ある悪魔と人間の話
「君が好きなんだ」
驚く程に真摯に、そして目を逸らしたくなるほどに真っ直ぐに――そんな好意の伝え方だ。
しかし、ボクは読み掛けの本を無造作に閉じ、宙に浮いたその存在を見上げた。
「信じられないね」
長椅子に座ったボクは、傍らに置いていた自分の鞄を引き寄せ、その中に本を放り込む。
その間も宙に浮いたままの存在を見上げていたが、形の良い眉が眉間に向かい、ぎゅう、と歪められる。
「なんで」言葉が詰まったような、それでいて問い詰めるような、そんな問い掛けに、腰を上げながら答えた。
「だって君は悪魔だろう?」
ふわり、宙に浮いていた存在が傾く。
まるで綿のように柔らかそうなミルクティーのような色をした髪は、少しばかり暖色が強く、光を浴びるたびに太陽のように光った。
神様や天使の描かれたステンドグラスから差し込む光が、少し弱まる。
目の前の存在は、そう、悪魔だ。
その姿の後ろで気ままに揺れる尻尾の先は逆ハートになっており、犬や猫ではそうはいかないだろう。
そうして音を立てずに広げられた羽は、黒く、そして大きかった。
天使ならば柔らかそうなものだが、悪魔の羽というのはどことなく固そうで、直線的だ。
色素の薄そうな――そもそも悪魔に色素という概念が存在するのかは知らないが――髪にそれより少し濃い茶混じりの瞳は、どちらかと言えば天使寄りだろうか。
それでも、人と似たような容姿をしても、天使の方が似合いそうな柔和な顔付きでも、肩書きは悪魔だ。
堕天使の方が、まだ、納得が出来ただろうに。
「……何はともあれ、悪魔の好意を受け取るなんて、身を滅ぼすだけじゃないか」
悪魔のくせに、人間らしい顔の歪め方をする。
今にも泣き出しそうな顔だ。
「堕落のためじゃない。俺は本当に、君が好きなんだ」
悪魔は本来人間に好意を抱くことはないのだろう、それを踏まえて、余計、更に、目の前の悪魔が悪魔らしからぬ、と思う。
ふわりと地に降り立ち、願い乞うように手を伸ばしてくるので、身を逸らして避ける。
これは悪魔らしく、苦労を知らなさそうな白く少し骨立った、艶のある爪の並んだ手だった。
身を滅ぼすのはごめんだ。
怠惰は良いが、堕落したいわけではない。
鞄を肩に引っ掛けながら、首に巻いた包帯を爪で引っ掻く。
行き場を失った小綺麗な手が目の前にあるが、それとは似ても似つかない、骨と皮で形成されたような手と厚みの酷く薄い艶のない爪を見下ろす。
「好きなだけそう言っていてくれ。ボクは悪魔が嫌いだよ。どうか、他所へ行ってくれ」
***
「好きです」
「君が誰よりも」
「ねぇ、なぁ」
「好きなんだ」
「こっちを向いて」
「好きです」
「好きなんだ」
***
「ねぇ」
読んでいた本を閉じる。
傍らの点滴スタンドを引き寄せれば、ガラガラと音を立てるが「うん」返事は聞こえた。
「お願いだから、何処かへ行って。春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、それが終わって一年が経っても君がいる。とても嫌だ」
教会に足を運ぶ機会が減り、とうとう教会へ向かわなくなっても、その悪魔はボクの周りをうろつき続けた。
君は悪魔だから、傍に居ると天国に行けなさそう、だなんて憎まれ口を叩けど、天国だ地獄だという概念が薄いボクにはイメージし難い。
ただ、そう、何か、上手くいかないような、後悔とか心残りとか、そういうのは本当に要らなかった。
点滴スタンドに掴まりながら立ち上がり、ガラガラと引っ張って歩く。
その間も、ふよふよと宙に浮いた悪魔はボクの後ろを付いてきて「君が好きなんだ」と繰り返す。
「魂をもらうとか、そんなことは思ってないから」
甘ったるい花の匂いが混ざった風が頬を撫でていき、ガラガラ、雑音に掻き消されない声は相変わらず言葉を続ける。
「ただ、うん、って頷いてくれるだけでいいんだ。それだけで俺は満足なんだ。お願いだから」
「駄目だよ」
持っていた本を空へと放り投げる。
バサバサと紙が音を立てて落ちていく。
広い屋上で屋上へと続く扉の施錠はされておらず、その癖、柵が低い。
腕に刺さった管を引き抜きながら「だって」口を開く。
色素の薄い髪が、太陽のように光り、茶の瞳が見開かれる。
「君、悪魔だもん」
点滴スタンドを倒して、ボクもボクの体を投げ捨てた。
***
「君が好きです。信じてはくれなかったけど、俺はずっと君だけが好きなんだ」