第十三話「外道の決断」(2)
知立景経。
旧姓は篠部と言う。朝廷領北東の諸豪族の大家七氏の一氏である。後、その家来筋にあたる知立家に婿養子入りし、その姓を用いることになった。
その性分は温厚そのもので、滅多に怒ったことなどない。いやむしろ、喜怒哀楽いずれも表現したことがないのでは、と思いたいぐらいに、表情には乏しかった。
万事がわずらわしいとった具合の、その目つき。怠惰な気配を匂わせているので、「寝ているのか」「ちゃんと人の話を聞いているのか」と詰問されることは珍しくない。
本人からしてみれば、いたった真摯に接しているのだが、そう弁明する語尾は間延びし、いかにも緊張感というものがなかった。
それらの言動は、人の憐憫と嘲笑を同時に招くことになっていた。
彼とは対照的に、本家を引き継いだ長兄は、覇気を全身に常に漂わせた豪傑であった。
その筋骨はまさしく断崖の巌そのもの。鯛の骨さえ食らうというほどの健啖家。大岩を担いだままに広間の四隅を練り歩く豪腕。
何種もの兵法書を諳んじる英知。
一度怒れば萎縮しない者などなく、一度笑えば場は陽光に照らされたかの如く。
いつものように眠たげな景経の婚姻の儀のこと。
一目出会って惚れ合った彼の花嫁を、兄がそのまま愛馬に乗せて脱出し自らが娶ったという話は、横暴を超越して痛快事として知られている。
男は、暗愚と称された弟に大敗し、情けなく和を乞うも、赦されず、殺害された。
怨恨ではなかった。
そも、彼は兄や兄嫁を憎んでもいなかった。その代わり、愛してもいなかったが。
その景経、増援を率いて禁軍の幕下に馳せ参じた時には二十三歳。
敵も味方も、そして帝さえも。
この戦の主だった者らは皆、等しく若かった。
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風の強い日であった。
真綿の色形をした小さな雲が一つ、木っ端のように流れていた。そのはるか高みにある澄んだ蒼穹だけは、美しい輝きを見せていた。
「敵を弁才寺に封じ込めたのは、少々失敗でしたかね」
禁軍陣中の末席に腰掛けていた若い男は、大将の方角を見ずにそう言った。
「追い詰めるあまり敵は堅城にて死兵となってしまった。これは落とすには時が要るでしょう」
その眠たげに細められた双眸は、もっぱら掌に置いた浜納豆へとそそがれ、時々それを思い出したかのようについばんでいた。
「不遜な」と眉をひそめる者も少なくなかったが、同類相通ずるところがあったのかもしれない。その首魁たる信守は、口の端を軽く吊り上げた
「言ってくれる。なんだったら貴殿らに奴らの本隊を押しつけてやっても良かったのだぞ。景経殿」
冗談めかしく脅してみせる信守に対して、その援軍の主導者は力なく肩を下ろして言った。
「その時は、我らとしても打つ手がなくなります。となれば神にも仏にも妖鬼にもすがりましょう」
「ほう?」
「北東の霊峰には、大天狗殿が鎮座しています。その者ひとたび動けば木々を根絶やし、鉄を穿つほどの暴風を巻き起こすとか。彼に泣訴し貢ぎ物を捧げ、神通力を貸していただくほかありません」
信守は彼の言葉を聞いてますます笑みを深めて歪め、他の者は忌々しげに顔を苦らせた。
別段、彼らとてそうした伝承を信じているわけでも、まして知立景経が本気でそれを信じているとも思ってはいなかった。
北東の大天狗。すなわち風祭康徒の意。
彼は砂道木金を謀殺した後も仕置きと称して江名府に居座り、後背から反乱勢力の土地を切り取り、諸勢力に圧力をかけている。彼への恭順か、それとも朝廷への帰順か。それを秤にかけている、と彼は暗に示唆しているのである。
「で、その天狗は山から下りる気配はあるか?」
そう問われ、知立景経は虚ろな表情で口を半開きにした。
そのまま固まる顔はなるほど、うつけと呼ぶには、そう思われるには十分だった。
だが面筋の裏で、脳髄が打算の下に回転していることは、先の戦ぶりとその前後の国内切り崩しの謀略が証明している。
「さて。少なくとも、この城に風を吹かせる気はなさそうですが」
「貪欲妖怪」
風祭府公弟をその四字で評価し、締めくくった後だった。
貴船我聞が陣中に入ってきた。
王土よりの使いを応対していた彼は、陣の口でつまずいて転んだ。
「……おい」
いつもは大笑するはずの性悪大将は自らの副将の変調に眉をひそめた。
「申し訳ありません。それよりも朝廷よりの侵攻の期限の通達と、上社家の私信が……若君より」
差し出された二通の書状を、信守は水菓子でももぐように我聞の指から奪い取った。
その彼は、少しの間見ないうちに十年も二十年も歳を経たような憔悴を見せていた。
人知れず小刻みに震える指は、まともに力さえ入っていないように思えた。
信守は……平素斜に構えて人を直視しない男は、この時腹心の顔を見上げた。軽く息を呑み、わずかな間の後に唇を苦く噛みしめた。
蒼天を仰ぎ、忌々しげに目元を引き絞る。
「我聞」
「は、はっ」
「帝には、期日は一月延ばすように伝えろ。そうしてもらえれば、労せずして落とせる」
そう言って二通の文の片割れを突き返された我聞はつとめて冷静に振る舞いながら、睨むように見上げてくる。
「……何卒、もう一方もご覧くださいませ」
「後で読む」
「何とぞ……っ」
彼の忠言は、日常的に行われている半ば呆れたような、諦めたようなものではなかった。常にない必死さで食い下がってきた。
それを前にした時、信守の中での予感と直感は、確信へと顔を変えた。
「帰れ、貴船我聞。そしてお前の娘の葬儀を取り仕切れ」
驚きに見開かれる義父の目には、果たしておのれはどういう貌に映っていたのだろうか。
十年前、父を喪った時と同じ虚脱感が自身を苛んでいた。責めていた。まだこうした感覚が自分の神経を通っていたのかと思うと、いささか驚きではあった。
そして同じ感覚を味わう機会はもう二度と、なくなるだろうという実感が、冷気となって胸を占めた。
「俺がこの場を離れるわけにはいかんだろう」
「殿ッ!」
「……死んでしまった者に、今更かける言葉も詫びもあるものかよ」
私的に急ぐ理由は完全になくなった。己の敗北感と無力感と共に、内から流れ出た。
悲か、怒か。
こみ上げるものをこみ上げるかのように唇を閉じた我聞は、一礼をすると踵を返して退出した。
その裏で、水樹陶次だけが微笑んでいた。
※間違いなく、この頃は陶次の黒歴史です。




