第十三話「外道の決断」(1)
上社信守は弁才寺を包囲したが、力攻め自体は行わなかった。
あくまで包囲を続行しつつ、打って出る敵あればこれを散々に打ち破った。
兵糧や援軍を求めて脱出しようとする敵あらば捕斬した。
主に見切りをつけて脱走する離反者あらばこれを許し保護した。
そうして直接敵を攻めず、心理を苛むやり口は、とても二十代の若者とは思えない老獪さであった。
何より驚くべきは、これが信守にとっては初の包囲と攻城である。
だが、副将貴船我聞には、自らの主君がそんな己に苛立っているように思えた。
我聞とて、今のやり方に非があるようには思えない。むしろこれこそ自分の悲願とも言うべき「まっとうな戦」である。
ただでさえ守備側は精鋭ぞろいで、この『城塞』は堅固。戦意衰えたといえど実数はこちらより多い。むやみに攻めれば窮鼠となった相手に手痛い反撃を被るであろう。
それでも数に勝る敵があえて打って出ないのは、その裏手に知立勢が迫っているがゆえである。その大将、景経の才気と兵力が合流すれば、敵を完全に上回ることができる。
敵の連絡と補給を断ちつつ、援軍の到着、敵の士気が底まで落ちるのを見計らい、降伏ないし雪新を自刃に追い込む。それが常套である。
だが、我聞には懸念もあった。
彼が振り返った先には新調されたばかりの真白な陣幕がある。
だが彼が目を凝らして透かして遠見した先には、数里先の一揆の蜂起が見えてくるようで、そして荒ぶる彼らの怒号が聞こえてくるようであった。
「お殿様を死なせちゃなんねぇ!」
「オラ達も加勢に行くべっ!」
雪新の仁政ゆえか、あるいは自らが孟玄府の民であるという帰属意識からか。
しきりに周囲で孟玄府領民が騒いでいるのは確かであった。
さすがに直接攻撃をしかけてくる、ということはなかったが、民のため、国を良くするために立ち上がった英傑、天童雪新の評判が国内で悪かろうはずもなく、根強い反感を肌に覚えさせた。
「国や主君、理想に忠誠を示す、そういう自分に酔って吠えてるだけよ。おのれからは何も動けん、放っておけ。……後で使い道が、ないわけではない」
そう言い捨てた信守にはやはりどことなく、平時のような切れはない。
迷い、躊躇。
上社信守にはおおよそ不釣り合いな言葉が、我聞の脳裏をよぎった。
「攻めろ?」
信守の低い声が、我聞に軍議が進行中であることと、自らの立場を思い出させた。
「はい。我らの独力だけでも、十分にここは落とせます」
「いずれ労せず手に入れられるものを、あえて急げと」
「多少の被害は出ましょう。ですが、それだけに得るのも大きいのもまた事実です」
その提案は、功を焦る元第四軍の者らの日々主張することと同じであった。
だが今回意外な人物が提案してきたことが、周囲の耳目を驚かせた。
信守もいつもなら一笑に付したり、聞き流したりしたであろう。
その彼でさえ今回の発言者、水樹陶次には意外さと疑念の眼差しを向けた。
「無論、それだけではありません。信守卿の今後を分かつ重要事ですので、あえて身分の序列をわきまえずに申し上げます」
過激なことを常と変わらぬ笑みで提言する。
そんな若き才人を、上社信守は心の臓まで透かすように熟視していた。
「俺の今後、な」
あまり気乗りしないように信守は呟いた。
膝の上に肘を置き、その肘を、頬を支える杖とする。
凡百の者であれば、それだけで萎縮してしまう信守の座り姿だが、陶次は物怖じせず、涼やかに進言した。
「そもそも、何故帝が信守卿の帰国を許さず、そのままこの寺の包囲と陥落をお命じになったか。兵力に不安があるのを事前にご承知あそばされたにも関わらず、今になって増援をお認めにならないのか。聡明な信守卿にはすでにご承知であることかと思いますが」
「知らんな。さっぱり見当もつかぬ」
あえて持ち上げられるような言い方をすると、この禁軍の大将はかえって頑なになってわざと愚者や道化のフリをする。
拗ねた子どものような大人相手にめげることなく、陶次は声を励ました。
「現状、宮中の勢力は二分されようとしています。すなわち宰相たる星井様と、帝ご自身の勢力とにです。自らの望む均衡を保守したい星井派と、人材面、政策面に欠陥を見出し、それを革めたい帝の御一派。ところが大多数は先帝より絶大な信を受け、絶大な権力を誇る星井様につき、二分と言っても帝の勢力はあまりに微弱。ところが、そこに一石を投じる存在が現れた。それが、上社信守卿。貴殿です」
今まさに、敵の飯炊きの煙さえ見えるほどの、鉄砲の音が聞こえてくる距離で、お互い向かい合っていた。
にも関わらず、陣中は陶次の弁に呑まれて静まり返っていた。
「出陣の当初、帝はそこまで信守卿には期待なされていなかったのでしょう。というより、藁にもすがる思いであったのでしょう。ところが、名将と謳われる四輪を翻弄して完勝した。しかも、ご自身が周囲の反対を押し切り抜擢し、かつ説得したお方が。そこで帝が考えられた」
「この信守を、ご自身の御輿の担い手にと?」
片頬を引きつらせて嗤う当人に、真顔で陶次は頷いた。
「そしてこのまま信守卿お一人に戦功を独占させてしまえば、ご自身の発言力も大きくなる。そして貴殿の権勢を強め、宰相様への対抗馬にされよう、ということでしょう」
「迷惑な話だ。それにお前も、会えもしない人間の心境を、良くもまあベラベラと語れるものだ」
「ただこのまま帰国なさったり、功を知立殿にお譲りになれば、かえって帝のご心証をそこね、また宮中での評判も貶め、両陣営より敵視され、孤立してしまいます」
信守はそれには答えなかった。
老人のように、大儀そうに腰を床几より持ち上げる。
ずかずかと諸将の間を横切りながら、声高に自らの意思を伝えた。
「知立勢の来着を待つ。せっかく負担を軽くしてくれるというのだ。せいぜいそれに甘えるとしよう。他人の考えなんぞ知ったことか」
「かしこまりました、ただ」
「ただなんだ?」
すっと目を眇め、柔和な微笑をたたえた彼は、細々と囁くような小声を、信守へと送った。
「内心急いておられるのは、貴殿も同じでは?」
信守はぴたり、と歩みを止めた。
従容として頭を垂れて、水樹は彼の背に囁き続ける。
「失礼しました。ただ帰国なされようとされたのは、その辺りが理由かと愚考しましたもので」
この瞬間、「あっ」と我聞の脳裏に閃く姿があった。
それは病床にある女人、彼の養女の淡い笑みであった。
もはや医師薬師にも手のほどこしようがなく、死期が近いことを覚悟しながら、今この瞬間まで彼女を思い出すことも、その夫たる信守の胸中を察することができなかった。
水樹陶次が、そのことを婉曲に示唆していなければ。
――先の火計における機転、ただ今の見識、そしてこの洞察眼……やはり陶次殿はただ者ではない。
理屈のうえでは得心し、感情の面では感心した。だがそこからさらに踏み込んだ深奥で、我聞はいやな感触を覚えた。
何の前触れもなく頬を撫でられるような、風呂場を覗かれるような。
名状しがたい違和感が、この仏の如き智恵者から漂ってくるようだった。
「陶次」
信守が、彼の下の名を呼んだ。
「言ったはずだぞ。わかった風に口を利かれるのは、俺は嫌いだと」
「はい。……しかし、間違っておりましたか?」
「いやいや、正しい。実にお前は正しい」
空とぼけて、大仰に両肩などすくめて見せる。
「ただ、笑えるのさ。禁中に仕えぬ者が、帝のご胸中を賢しく語る。妻帯せぬ者が、夫婦の情など語る。……うぬぼれるなよ? お前に、人の心は、理解できまい」
その意味深な言葉を聞いた時、あの優美な青年から初めて笑みが消えた。
上社信守は最初からこの時まで、水樹陶次を決して好いてはいなかったのだと、貴船我聞はようやく理解した。
「私が……? 人の心を理解していない、だと?」
そしてそれは、若き水樹陶次にしても同じことであるようだ。




