじょさま。どうかおねがいします』
黒い子猫が今にも消えそうな命を灯した瞳をわずかに開いた。
「ごめんなさい。私にはそんな芸当出来ないの。だけど」
本当に偉大な魔女であるミサなら叶えてくれるかもしれないわ。
エイバスにはミサのことが分からない。しかし、エイバスとは違うということも確かなのだ。
「ぼくね、おかあさんの子どもになって、たくさんお手伝いしてあげたいんだ」
おかあさんね、足が痛いんだって。ぼくが代わりにお買い物してあげたいんだ。おかあさんね、腰が痛いんだって。もう、ずっと寝ているんだ。だから、ぼくが代わりにお掃除してあげるんだ。
だけど、もう動けないんだ。
だから、なるべく早く帰りたいんだ。
「そう、優しい子なのね。じゃあ、何年かかろうとも、あなたが願いを叶えた時にはここに戻ってくるようにしておくわ」
その後すぐにエイバスは国王に謁見し、ミサのいる空間とエイバスのいる空間を分けた。この空間を開ける鍵は彼が人の子になった時。それまでは彼もこの世界の時間に縛られなくなる。そんなエイバスの企みなど知らず、ミガスの国民たちはミサの脅威を遠ざけることに成功したエイバスを称え「エイバスエンディア様、万歳」と喜び合った。
ミサならすぐに見破るのかもしれないけれど、力尽くで開けようと思えば開けられるのだろうけど。
「ミサ、私からの贈り物よ。あなたほどの賢さがあれば、この子の願いも叶えられるし、どうすることが良い結果なのかくらい分かるわよね。あぁ、幸いあなたの好きな黒色だから、受け取ってよね」
私もあなたの見ている世界を見てみたくなったのよ。
白いリボンをつけられた黒い猫が森の奥にある木戸の前でミサを呼ぶ。ミサは鬱陶しそうな表情を浮かべながら、空を見上げる。
「まったく、変なものを送りつけてきよったわ」
ミサの声に猫が「にゃあ」と返事をした。