我輩という名の猫
我輩は猫であると猫が言った。
なるほど猫か。ならば吾は魔女だがと皮肉で口にすると猫がつんと顔を背けてしまったではないか。
【すまぬ。このよくわからん世界にやってきてはじめて話の通じそうな相手がお前なのだ。許せ】
【構わんがね。で、ほかの人間連中に言葉は通じるのかい】
猫が自分の足を舐めつつ訊ねてくる。
うむ。とアンスリウは頷いた。
【幸い翻訳魔術は通用するようだ。猫に通じるならば人にも通じよう。問題は吾とこの世界の住民の知識自体がまるで違うことか。下手すれば衛兵に捕らえられてしまいそうでな】
異端者は火炙りの時代を見てきた魔女は周囲の視線を気にしつつ言った。
【衛兵? そいつは知らんが警察ならいるぞ】
【けいさつ?】
不思議な響きの言葉だった。慌てて聞き返す。何せ猫は気まぐれだ。
【酒飲んでへろへろになったおっさんを引っ張っていくしか脳のない連中だが糞真面目で頭が切れる】
【評価が矛盾しているようだが? まあよい。で、どのような格好だ】
【ほれ】
猫が顎をしゃくった。アンスリウが視線をあげると、深い紺色の制服を着こなした男たち数人が繁華街の方角へ歩いていく場面が見えた。
アンスリウは男たちの格好を見て首を捻る。
【随分身軽そうな格好をしているな。この国は平和なのか。老いた老人が道端に捨てられるでも無し、飢えに苦しむ民が列をなしているでもなし。奴隷の小間使いが主人の後をついているでもないようだ】
アンスリウの世界からすれば、この世界はまるで天国のような豊かさだった。
猫がくああとあくびをかみ殺す。
【そのようだが我輩にわかるわけ無いだろう。人の事情など知ったことではない。とにかくやつらがパスポートがどうの言い始めたら面倒だぞ。持っていないと牢屋にぶち込まれて拷問されるらしい】
元の世界で衛兵といえば傲慢な態度で迫ってくる嫌なやつらという印象があったアンスリウは、顔をしかめた。
ブランコに腰掛けたまま足をぴんと張る。
【ぱすぽーと……とな。通行手形のようなものだろうか? あるいは身分を示すものだろうか】
【知らん。でどうする魔女さんよ。持ってないなら連中に捕まってしまうぞ】
【魔術でごまかせばよい……が猫よ、魔術師が久しいということはこの世界にも魔術師がおるのだろう。下手に刺激するのはよろしくない。吾が同じ立場ならば捕まえて異世界の魔術の神秘の度合いをはかる材料につかうところだ】
異世界から落ちてきた魔術師がいたとしよう。アンスリウならばこっそり実験体として回収してしまうか、髪なり唾液なりを採取しにかかる。要するに宇宙人がやってきたらということだ。研究せずに素通りする枯れた学者がいるだろうか。
本質的に魔術師とは科学者である。錬金術が科学の礎を築いたとも言われるように。
一方猫は酷く退屈そうにあくびをかみ殺していた。殺しきれず漏れた。
【へぇ。で? 使ったほうが賢明と思うがね】
【使うしかないのか……ときに、かくまってくれそうなものの居場所を知らぬか】
【知らないわけじゃないが我輩にとって情報は金貨より重い。手は貸すがね。第一目標として我輩の飼い主を探すことを設定しろ】
尊大なそぶりで猫が言う。尻尾をぱたぱたさせながら。
ははんとアンスリウが口元に薄い笑みを零した。
【ぬしは野良猫脱却を狙っているのか。クク。よいよい手を貸そうぞ。ついでに吾も飼ってもらおう】
【言い方は気に食わないがそういうことだ。協力しろ】
アンスリウがごく自然な動作で猫を抱き上げる。胸元に抱こうと上半身を持ち上げる。視線がやや下がった。
ついてない。つるーんという効果音が聞こえてくるようだった。
胸に抱くと無意識的に頭をなでる。
【メスかぬしは】
【今頃気がついたのか?】
小ばかにするような声が癪に障ったのかアンスリウがむっつり唇を結んだ。
歩き出す。公園を出ると道を歩く。
容姿端麗な金糸を垂らした青い目の少女が猫を胸に抱いて歩いているのだ、道行く人は振り返る。のが普通だが認識を阻害する魔術を作動させているせいか見向きもされない。
アンスリウはけほけほと咳をしていた。
車は排気ガスを排出するものだ。ものを燃やすということは、とある物体を別の物体に換えているということなのだ。
元の世界で排気ガスなどというものはなかった。馬車も煙ではなく馬糞を捨てるのが関の山。不純物の無い空気を吸って生きてきたアンスリウの嗅覚は排気ガスを酷い臭いと認識しても不思議ではなかった。
【妙な臭いが充満しておる。あの勝手に動く鉄の馬車が吐き出しているようだが】
【普通の反応だな。人間ときたら鼻が利かない間抜けばかりで魔女殿のように気がつかない】
【殿はよさないか。吾はアンスリウ。偉大なる古王の血統を受け継ぐ魔女ぞ】
【はいよ魔女殿】
【ぐぬぬぬ】
まるで相手にしてくれない。悔しそうに唇をかみ締める魔女の腕の中で猫が鳴く。
にゃおーん。
アンスリウが歩いていく。目的地が無いだけに道路をひたすら歩いてみたかと思えば、いいにおいを立てる屋台へと危うく吸い込まれそうになったりする。
ならぬと首を振って耐える。
電柱を見上げる。黒い紐が電柱の間を渡されている。意味がわからずに首を捻るも「そういう謎の技術があるのだな」という認識で済ます。
人間にせよなんにせよ意味不明な事柄を前にすると逆に理解してしまうのだ。すなわち理解の及ばない現象が目の前にあるのだから諦めてそういうものと受け入れよと。
アンスリウが点滅する灯火――信号機に差し掛かったところで事件が起きる。
丸い謎の装置――ハンドルに突っ伏したままの男が乗ったトラックが猛スピードで疾走していくではないか。
見ていると黒い道に白い――横断歩道の真ん中には腰を抜かしてへたり込む一人の男がいる。
アンスリウは以前馬車に轢かれた娘の末路を目撃したことがあった。馬に跳ね飛ばされ、馬車の下敷きにされた。腕や足が妙な方向に曲がった死体が転がっていたのだ。馬車よりも速い鉄の塊が衝突すれば命は無い。
思わず猫を取り落とすと、袖に隠した杖を手元まで引き寄せて振った。
「たわけが! 腰を抜かすなど男子あるまじき行為ぞ!」
空間転移。自分の体を丸ごと別の座標軸へと移動させる奇跡の技。
呪文の詠唱が必要なはずのそれを瞬時に作動させることができるのはさすがと言えよう。
男の襟首を掴むと、再び転移を実行。長距離転移は叶わずに近距離転移となった。変則的な投げで男を地面に転がす。
「ぐえっ」
男からすればひき殺されそうになったところで突然ローブをまとった少女が出現し襟首掴んで倒されたようにしか感じ取れない。
トラックがスリップした。タイヤが地面を噛み切れずに車体が横滑り。立て直そうとする力が働き今度は逆に倒れ掛かる。
群集の真っ只中へ飛び込んでいくのを見てしまっては根本的に善人のアンスリウは動かざるを得なかった。
杖を振ると、一言二言を呟く。
途端に車体が不自然に持ち上がると放物線を描いて群衆の群れを避ける。空中で奇妙に方向転換すると、人気の無い歩道へとゆっくりと着地した。ただし上下逆さまで。
遅れて悲鳴が上がると人の群れが逃げ出した。
目を回して地面にてかがんでいる男へ、アンスリウが声をかける。
「危うく死に掛けたな。と……あぁなんということだ」
アンスリウは頭を抱えていた。密かに協力者を探すもとい猫の飼い主を探してやろうとしたのに、まさか命まで救ってしまうとは。
白昼堂々と魔術まで行使して。
男はアンスリウを惚けた表情で見つめていたが、すぐに真顔に戻った。
「女神様?」
ぽつり呟かれた言葉ににやにやが隠せなくなったアンスリウはえへんと無い胸を張ってみせた。
「うむ? 女神ではないぞ。吾は古王の偉大なる血統を受け継ぐ魔女アンスリウであ いたぁっ!?」
足に猫がかぶりつく。思わず仰け反ったアンスリウに声を荒げて言った。
【よくも我輩を投げてくれたな。ツケは高くつくぞ。まず、この男と我輩を連れて人気の無い場所に逃げるべきじゃないのか。魔女殿】
確かにそうだ。
アンスリウは強引に男の手をとると駆け出した。