歯車がゆっくりと動き出す。
帰ろうと決めた時には雨が強くなっていた。防ぐ方法の無い俺を嘲笑うかのように、どんどん雨が強くなっている。
「帰るか」
ずぶ濡れになりながら俺はシャロの待つ路地裏に歩を進める。
気持ちではこの寒さには慣れていた。でも体が慣れることは無い。現に、体内が熱を持ち始めていることに俺は気付いた。ふらつく足を何とか制御して路地裏に向かっていると、一つの声が俺の意識を止めた。
「おい、バローズさんから連絡あったぞ」
「何かあったのか?」
「ああ。金が手に入ったらしい。取りあえずアジトに帰ってこいだってよ。話によると奴隷都市に出品した人間が売れたらしいぜ」
「まじかよ。これでまた当分、遊べるな」
二人の男達が不敵な笑みを浮かべながら話している。
バローズ? 確かこの都市で悪評高い奴だったな。
奴隷都市? それはあの扉の先にある都市なのか? そんなのどうでも良いか。
それよりあいつらが言っていた、『当分遊べる』って。つまりそれくらいの大金が手に入ったって事だよな?
男達の言葉を紡ぎ、一つの単語が頭に広がった。
俺は一度、唾を喉に通し考える。
行くべきか。それとも諦めるか。行ったとして悪評高いバローズから金を盗めるだろうか。もし失敗したら――考えたくないな。じゃあ諦めるか。諦めてまた盗みで生活を繋いで行けるか? 分かんねぇ。
壁に寄りかかって俺は考える。そして息を吐いた。吐いた息は白色を纏い、空中を彷徨っている。俺はそれを目で追った。俺の吐いた白色の息がやがて一つの物によってかき消された。
それは香ばしい匂いを纏った湯気だった。湯気の正体はジュワッと肉汁を纏った串肉だった。持ち主の人間が串肉を口に運ぶ。
串肉の匂いが俺の鼻から侵入して胃を刺激させる。
金があったらあの肉をシャロにも食わせられたな。
ふいにそんな事を考える。そしてそれが俺の答えでもあった。
リスクを負ってでも今回の件は見返りが大きい。もちろんリスクもかなり高いが、成功すればシャロにたらふく食わせてやれる。だったら諦める理由が俺には見当たらない。
覚悟を決めて、俺は男たちの後を追う事にした。
男たちはどのようにして金を使うかで頭がいっぱいの様だった。二人はにんまりとだらしない表情で歩いており、こちらに気づく気配はなさそうだ。
都市№00は誰が見ても貧困な都市だ。俺らのような孤児はそこら中にいるし、建っている建物も全てがボロい。道は整備されてないし、この都市を守る警備兵もやる気を感じない。
そんな都市で数年前からバローズという名が有名になっていた。元は別の都市出身らしく、その伝手を使って、大金を手に入れ、毎日遊び設けているらしい。
俺が聞いた別都市の噂も、発信源はバローズだと思っている。
しばらく男たちの後を追ってると、街外れに出た。辺りには背の高い木々が並んでおり、その中心、開けた場所に幾つかのテントが建っている。
俺はそこで男たちと距離を取り、木に身を隠した。
「ここか……」
テントは四つ。先程の男二人を入れて、人数は十人ぐらいだろうか。その中にバローズは含まれていない。
「取りあえず近寄らねーと」
俺はかがみ歩きで木から木に移動する。移動してる最中に一つのテントに人が集まっていた。
「これで全員だな。以前、奴隷都市に出品した糞女が中々の値段で売れた。これはお前らあっての金だ。今からその金を分ける。中に入れ」
もっさり髭の男――バローズ――がテントから出て来て、饒舌に口を動かす。周りの男たちはみんな気分良さそうにバローズの後に続いて中に入っていく。
「あのテントか」
金が置いてあるだろうテントを確認して、ゆっくりと近寄る。俺が確認した奴らはみんなこのテントに入っていった。
俺はそのテント近くで足を止める。
ここからどうするべきか。テントに突入するか? 何か気を引くか……頭を回転させたくても空腹でボーっとしてしまう。
「おいっ! そこで何してる」
体が脈を打つ様にビクンと揺れた。声がした方に振り向こうとした時には既に腕を掴まれていた。
「しまっ――」
うかつだった。見張りの一人や二人想定しとくべきだった。空腹と体力の限界でそこまで考えられなかった。
俺は顔を引きつらせ、背後を確認する。俺の腕を掴んでいるのは丈夫な体を持った男だ。街にいる人間同様に小汚い恰好をしているが、少しは裕福に暮らしているのか、体つきは良い。
「お前、ここで何してる」
「ちぃ。くそっ……!」俺は体を思いっきり回して、男の首元に蹴りをお見舞いする。弱弱しい蹴りだったが、男を油断させるには十分だった。
俺を掴んでいた男の力が抜けていく。その瞬間を見逃さずにすぐさま振りほどいた。
「おい、待て」
潰されそうな声で逃げる俺に男が言う。事態に気付いたのか、テントからバローズたちが出て来た。
「おい、どうした!」
「あいつだ。あの野郎に金の事がバレたかも知んねー!」
「ちぃ。おいてめーら。あの野郎を探せ! 警備兵にチクられたら厄介だ! ほら行け!」
地面が揺れる音が大きくなった。
後ろを振り向くと十人以上の男どもが追ってきている。どうやら他にも仲間がいたらしい。
くそ。しくじった。捕まる訳には行かねぇ……。
でもどうする? このまま街に帰ってどこに行く? 行く当てはあるか。いや無い。路地裏に行くか。ダメだ。シャロが危険に晒される。
頭をフル回転させながら俺は走る。必死に、全力に。空腹や疲労を忘れて俺はただひたすら走った。
ようやく街が見えて来た。活気のない街。建物も人も空気も何もかもが活気なく、静かな街。そんな静かな街に男たちの怒りの声が響く。
住人は男たちを見て、その恐ろしい顔つきを恐れて道を開けて行く。
くそ。くそ。くそ!
俺は水たまりを蹴っ飛ばし、角を曲がった。細い道を小さな体を活かして抜けていく。やがて男たちの声が遠のいて行った。
俺は細い道に寂しく捨てられたゴミ山に姿を隠した。
考えろ。この先どうする。相手はバローズだ。悪評高く、きっとこの都市でも色々な伝手があるはずだ。今を乗り切ってもこれからどうだ? 今以上に周りを気にして生きないと行けない。幸い顔は一瞬しか見られてないが、もし覚えられていたら……。
ダメだ。ここを切り抜けてもこの先のビジョンが想像出来ない。
行く当てが無いって、こんなにもきつい事なのかよ。
俺は自分の耳に手を当てた。尖った耳。それ以外は他の人間と同じ見た目なのに、この尖った耳が俺たちをこんな惨めな生活に追い込んだ。俺は改めてこの都市を〝差別対象〟という言葉を憎んだ。
「おい、ここら辺だぞ」
心臓が潰されそうな感覚に陥った。鼓動が耳近くでするかのように音が大きく聴こえる。脈を打つ音も血の流れさえも敏感に判った。
――バレた。